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2026年8月14日金曜日

未経験者がいだく、投資への間違ったレッテル



 年金問題、生活水準、所得格差など、お金の議論になると投資も俎上に上がることがしばしばある。その際に、投資経験者と未経験者の間で認識の違いがクッキリと出る。その多くは、未経験者が投資に対して悪いイメージをもっていて、間違ったレッテルを貼っていることから生じている。

 そこでここでは、未経験者に多く見られがちな投資の間違ったレッテルを暴き、真実を明らかにしていく。


 間違い① 投資はギャンブル


 これは本当によく聞く。当たりハズレがあるもので、ハズレ銘柄を掴んだら全財産を失うと思っている人は多い。残念ながら、これは大きな間違いだ。

 簡単に言うと、投資は積立貯金のようなものだ。定期的に買い集めていって、徐々に総額を増やしていくのが定石である。そう、扱っているものが現金か証券かという違いだけで、やっていることは貯金とそう変わらない。
しかも、長期的には株価は上がるから、年月をかければ差益も大抵手に入る。

 そもそも、投資はギャンブルといいながら、パチンコ、宝くじ、競馬、競艇、競輪、ボートレース、カジノをやっていたら本末転倒だ。それこそ思いっきりギャンブルだし、自分のことを棚に上げている。投資はギャンブルなどと、口が裂けても言えない。

 投資はギャンブルではなく、「貯金」


 間違い② 投資は大金が必要


 これも大きな勘違いである。こういう決めつけをしているということは、単価を知らないということだ。

 実際、私が保有している投資信託のうちいくつかは、分割されて1口あたりの価格が一気に下がった。今現在だと、ひとつは約230円、もうひとつは約420円なので、スーパーのお弁当より安い。出来合いのお弁当を買うお金はあるのに、それより安い物は買えないというのは理屈に合わないので、矛盾している。

 さらに個別株であっても、大手ネット証券会社であればミニ株のサービスをやっている。これは、本来日本株であれば100株単位での購入がルールのところ、1株単位で売買してくれるサービスだ(ただし、100株単位の場合とは受けられる報酬やシステムが異なる)。そうすると購入代金を数千円単位で安く抑えられるし、塵も積もればで100株に達すればちゃんと株主優待なども受け取れる。

 投資は「お弁当価格」でもできる


 間違い③ 何を買ったらいいかわからない


 未経験者がおちいりがちなのは銘柄の呪縛だが、ほとんど意味がない。投資信託であればリスクヘッジが効いているので、どれを買ってもさほど大差ない。だからどれを買っても失敗はしにくい。オルカンだとかS&P500だとかいうワードがよく飛び交っているが、種類ごとに満遍なく5~10銘柄ほど買っておけば相殺されるので、大枠では失敗を防げる。オルカン、S&P500、NYダウ、ナスダック、日経平均、デジタルあたりを買っておけば、そうそう失敗しないだろう。

 個別株は初心者は手を出さないのが無難だが、ある程度慣れてきて株主優待目的と割り切るならありだろう。無料入場券欲しさに夢の国の株を買う人は結構いるし、交通系だと大抵無料乗車券が配られるので、頻繁に使う人なら節約になる。

 投資信託さえ選んでおけば、銘柄選びはあまり意味がない


 間違い④ 投資はエリートがやるもの


 投資をするのに階級制限があるか?それは、NOだ。投資をするのに学歴を聞かれることはないし、所得制限もない。(ただし、身分証の提示が必要。生活保護受給者は不可)。なので、労働者階級がやっても構わないし、何なら仕事と同時並行でやっている人も少なくない。

 海外だと会社員と投資の二足の草鞋を履いている人は珍しくない。アメリカだと国民の50~55%は、株式や投資信託など何らかの金融資産を保有しており、庶民にまで投資が当たり前に浸透していることがわかる。

 それどころか、アメリカだと掃除の仕事を続けながら投資をしているなどという話が意外とある。掃除の仕事なんてどこの国でも底辺扱いされるものだが、そんな階層の人でも投資に手を出す人がいるのがアメリカなのだ。

 かくいう私も今掃除の仕事に就いていながら、投資を続けている。総資産ベースでみればすでにアッパーマス層に達しているので、決して夢物語ではない。低所得者であっても、いけてしまうのが投資なのだ。

 投資は誰がやってもいい


 間違い⑤ 投資で金を稼ぐのは悪


 これは日本で割と聞く。投資で儲けたお金は楽して稼いだあぶく銭だから、倫理的に悪いと決めてかかっている人もいる。まあ、ギャンブルと言う人もいるから、その延長線でならず者のイメージが植え付けられたのかもしれないが。

 しかし投資とは、本来資金の足りない経営者の代わりにお金を工面するもので、立派な慈善行為である。経済成長の原資でもあり、そこから経済活動が生まれていくので、全ての人が投資の恩恵を受けている。このことから、投資を悪とするのは自己否定にもつながる。

 それに投資で収益を上げるのも、苦労はつきものである。長い年月が必要だし、我慢の時期もあるし、家計の見直しもしなくてはならないし、贅沢はできないし、精神の成熟も問われる。果たしてこれらがそろっている人間は、どれだけいるだろうか?自分で全ての責任を背負わねばならないし、決して楽ではない。

 そうやって苦労を重ねて得たお金が汚いだろうか?お金はお金だし、むしろ尊いのではないだろうか?

 投資は世のため人のためなので、「善」


 間違い⑥ 難解な勉強が必要


 これもよく聞く誤解である。基本的な知識は必要ではあるが、基本コツコツ積み立てるものなので、相場を読むスキルだとか、専門的な金融知識なんぞは必要ない。貯金や年金の積み立てと同じ感覚さえあれば、それ以上の知識がなくてもちゃんと収益を上げられる。

 投資の世界でよく言われる笑い話で、日々まめに株価をチェックしていた人間よりも、ほったらかしにして寝ていた人間のほうが余程稼いでいたというのがあるくらいなので、そこまでガッツリ勉強しなくても収益は出る。

 ただし、用語くらいは知らないと証券会社からの通知を読めないので、それくらいは学んだほうがいいだろう。それと仕組みがわからないとやる意味が湧かず、損切りする可能性が高まるので、そこくらいは押さえたい。まあ、やってるうちに覚えるが。

 投資に、専門的な勉強は必要ない


 間違い⑦ 仕事を辞めなくてはいけない


 これは、投資=デイトレードと考えている人に見られる。正直ほとんどの投資家は、毎日頻繁に売り買いするデイトレードなんてしていない。1回買ったら、5年、10年と長期にわたって保有し続けるのが一般的なので、仕事を辞めなくても片手間でできる。

