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2025年12月23日火曜日

左派は絶対に罪を認めない ー統制の所在ー

 政治活動やSNSなどで炎上したり不適切な行為をしたりして、糾弾されることが最近は多くなった。

 その際に、左派の人達はそろいもそろって謝罪を拒否することが多い。稀に謝罪することもあるかもしれないが、それは大分後になって事が大きくなりすぎて、自分が窮地におちいり切羽詰まってからSOSのために行うのが本当のところだろう。実際にはそんな危機におちいっても白を切るばかりか被害者アピールをして、周囲を言いくるめることで火消しをしようとするのが大半だ。

 そんな態度はメリットがないばかりか損失にしかならないにもかかわらず、ここまで自分の罪を決して認めないのは異常である。なぜ、左派は罪を認めることをこれほどまでに抵抗するのだろうか?


 左派の思考パターン


 この左派の態度を解き明かす上で必要なのが、左派の思考だ。左派の思考のベースにあるのが理想主義である。この理想主義、目標に向かって精進・切磋琢磨して、高みを目指すポジティブタイプだと思われがちだが、左派のものは全く異なる。

 左派の理想主義はこれとは真逆で、自分は非の打ち所がなく完璧な存在でなければ許さない、別な言い方をすると自分を汚されたりケチをつけられたりするのが気に入らないという、ネガティブな理由からくるものだ。要はわずかでも自分が不快でブルーな気分にさせられるのが嫌いで、常に心地よい安心できる状態しか認められないがゆえに、不快にならない理想的な状態を目指すというのが目的なのだ。

 こういう心理をはらんでいるから、当然彼らは自己責任を一切認めない。自己責任を認めてしまったら不快になる要素を受け入れざるをえないからだ。よって彼らは必ず他責にするし、被害者ポジションを取ろうとする。何かあったら他人のせい、政治のせい、環境のせいと言って、自分にはどうすることもできなかったというストーリーを作り上げる。


 左派にとって謝罪は恐怖


 こういう人間にとって罪を認めるのは、あまりに屈辱的な状況に思えることから強烈に不快感を感じざるをえず、そのことへの恐怖感から忌避の対象となってしまう。つまり謝罪は最大の恐怖なのだ。

 恐怖を感じることをわざわざするのは自分の生死にかかわるので、当然人間は避ける。だから彼らは謝罪を拒んだり、隠ぺいに走ったり、責任転嫁してしまったりするのだ。


 謝罪拒否で逃げることはできても、損にしかならない


 だがこんな行為をとっていてメリットは何もない。あまりにも不誠実にしか映らないし、何より周囲の怒りを買い、関わった人全員から拒絶されてしまう。特に離れるのは善人で、利益をもたらしてくれる人だ。

 幸福にしても幸運にしてもお金にしても、人との良縁が運んでくるものだ。だから幸運という。しかし、自分が謝罪せず不誠実な態度を示せば人との関係は悪くなり、良縁ではなくなってしまう。だから運んでくるものも来なくなり、自分に運ばれてくるのは損だけになってしまう。それは悪運である。





 恥を恐れ、不完全さを認める勇気がない


 こういう話をすると言われがちなのが、ガラスのハートを持っているとか、精神が弱くて脆いとかといったことだ。だがこれは弱いのとは違うし、弱いと言ってしまうとそこから脱却しなくていい理由を与えることになるので、本人のためにならない。実際には自分もまた不完全な人間のひとりであるという事実を認める勇気がないのだ。

 彼らは恥を恐れる傾向が強い。恥をかくことの恥ずかしさや罰の悪さを過大に見積もり過ぎており、それゆえ高い壁があるように見えているのだ。


 左派に必要なのは「統制の所在」の理


 正直左派にとっても今の評判は好ましくないだろうし、今のスタンスのまま続けていても嫌われる一方でしかない。だから改善が必須だ。そのために左派がどうしても身につけなくてはならない社会の理屈は「統制の所在」だ。

 これは何かというと、その一件において自分で変えられる余地があったかどうか、自分に選択肢が複数あったかどうか、自分の決断によるものだったかどうかを検証するというものだ。

 例えば、引きこもりの人で40代で働き口が限られるという現状は確かにある。しかし、就職の可能性は0かと言われればそんなことは言い切れず、わずかとはいえ存在する。である以上、働き口がないせいでこうなったとは言い切れないし、数撃ちゃ当たるというのもあるので自分次第の部分も残されている。なので採用されにくいという点では外部に要因があるが、数をこなしていない、もしくは当たりやすくなるような工夫をしていないという点においては自分に非があるので、一部は自分の責任であると認めるのだ。

 どうしても左派は何か外部要因があると嫌なことから逃げたいがために、全ての責任をその一点に押し付けてしまうという欠点がある。しかし、全ての責任を丸投げされたら周囲からしたら責任転嫁にしかならないから、かえって集中砲火を浴びる。だからちゃんと自分の責任の部分と他人の責任の部分を分けて考えなくてはならない。

 さらにこれをできるようになるためには、100%完全無欠理想の自分ではなく、不完全なところがあっても大丈夫と考えを切り替えることだ。そもそも自然界が不完全なもので成り立っているのに、人間が完全であるなどありえない。だから100%のものなど存在しえないので、自分も他人も世の中も不完全にしかなりえないのだ。そういう不完全なものを受け入れる器こそが必要なのだ。



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