 むしろ仕事を辞めてしまうほうがリスクが大きい。というのも、定期的に入ってくる安定収入を失うことによって、収入の保険がなくなるからだ。そうなると、投資に生活の全てを依存せざるをえなくなり、日々の相場に精神が翻弄されることになる。これによって、下落相場になった際に我慢ができなくて恐怖心から売りに走ったり、上げ相場に釣られて買ってしまい高値掴みをしてしまうことが起きやすい。

 相場ものである以上、精神との勝負でもあるので、安定につながる要素は残すほうが得策である。だから私も仕事は続けている。

 投資をするなら、仕事は続けよ


 まとめ


 こうしてみると、結構未経験者がもっているイメージというのは、実際とは真逆であることがわかる。大体、多くの人は恐怖心からリスクを大きく見積もってしまうことが多い。でもそれはバイアスに過ぎず、実際に調べてみるとそうでもないことが確認できる。

 もし将来の生活に不安を感じているなら、このバイアスに惑わされず、投資の計画を立てるのが賢明である。

2026年8月11日火曜日

極端な正義の暴走 ー世の中は折り合いで回っているー



 近年、正しさを声高に叫びトラブルを起こす人がよく目につく。LGBTQに関して異議を唱えるのは差別だとか、基地建設反対運動を阻止させるなとか言って、実力行使する人がメディアに多く出ている。そしてその行為は暴言、暴力、不買運動、妨害活動といった反社会的行為にまで及び、世間からの顰蹙を買っている。

 そのため彼らの評判は増々悪くなり、支持政党の支持率や議席数の減少にまで影響を与えている。明らかに自らの首を絞めており、ドンドン駆逐されている。浮動票としてどっちつかずだった層や、穏健左派で今まで理解を示してきた層も、「あんなヤツと同じと思われたくない」「あんなヤツをのさばらせたら大変なことになる」と危機感を募らせ、阻止する方向へ舵を切るものが後を絶たない。

 こういう正義を高らかに叫びながら暴走する連中は、何が足りないのだろうか?


 正義を振りかざすと最悪の事態になる


 正義を振りかざすのは一見真っ当な行為に思えるが、実際は最悪の結果を招くことが多い。それはなぜか?

 一つ目に、自分から見たら悪に屈するわけにはいかないから、折れるわけにはいかず、融通が利かなくなって、引っ込みがつかなくなるから。それは相手も同様で、その結果勝つか負けるかの争いになりやすく、対立が長期化してしまうのだ。仮に対立が治まっても、わだかまりはそのままなので、反対勢力は永遠に増え続ける。特に完璧主義や白黒思考がある人は、これにはまりやすい。

 二つ目に、いかなる自分の行為も正当化され、過激な方向へ突き進んでしまうから。正義のためだから仕方がないという言い訳に流されて、どんな悪事であってもやってしまう。粛清や総括なんかはいい例だ。無作法で横柄な態度にもなりやすいのも、他人から見たら悪人に見えてしまう。

 三つ目に、相手の反感を買うので、無限に敵を増やし続けるから。正義を振りかざすということは、相手を敵認定するということ。当然敵認定された人からしたらケンカを売られたようなものだから、快く思わない。だから話を聞く気にならないし、求めに応じるなんてもっての外と言われてしまう。

 四つ目に、自分が不寛容になり、周りが見えなくなって、孤立するから。正義が過熱するとアレも良くないコレも良くないとばかりに、多くのものが悪く見えるようになってしまう。そうなると寛容さを失い、否定のオンパレードになる。そして、多くのものを受けつけなくなるから周りから浮いてしまい、孤立してしまう。孤立すると、いざとなった時に周囲からの助けを得られなくなるから、自業自得になる。

 五つ目に、最悪精神の問題が発生することも。正義というのは社会的な対立を生んだり、孤立したりしやすい性格上、自分の精神にも悪影響をもたらす。適応障害やうつ病はわかりやすいところだ。それに正義は怒りの感情から起こるものでもあるので、双極症や統合失調症の躁状態とも結びつきやすい。そうなると精神障害がさらに悪化する原因になるので、精神医療としてもおススメできない。


 世の中は正義より、折り合いで動いている


 正義に囚われている人が最も理解していないことがある。それは、「世の中は正義よりも折り合いで動いている」ということだ。世間の多くの人は、正義が通用するほど世の中は上手くできていないということをわかっているし、正義だけでは大きな不都合が発生することを予見している。だから、決して正義一本にはならない。

 そもそも社会は合理性で回っているところがほとんどだ。そうしないと、全体として動きが滞ってしまい、大迷惑になるからだ。しかし正義は理想論に基づいているので、合理性とは相反する。その分社会負担を強いたり、特定のグループに全ての責任を押し付けたりするので、社会からしたら迷惑にしかならない。正義には妥協や分担の考えがないからだ。

 それに多くの人は、妥協やあきらめをして折り合いをつけないと、二兎追うものは一兎をも得ずとなることを知っている。だから、得るものが0になるくらいなら一兎あきらめて、残りの一兎を確実にとることを選ぶ。そんな全てが自分の思い通りなんてことはないのに正義にこだわっていると、本当に得るものが0になってしまう。

 それほどまでに折り合いは大切なのだ。得るものがある時ほど正義という二兎を追いかけずに、折り合いをつけて一兎を得ることが重要なカギとなる。




2026年8月7日金曜日

なぜ多くの人は、ゲームチェンジを拒絶して没落していくのか?



 ここ近年、数十年前よりも社会変化が早くなっている。多様化による複雑化と、技術革新による高度化が同時並行で起こっているため、この流れが止まらなくなっている。そして社会変化が早くなるのに伴って、二極化するようになった。変化に合わせる人と、拒絶する人だ。


 真逆の運命をたどる二人


 この両者では末路は正反対だ。変化に合わせる人は市場のゲームチェンジに即座に反応して、先行者の優位性もあって早くから利益を享受する。ライバルが少ない内から動いているので、競争が少なく楽にビジネスができる。市場が成熟したころには寡占状態が完成していて、その地位や利益は不動のものになっている。

 これに対して拒絶する人は、真逆の運命をたどる。縮小する市場に居座り続けているので、利益は下がる一方だ。いよいよ切羽詰まってきてようやく重い腰を上げるが、その時にはすでに新たな市場には入り込むすきはなくなっている。

 これはビジネスに限ったことではない。行政手続きなんかもそうで、人手不足解消のためデジタル化を進めているが、変化を受け入れている人は早くからそれに慣れて使いこなしている。職員とのやりとりはスムーズだ。

 対して拒絶している人は、いつまで経ってもアナログや手書きにこだわるため、手続きが煩雑なままで職員の手間をかけさせる。それは働き方改革の足を引っ張るだけでなく、二重行政になるので財政にまで悪影響を及ぼす。


 それでもほとんどの人はゲームチェンジを拒絶する


 それがわかっていても、多くの人はゲームチェンジに対して消極的になる。年金の納入者数と受給額が年々先細ることがわかっているのに、ほとんどの人は自身で何も手を打とうとしない。それはまるで、ゆでガエルだ。変化を受け入れる人は、早くにこのままでは身がもたないと察知して、サッサと資産運用や不労収入を作っているというのに。気がついた時にはこの差は大きなものとなって、真逆の運命をたどっているということを嫌というほど見せつけられる。でもこの時には後の祭りだ。

 ではなぜ多くの人は変化を拒絶してしまうのだろうか?


 ① 面倒くさい

 まず最も頭をもたげるのは、面倒だということだろう。長年習慣化した生活サイクルをわざわざ自分から変えるというのは、とても億劫なものだ。その分手間やコストがかかるし、休憩時間を奪われることになるから嫌悪感が湧いてきてしまう。

 特にスタートアップの時期は特にやることが多く、煩雑になるため、高い障壁に感じられやすい。これは人間の本能でもあるので、ぬぐえない感情ではある。


 ② 恐怖心・損失回避

 何かを始めるには必ずコストがかかる。お金に限らず、時間、労力、精神も費やすことになる。こういう必ずかかって取り戻せないコストのことをサンクコストというが、最初の内は売り上げが立つかわからないので、人間はこのサンクコストを丸々損失として想像してしまう。

 そしてもし本当に売れなかったらと考えると、ムダにするものの大きさから失望感や後悔の念にさいなまれるのを恐れて、損失回避のために止めておこうと考えてしまう。


 ③ 未練・現状への執着

 今の生活スタイルを手放すのが惜しくなるのもあるだろう。例えば貯蓄をするためには節約は欠かせないが、そのためには生活ランクを落としたり、ムダな課金をやめたりする必要がある。

 しかし人間というものは、一度手に入れた生活習慣やランクを手放すことに強い抵抗を示す。どうしても、手放した際に空虚感が湧いてしまい、ネガティブな感情へ引っ張られてしまうからだ。


 これらの作用により人間はネガティブな感情を抱き、本能的にゲームチェンジを拒絶してしまう。結果、現状維持を選んでしまい、時代の変化に取り残され、割を食ってしまう。


 それでもゲームチェンジは止まらない


 ここまで話してきて、「じゃあ、ゲームチェンジを止めてしまえばいいじゃないか」という人は、重傷である。なぜかというと、ゲームチェンジは止められないからだ。

 例えば、エンジニアの技術開発は好奇心に突き動かされているので、自発的に行われていて他人には止めようがない。好奇心も人間の欲望の一種であり、衝動的に動いてしまう側面があるから、どうしても我慢比べになってしまう。そもそも技術開発自体は素晴らしいこととされているから、誰にも止める権利はない。

 特にここ近年の変化は早く、かつては現代人が生きている間には実現しないと思われていたものがドンドン存在している。スマートフォン、AI(電子頭脳)、自動運転、3Dプリンター、クローン、コード決済などなど・・・。それどころか完成不可能とまで言われていたバルセロナのシンボル、サグラダファミリアですらメインタワーがすでに完成していて、あとは周辺部の設備を造るのみとなっている(この建設スピードのアップに3Dプリンターが大いに活躍している)。

 こうしてドンドン加速度的にゲームチェンジが繰り返されていて、もはや誰にも止められない状況である。もはやついていくか否かの選択肢は残っておらず、どこまでついていくかの勝負の時代に突入してしまったのだ。




2026年8月4日火曜日

謝罪より心理的安全を採る人



 世の中には「謝ったら死ぬ病」というスラングがある。医学的に存在する病名ではなく、病的に謝るのを拒絶する人を評した言葉だ。どんなに自分が悪くても、どんなに公的に審判が下されても、謝りたくないという異常性をもった人が確かに存在する。不祥事を働いても謝らない、虚偽に基づいた誹謗中傷しても謝らない、他人に被害を与えても謝らないなど、とにかくどんな場合においても謝らないのを貫いてしまう。

 酷い場合には、被害者アピールをして他人を加害者に仕立て上げたり、逆ギレして暴言を吐いて威圧したり、権力や脅迫を用いてもみ消したりといった反社会的な行為にまで及び、自らことを大きくする者もいる。

 なぜ彼らはそこまで謝ることを拒絶するのか?謝罪をどう捉えているのか?その原因は何なのか?このパラレルワールドを解き明かしていく。


 謝ることが最大の失敗


 謝ったら死ぬ病の人にとって、謝ることは何を意味するのか?それは、失敗を認めることである。起こしてしまった事件も失敗なのだが、それよりも謝ることそのものが失敗と捉えている。そして失敗は自分のメンツに傷をつけることになるので、是が非でも認められないのだ。

 そもそも謝ったら死ぬ病の人は、完璧主義や白黒思考を持っていることが多い。その上、プライドが高いので、汚点がつくことを誰よりも嫌う。どこの誰よりも偉く完璧で崇高の目で見られるはずの自分が、目下のものに対して謝るなど最も恥ずべき行為であるという価値観を持っているのだ。


 汚点のある自分は自分ではない


 だが、こういう自己像は心理学において肥大化と判断される。明らかに現実離れであるほど自分を絶対視しているからだ。

 ただ現実にはパーフェクトな人間なんぞいるだろうか?当たり前のことだが、そんな人間はいない。誰もが欠点があるし、それゆえ犯した汚点がある。それは謝ったら死ぬ病の人においても同じだ。

 すると、こういう人が過ちを犯すとどうなるか?強烈な自己否定が沸き起こる。もし過ちを認めると強烈な絶望感に襲われるから、精神を守るために防衛機制をフル稼働させ、全力でなかったことにする。肥大化した幻の自己イメージこそが自分のあるべき姿だと信じているから、それとは真逆の愚かで醜い今の自分なんぞ嫌悪すべき対象であり、絶対に認めてはならないのだ。

 これは本人にとって生存本能とも結びついて安全性がかかっているから、強力である。必死なので、手段なんぞ選んでられない。だから、なりふり構わず自身の犯した過ちを黙殺しようとする。


 未完了の幼少期が生んだ、歪んだ自己愛


 ではこの肥大化した自己は、なぜ生まれたのだろうか?それは歪んだ自己愛を持っているからだ。そして心理学において歪んだ自己愛は、大抵家族間連鎖や幼少期の生育にあると考えられている。

 家族間連鎖については、元々親が歪んだ自己愛を持っていてそれを遺伝的に受け継いだケースと、遺伝ではないが親の態度や素行を真似てしまうケースが考えられる。幼少期の生育であれば、生まれた時から発達特性があって育てにくい子だったとか、家族問題があって不健全な生育環境だったとかが考えられるだろう。

 こういうことがあると、親が子育てに向いていなかったり、匙を投げたりして精神発達や人格形成のための養育が十分に行われないということも起きやすい。その結果、子供は
精神発達や人格形成が未完了の状態のまま来てしまい、そこから成長が止まっていたり、間違った学習をしてしまったりする。

 このことから世間一般から大きくかけ離れた歪んだ自己愛が形成され、極端な価値観やそこからもたらされる極端な行動に衝動的に出てしまい、対人関係でトラブルメーカーになってしまう。


 医療やカウンセリングを拒否する問題


 さらにこの手の人の大きな難題として、医療やカウンセリングを拒む点がある。社会的トラブルを大きくし周囲へ悪影響を与える特性上、本来であれば最も医療やカウンセリングにつなげて、修正しなくてはならないタイプである。

 しかし、これを受け入れることは、同時に自分の不完全性や欠陥を認めることも意味する。これはメンツの塊である彼らにとって最も屈辱の対象であるから、絶対に認めようとしない。だから、医療やカウンセリングを受診することを徹底的に拒絶するし、その際にも必ずといっていいほど大騒動になる。


 謝ったら死ぬ病の人の末路


 謝ったら死ぬ病の人が、今の態度を続けたらどうなるか?おわかりの通り、孤立しかなくなる。

 四方八方を敵に回すのだから好かれるはずがなく、関わると厄介なので周囲は相手にするのを益々避ける。本人は人間などいくらでもいると豪語して強がるだろうが、しばらく付き合うと本性が見えてくるものなので、すぐに縁を切られてしまう。だから深い関係や長い関係を築けず、離合を繰り返す。そして自分の周りに残るのは利害関係をもった人か、自分と同じように社会性がなく周囲から嫌われ行くところがなくなった人くらいだろう。

 しかもこれらの人々は一般からはかけ離れているため、このメンバーで固まっているとさらに社会とのズレが大きくなる。益々常識がない人、礼儀がなってない人、わがままな人という目で見られるようになり、表の世界で居場所を失う。

 そうではないシナリオもあるが、その場合は強引な手段で表の世界に居座り続けるパターンだ。ただこの場合も周りにいるのは恐怖から嫌々従ってる人ばかりで、その実態は面従腹背でしかない。本心から付き合っているわけではないし、いざとなったら霧散することは謝ったら死ぬ病の人も気づいている。

 だから内面的には孤独だし、いつ裏切られるか気が気でないから、常に疑心暗鬼になる。心が休まる時がないので心中穏やかでなく、ドンドンとヒステリックさが増していく。そうなると周囲は付き合い切れなくなるから、1人やめ2人やめを繰り返し、ついには裸の王様のまま誰もいなくなってしまう。

 謝らないというのは、百害あって一利なしなのだ。


 謝ったら死ぬ病の人に出会ったら


 最後にそういう人間に出くわしたらどうすればいいかだが、即行離れるしかない。様々なところでも言われているが、この手の人は他人の話に耳を貸すタイプではないばかりか、逆ギレしてくるので、関わること自体がリスクである。最小限の付き合いにとどめ、あとは無関心が定石だ。

 こういう人が幅を利かせたらという懸念もあるだろうが、人間関係が悪化する末路をたどる人なので、どの道孤立して挫折する。相手は他人と信頼関係を築く能力がないから、その間にこっちはコツコツと実績を積んで信頼を作っていけば、自ずと差が開いて真逆の運命になる。相手は勝手に没落していくので、自分は毎日を普通に過ごしているだけでいい。

 謝ったら死ぬ病は、自分自身もならないように気をつけたいものだ。




2026年8月1日土曜日

怒りを抑えられない人の仕組み



 メンタル、障害、LGBTQなど、マイノリティの界隈をのぞくと、いつも誰かと口論になっている。大体、マイノリティ側の人間が怒りを撒き散らして反感を買い、集中砲火を受けて炎上するパターンだ。しかも、この怒りを撒き散らす人間は、いつも決まった人物だ。その人物はいつも怒っていて、誰彼構わず攻撃して、顰蹙を買っている。

 こういういつも怒っている人というのは、一般的な人と比べてその頻度は高い。しかも、その怒り方は激しく、むしろ幼児や発達障害児の起こす癇癪と同じ可能性がある。あまりに常軌を逸していて、普通の人では倫理観から躊躇してしまうような手段にすら手を染めてしまい、周囲を巻き込んで不幸におとしいれることをする者までいる。

 では、なぜこのような人物は怒りを抱きやすく、止められないのか?どうして理性が働かず、エスカレートして逸脱するのか?


 脳は使い方によって成長する部分が変わる


 怒りは感情なので、脳が司っていることは多くの人がわかるだろう。その中で感情は脳の中心に近い偏桃体が司っている。感情的ですぐに激高する人は、この偏桃体が肥大化していることがわかっている。

 反対に理性は前頭前野が司っている。ここの成長が促進すると、我慢が出来たり、冷静さを保ったり、相手の事情を考えて社会的に振る舞ったり、物事を深く考えて計画性が出たりする。要は、衝動性が抑えられるのだ。

 このことから感情を丸出しにしてきた人は偏桃体を頻繁に用いているから、ここばかりが成長してしまい、より感情的になりやすくなる。さらに前頭前野を鍛えていないから、抑止力が働かず、考えなしに衝動的に感情をぶつけてしまいやすくなる。加えて社会性も育っていないので手段を選ばず、相手を屈服させられればどんな手でも使うという誘惑に負けやすい。


 怒りは脳へダメージを与え、認知症のリスクを上げる


 もうひとつ問題は、怒りの感情は非常にストレスフルなので刺激が強く、脳細胞にダメージを与えることがわかっている。そのため感情的な人のほうが認知症の発症率が高いという。

 その裏付けとして、感情のコントロールが効かず、癇癪を起こしやすい双極性障害や統合失調症のような精神障害は、そうでないグループと比べ認知症の率が高い。感情処理が上手くなくストレスフルな精神状態が続くことで、認知症の原因物質であるアミロイドβの処分が追いつかず、溜まりやすくなって脳細胞を攻撃するのではないかと考えられる。


 理性的な振る舞いを意識的に選ぶトレーニングが重要


 では、これを防ぐにはどうしたらいいのか?それは偏桃体ばかり使わず、前頭前野の成長を促すことだろう。

 そのためには、前頭前野を使う頻度を高めなくてはならない。そのために、何かあったら必ず理性的または社会的な振る舞いを選択することだ。瞬間的に怒りを吐き出すのではなく、その場にふさわしいと思うほうを選ぶ。そうすると前頭前野を使用するので、成長を促せる。これを1カ月ほどやると習慣化されて新しい神経回路が構築されるので、あとは無意識的にできるようになる。

 あとは状況を一旦分析するほうへ意識を向けるのもいいだろう。これも使用するのは前頭前野なので、成長につながりやすい。しかも分析することで衝動的に行為におよぶ危険性を止められるので、一石二鳥だ。

 怒りや癇癪についてはトレーニング法もあるので、専門家についてもらうとより正確だろう。瞬間湯沸かし器になっても良いことはないので、コントロールできるほうが賢明だ。




2026年7月30日木曜日

資生堂の失敗に見る、理想と現実の違いを知らない人間が落ちる罠



 化粧品大手として有名な資生堂。ちょっと前まで女性活躍のフラッグシップカンパニーとして表彰までされたが、ここにきてさんさんたる凋落ぶりを見せている。2024年には美容部員など1477人の早期退職を実施、翌2025年にも257人退職したものの、2025年12月期には過去最大となる約520億円の最終赤字を計上。米国でも300人削減し、中国の不採算店舗を閉めるなど、全社的に業績不振が続いている。

 この原因として資生堂は、中国市場での価格競争の激化や買収した米国ブランドの販売低迷を挙げているが、これだけでは国内市場の説明がつかない。実はここに深い闇が隠されているのだ。


 理想的な建前を追い求めた経営陣


 冒頭で触れたように、資生堂は女性活躍を目指していた。化粧品という業界柄女性職員が多い会社であるためその力の入れようは半端なく、日本一を目指していた。その方針で育児休業や育児時間制度の導入、事業所内保育所の開設、女性管理職育成のための研修など、様々な福利厚生やサービスを多数導入し、その甲斐あって内閣府による「女性が輝く先進企業表彰」で「内閣総理大臣賞」を受賞した。


 負担増の職員からの不満


 だが、これが現場で大きな軋轢を生んだ。というのも、育休を取りやすくなったことが問題となった。イメージ先行型の人からしたらいいことのように聞こえるだろうが、現場からしたら大迷惑になった。産休だけでなく育休もたっぷり取れるとなると、それだけ長い期間職員が離脱することになる。その職員の仕事は残ったメンバーに割り振られることになったので、一人頭の仕事量が増えた。

 しかも、この負担増がみんなに均等に振り分けられるならまだよいが、出産は計画的にはいかないから育休取得にバラつきが出るし、未婚の職員にいたっては毎回受け皿にされるため仕事量の不均衡が生じてしまった。これによって職員の怒りが爆発し、退職や業務停滞につながってしまった。業績低迷に転じてしまっては新しい人員の補充などできないから、福利厚生を縮小しない限りこの状態は収まらないだろう。

 このような職場環境では、日々の仕事をこなすことで精いっぱいになってしまう。そうなると、売上向上という本来一番取り組まなくてはならない課題が疎かになる。しかも、疲れが溜まる一方ではモチベーションも上がらない。売り上げ低迷は必定だろう。


 休暇とキャリアアップのジレンマ


 さらにもうひとつ矛盾点があるのが、キャリアアップだ。それだけ休暇を取りやすいということは現場を離れている期間が長くなるから、キャリアを積む期間も削がれる。その状況で女性管理職の増加といわれても、実績と肩書きが見合わないものになりかねない。

 さらに他人の肩代わりによって一人当たりの仕事量が増えている状況で、研修まで受けるのはさすがに残業必須の無理ゲーだ。これでは反って働き方改革に逆行しており、職場のブラック化といえる。こんなこと職員は誰もやろうとは思わないだろう。


 現場を知らぬ者がおちいる失敗


 では、この失敗の本質は何だろうか?それは、

 「現場を知らぬ者が、聞こえの良い理想だけを夢見て、リスクを無視したこと」

である。当時社長だったのは長谷川氏だったのだが、彼はいわゆる「プロ経営者」だった。プロ経営者というのは、大雑把にいうと外部から招聘された経営者のことで、生え抜きや創業家とは異なり外部の人間であることが特徴だ。

 となるとどうしても、現場感覚が生え抜きや創業家よりも乏しくなりがちで、職員にどういう負担がかかり、どういうトラブルに発展し、どういう不利益を被るかへの想像力が足りなくなる。

 しかも経営者自身がスポークスマンを兼ねていると、どうしても外からどう見られるかに神経を奪われて、リップサービスに走りやすい心理が生まれる。そうなると企業イメージの向上のために、視聴者受けの良い非現実的な理想を掲げるハードルが下がってしまう。その非現実性のしわ寄せは自ずと現場の負担となってしまう。職員からしたらとんだ災難にしかならない。

 結局現場を回しているのは職員なわけで、職員の負担増加や気持ちが載らないことをやるとモチベーションとポテンシャルが下がって、上手くいかない。やはり経営者であっても、現場感覚のないのは致命的だ。




2026年7月28日火曜日

2タイプある左翼支持層



 ここのところ、左翼がよく話題に上がる。abemaTVおいても、よく左翼を論客に迎え討論されていたり、大学内の左翼について解説されたりしている。特に以前、東京大学の五月祭での騒動をきっかけに右合の衆というサークルによって、学内の教員による左翼教育が暴かれたこともあった。

 その一方で左翼による事件が相次いており、度々ニュースになっている。辺野古基地反対派による警備員死亡事故、辺野古沖抗議船沈没事故、五月祭神谷宗幣講演阻止暴動事件、しばき隊による一般市民殺傷事件などの刑事事件をはじめ、男が産めるのうんこだけ騒動、路哲による射的デモンストレーション、角川書店や産経新聞出版へのLGBT暴露本出版差し止め騒動、数々の右派への選挙妨害など、暴力事件が後を絶たない。

 同じ左翼でも両者の人物像に大きな隔たりがあり、両極端な性質が見てとれる。

 そこでここでは、この全く異なる左翼支持者の性質と、非道な方向へ逸脱してしまう構造について紐解いていく。


 同じ左翼でも異なる支持層


 よくネットでは左翼とひとくくりにされているが、実は左翼支持者には大きく分けると2タイプに分かれる。それは文系インテリ層と社会から落ちこぼれたアンダークラスだ。

 まず文系インテリ層だが、これは哲学や社会学の研究者が主な支持者で、他には文化人類学とか文学、芸術系なんかが占めている。同じ文系でも、経済学、経営学、政治学、史学、人間行動学、心理学とかだと、社会情勢、人間の行動原理、金融リテラシー、過去の失政なんかの学識が深いので、人に寄りけりな気がする。


 提唱者となる左翼文系インテリ層


 で、この左翼に傾倒する文系インテリ層だが、ふわっとした理想的社会のイメージを、後づけでそれなりにある知識をもって補完しようとする。それを手にしている学歴と権威をもって拡散し、左翼の中で提唱者としての役割を果たす。しかも、一応インテリ同士で集まっているから、グループ内で左翼=インテリという共通認識が出来上がる。

 だが彼らの想像する理想は、ふわっとしたスローガンみたいなもので具体性がないため、言うは易し行うは難しになりやすい。しかも理想論であるために、全てが高度に上手くいったケースを想定していて、危機意識に乏しい。というか、皆が真面目にやればとか、皆が理性的に振る舞えばみたいに、たらればを前提に考えているから、抜け穴が多い。

 そんなだから口八丁手八丁で言い訳されると、どんな理不尽なことでも否定できなくなるため、誰にとっても甘い汁になりうる。それは邪な人間にとって最も都合がよく、際限なくいいように使われ、乗っ取られてしまう運命をたどる。勉強しかしてこなかった文系インテリ層の世間知らずが招く悲劇である。


 甘い汁を吸いたいアンダークラス


 そしてもう一方の支持層が、アンダークラスだ。このアンダークラスにとって、文系インテリ層が唱える理想は好都合なので賛同する者は多い。しかもこの層は思考の視野が狭く、目先の利益しか見てないので、美味しいところだけを吸おうとしてしまう。

 さらに精神の成長の遅れが根底にある者も多いため倫理観が乏しく、ズルをしてしまったり、依存から抜け出せなくなったり、社会に対して非協力的であったりも、珍しくない。というのも、この層は誰のおかげで助けられているのかが想像しにくい習性があるのと、罪悪感を抱きにくく道具主義(この世のあらゆるものは、道具に過ぎないという考え)であることが多いためだ。
だからテイカー(心理的に飢えた人・クレクレ星人とも)になりやすく、遠慮せず欲しい物を根こそぎ手に入れようとするから、手段を選ばない。

 しかしこれはインテリ層とは真逆のタイプなので、扱いを知らないインテリ層は飲み込まれてしまう。その結果、左翼はアンダークラスに乗っ取られて、アウトローの集まりへと変貌してしまう。

 しかも、インテリが提唱していたという経歴から、このアンダークラスが自分もインテリと同じだと勘違いを起こす。そのため自分は間違っていない、正しいという誤認を強めてしまい、間違った行為を続けて社会的トラブルがエスカレートしてしまう。


 インテリが理想とする世界は難易度∞


 正直、こういったアウトローがいる限り、インテリが理想とする世界は難易度が高すぎて実現不可能である。インテリ層が想像する理想社会はある程度社会奉仕や自主性を求められるが、アウトロー気質のあるアンダークラスはそれを面倒くさがって毛嫌いし、決して求めに応じず、利益だけを要求するだろう。彼らにとって面倒なことは、合理的でなく、害としか思わないからだ。

 こういう者がいる限り、その理想社会は裏切りの連続にしかならない。そしてそのしわ寄せを受けるのは、常にルールを守っている罪なき中間層や労働者や先住民だ。そしてこのグループは多数派を占めており、社会インフラを回している層でもある。この層の反感を買って労働を辞められたら、社会活動は全面ストップしてしまう。そうなると、誰も食っていけなくなる。

 だからこそ左翼こそ妥協して社会に素直に従わないと、何も上手くいかないのだ。




2026年7月24日金曜日

学校教育批判に大きな矛盾 <気休めを信じ込む愚かさ>






 日本ではよく学校教育批判が起こる。その際の言説はみなそろいもそろって同じである。画一的、社畜化、個性の否定、保守的などの批判は、よく見聞きすることだろう。これらの文言を言う時に「政府が~」とか「文科省が~」とか「指導要領が~」とかも言われるが、閣僚や役人が実際に言っているのを聞いたことある人はいないだろうし、指導要領を読んだことある人もいないだろう。

 ましてや現場を担う教員の大半が、批判にあったような指導をしているところなど、まず誰も見たことがないだろう。そう、誰かが言ったデマや陰謀論を鵜呑みにしている人がそれほど多いということだ。


 子供の夢を応援してくれる教師ばかりなのに


 実際に「夢を見ていないで、会社員を目指しなさい」なんて言ってくる教員を見聞きしたことないし、むしろ「夢が叶うといいね」言ってくれる教員ばかりではないだろうか?部活動に入っていれば応援してくれるし、少しでも希望の進学先へ入れるようにアドバイスもしてくれる。これのどこが画一的、社畜化、個性の否定なのだろうか?

 もし本当に学校が
画一的、社畜化、個性の否定をしているなら、むしろ生徒に選択権はないし、夢を否定するし、教員が何でも決定していなければおかしい。しかし、実際にはそんなことはなく、進路、部活、委員会、教科によっては授業まで生徒に選択権があり、画一とは真逆になっている。


 教員の主な支持政党からしても


 昭和の時代、教員の支持政党といえば社会党だった。片山均政権、村山富市政権の時期はあるものの、ほとんど期間で野党第一党であった政党だ。教員が自民支持であったなら政権や官僚の意向に沿うだろうが、野党第一党支持、それも社会党支持であったため素直に政権に従うとは考えられない。

 そして社会党が消えた現在、かつてほど政党による政治的拘束力がなくなり、教員は自由に野へ放たれた。そうなるとますます教員が生徒を縛る意義がなくなっている。むしろ社会党支持であったことからして、社会主義のイデオロギーこそが画一的なのでそれが教育へ反映されていたと考えてもおかしくない。


 どの層が批判しているのかも重要


 この学校教育に対する批判が多い層にも注目する必要がある。どんな層にも一定の批判者はいるが、特にこの手の批判が多いのは底辺と言われる層ではないだろうか?反対に富裕層やインテリ層なんかは今のシステムにおける勝組といわれるので、あまり批判する必要もないというのがあると思う。

 もし底辺層の言う通り学校教育が画一的、社畜化、個性の否定、保守的だというなら、それに従って今の地位と名誉を勝ち取った結果として富裕層やインテリ層がいることになるので、むしろその方針は正しいことになる。だから、皆で画一的、社畜化、個性の否定、保守的になったほうが総じて豊かになれるということになるし、貧しいということは自由奔放で個人主義だからということになる。この点において底辺層の言うことに矛盾がある。

 しかし、実際には選択が生徒自身に委ねられている以上、画一的、社畜化、個性の否定、保守的になんぞなっていない。そんな教員に支えられ、自由奔放に過ごしてきた富裕層やインテリ層はしっかりとした地位を築いている。そう、画一的、社畜化、個性の否定、保守的なのは、底辺層自身なのだ。

 選択権が与えられているにもかかわらず、成功するほうを選ばなかったばかりに失敗してしまい、しかも保守的であるがゆえに方針を変えることをせず、いつまでも画一的に現状維持を続けた結果として底辺に落ちたわけだ。その自分のミスから目を背けるために、学校教育のせいにしている。あまりに愚かで情けないことだ。


 何事も疎かにした者が落ちぶれている


 結局のところ、人生の選択にしても学校教育にしても、蔑ろにした者が落ちていっている。その責任を学校教育になすりつけるのは責任転嫁に他ならず、反って自分の人生の軌道修正を先延ばしにしてしまう。他責にするのは一時の恥から逃れることができるから楽な選択ではあるが、根本解決にならないので事態の悪化は避けられない。

 人生の傷口を今以上に広げないためには、いかに早く自分の失敗や選択ミスを認めるかが重要である。学校教育批判は現実逃避でしかないのでサッサと止めて、打開策を模索するほうへ意識を向けたほうが賢明だ。




2026年7月21日火曜日

運は待つな、拾え! <待ちの姿勢では永遠に確率0%、自分から行かない限り運はない>

 


 先日、中野信子先生の対談動画を見て、運について語っていた。「この世に運は存在するか?」「運で人生が左右されるか?」「運は変えられるのか?」など、運に関わることを他の大学の研究結果を交えて解説していた。

 中野先生いわく、運は存在するとのことだ。ただ、ここで気をつけたいのは、一般人(中でも占いを信じやすい人やメンタル疾患の患者など、思い込みが強い人)は運=運命と定義しがちだが、この動画でいう運は全く異なるものを差している。こういうアカデミックな人の言う運というのは、大抵傾向や確率を差すことが多い。恐らく中野先生のいう運も、傾向や確率のことを言っているだろう。アカデミック、特に理系の場合、数学的に考える癖から数値化する傾向が強いので、%で量るのだ。


 運は勝手に降ってくると思っている一般人


 前置きはこの辺にしておいて、確率論的な運は確かに存在をする。入学や資格試験の合格率とか、万馬券や1等宝くじの的中率とか、病気や障害の罹患率とか、%提示されているものは無限にある。

 ただ問題なのは、これを数字として捉えるのではなく、自分で勝手に解釈を加える人が多い。極端に単純化して確率10%しかないなら当たるわけがないと言ってパスしたり、偶然運が悪いせいで病気や障害になるのだから何も対策しようがないといって、今の生活スタイルを続けたりする。

 そして、こういう人は運は外部要因によって勝手に降りかかってくると思っている。なので自分では動かず、ただ幸運が訪れるのを受け身の姿勢で待っている。その一方で他人が上手くいっているのを見ると途端に嫉妬心を燃やして、「アイツは運が良かっただけだ!」といってけなす。


 大抵は、重い腰を上げないことで自ら確率0%にしている


 だが、実際のところ一般人のいう運が悪いというのは本当なのだろうか?答えは、NOである。というのも、大抵の物事は参入や対策をしないと得られない。投資をするなら証券口座を作って株を買わない限り確率は0にしかならないし、生活スタイルだって改善しない限り病気や障害のリスクは高いままだ。

 それは運が悪いのではなく、自ら運が良くなるほうを捨て、不利益にしかならないほうを選択しているので、なるべくしてなったのである。


 運のいい人は、どうやって確率を変えるかを考えている


 これに対して運のいい人は、どういう人なのだろうか?それは、どうやったら確率を変えることができるか考え、実行する人だ。何もしないというのは確率0%にしかならず最低であるから、彼らに待つという姿勢はない。少しでも確率を増やしたほうがいいから、あの手この手を繰り出して試行錯誤する。

 しかも、数打ちゃ当たる戦法を採ることも辞さない。だから、1回やってダメだったからあきらめるということをせず、むしろ確率10%だったら10回やれば1回当たるから、そこまでやらないと結果を判断できないと考える。

 病気に関してもただ手をこまねいていては悪化するだけだから、何らかの手を打つ。それもスピリチュアルに全振りすることはなく、もっと実用的な方法を試す。お酒を止めるといったらスパッと止めるし、バナナが快便によいとなれば取り入れる(実際、私は朝食をバナナに切り替えてから便通がよくなった)。


 運は待つな、拾え!


 だからこそ言えるのが、中野先生の「運は待つな、拾え!」なのである。運というのはただ待っているだけではやってこない。自分から拾いに行かない限り手にすることができないものなのだ。

 だが残念ながら、多くの人は待つほうを選ぶ。それで自ら運を手放してふいにしてしまうことが、どれだけ多いことか。そして、自ら招いたことなのに運が悪いと嘆いていたり、世の中のせいにしたりして、実に進歩がない。

 だから待っていてはいけないし、自分から拾いに行かないといけない。運は待つな、拾え!




2026年7月17日金曜日

障害特性の有無による記憶のしかたの違い

 勘が鋭い人および健常者のグループと、勘が鈍い人および発達障害者では、結構情報のやり取りで齟齬が生まれやすい。そこから対人トラブルも発生しやすく、かなり問題になりやすい。その原因のひとつとして、記憶のしかた(記憶モデル)の違いが関係している。その記憶のしかたの違いについて、解説する。


 仕分け方式 or 紐づけ方式


 普段何気なく過ごしていると、普段やっている自分の癖には気づきにくく、それが世間の当たり前だと誤解しがちだ。記憶のしかたもそうで、実は人によって方式が違うということに気づいている人は少ない。大きく分けると2方式あり、健常者と障害者でどの方式をとるか大きな傾向の違いが見られる。

 まずは、下のイメージ図をご覧いただきたい。健常者と障害者の記憶のしかたについて、青果店の品目をモデルにイメージ図にしたものだ。




 【健常者】
 健常者の場合、カテゴリー別に仕分けているのがわかる。まず大枠の青果という括りを作って、その中に野菜と果物で仕分けている。さらに、それぞれに果実に分類される品目があるので、それはそれで別の枠で括って仕分けている。こうすることによって記憶の整理整頓をし、ムダを省いて効率化を図っている。

 その結果、脳のリソースを圧縮して最小限に抑えるから余裕が生まれて、より多くの情報を取り込むことができる。加えてカテゴリー分けされているから、関連している品目も一目瞭然なので、関連するものを一瞬で連想できる。

 【障害者】
 障害者の場合は、なぜか個別の品目から入ろうとする。個別の品目に紐づけする形で情報を追加するという方式をとりたがる傾向にある。だから品目ごとにいちいち果物なのか野菜なのか、果実なのかそうでないのかという情報を覚えようとする。これではダブりが生じて暗記する量がムダに増えてしまうため、脳のリソースを多く消耗してしまう。結果、記憶の限界を迎えやすく、物覚えが悪くなってしまう。

 さらに悪いのが、それぞれの品目ごとに情報が分離しているため、関連性に気づくことができず、連想できないという問題も生じる。これが勘の鈍さとして現れているのだ。明らかに効率の悪い覚え方である。

 これを電車の編成で考えると、いかに効率悪いかがわかる。新青森行の新幹線が、まず大宮で新潟行と分割して、福島で新庄行と分割し、盛岡で秋田行と分割と、一編成の列車がそれぞれの駅で毎回分割していたら、効率悪くて到着時間が遅れてしまう。

 それだったら行先ごとに編成を組んでしまって、お客さんをまとめて1カ所へ運んでしまえば効率がいい。先頭車を減らし、中間車を増やせるから、同じ車両数でキャパシティーも増やせる。


 マクロ視点 or ミクロ視点


 ところで、なぜこのように記憶方式の差が生じるのだろうか?これはひとえに、視点の違いからきている。

 健常者は、まず全体を見るところから入るので、マクロ視点優位の特徴がある。そこから段々カテゴリーを絞っているので情報の整理整頓がしやすく、カテゴリーごとにまとめて覚えることができる。

 反対に障害者はいきなり個別のものに目がいっている。これはミクロ視点だ。そこから情報を枝分かれさせながら、場当たり的に付け足しで覚えていくので、整理整頓がされない。記憶がカテゴリー分けされておらず、個別に覚えるから共通項に気づかない。この特徴があるから、応用が利かなかったり、前と同じパターンであることに気づかなかったりする。そしてこれが、
精神科医が障害者を見極める指標の一つになっている。

 さらにこれは、学校の成績にも反映される。それはそうだろう。記憶の整理整頓をせず、共通項がわからず、非効率な方法を採っているとそれだけ学習スピードが遅くなるし、理解度も低くなるから、成績は上がらない。それどころか、基礎的な学習もおぼつかなくて落ちこぼれてしまうだろう。


 障害者はマクロ視点や記憶の整頓ができるか?


 では、障害者が健常者のようにマクロ視点や記憶の整頓ができるだろうか?正直にいうと、かなり難しいだろう。というのも、長年染みついた癖を直すのには根気がいるし、障害者は厄介事を避けたがる傾向にあるのですぐにあきらめてしまうからだ。それに遺伝や先天性のケースも考えうるし、そもそもマクロ視点や記憶の整頓の概念を理解できなと、改善しようがないので難しい。

 それでもトレーニングや学習を通じて、どこかのタイミングで気づくことがないとは言えない。だからこそあきらめるのは尚早で、トレーニングや学習を続けることに意義がある。

 さらに言えば、今までやってこなかった思考法を続けることによって、これまで育ってこなかった脳の部位に新たな神経回路(ニューロン)が形成され強化される習性が、人体にはある。そして一旦神経回路が出来上がると、以降その能力が自然と負荷なくできるようになる。そこまでくれば問題は解決する。

 なので、今までやってきた慣れた方法にこだわらず、新たな方法に切り替えていくことが重要である。




2026年7月14日火曜日

日経平均株価が上がっても、日本企業がもうかっているとは限らない


 ここのところ、日経平均株価の最高値更新や大台突破のニュースが続いている。それだけ聞いていれば大変景気のいい話で、日本企業の業績が好調で活況であるように思える。

 ただ、こういうニュースが流れると、企業ばかりもうかって自分に見返りがなく、ズルいだの、不平等だの、利益を独り占めしているだのという人が、必ず一定数現れる。まあ、こういうセリフを言うということは、さぞかしお金に困っていて、企業を逆恨みしているのだろうと想像する。

 だが、その見立てはあまりに素人で、金融に疎い証拠である。というのも、日経平均は必ずしも日系企業の業績を反映しているとは限らないからだ。実際、今の日本は人口減少と少子高齢化でマーケットが否応なしに縮小しているので、業績を上げるのは困難である。にもかかわらず日経平均が上がっているので、矛盾が生じている。

 では、なぜ日経平均は日系企業の業績との相関性が薄いのか?その仕組みを解説する。


 東証は株式だけを扱う?


 金融に詳しくない一般の人々は、東証(東京証券取引所)と聞くと何するところだと思うだろうか?大抵の人は、株式の売買をするところだと答えるだろう。ここで終わってしまうのが素人で、実際にはもっと他にも取り扱っているものがある。それは、「ETF(上場投資信託)」と「J-REIT(上場不動産投資信託)」だ。

 投資信託(ファンド)とは、株式、債券、先物などの銘柄を多数保有することで運用するものだ。これを細切れにして、一口いくらといって株式市場で売買するようにしたものをETF、不動産に特化したものをREITという。

 で、曲者なのがこのETFだ。ETF内で運用される株式は、必ずしも日本企業のものとは限らず、外国株のものも多く出回ってる
。特に将来性や安定性、無難度の観点から、全世界株(オールカントリー:通称オルカン)や米国株系のETFが人気で、NISAの普及もあって買い注文が増えている。買い注文が増えれば値段は上がるので、日経平均を押し上げることになる。

 しかし、これらは投資先が外国なので、日本企業へは資金が流れない。だから、日本企業の業績が芳しくなくても日経平均が上がるという、矛盾した現象が起こるのだ。


 資金が流れてこないのだから、従業員に分け前がないのは当然


 このように、日経平均が上がったとしても、日本株が必ずしも値上がりしているわけではない。それどころか、日本市場が人口減少と少子高齢化で縮小するのを変えられない以上、マーケットとしての魅力はない。魅力のないものに投資する人はいないので、資金が入ってこない日本企業が積極的な攻めの経営をするのは難しい。

 そうなると、消極的な守りの経営に傾き、コストカットと人員抑制にシフトせざるを得ず、その分給与が上がらないのは当然の成り行きなのだ。


 従業員が収入を増やすには?


 では、従業員が収入を増やすには何をしたらいいのだろうか?

 ひとつは、投資したいと思えるような魅力を自分自身に作ることだ。商品でもサービスでも能力でもいいだが、替えが利かないものを作らないとその人にお金を投じようとは思わない。だから何か人材としての魅力を作る必要がある。

 あとは、自分もポジションチェンジするというのも手だ。今の従業員というポジションに居続けても給与が上がる見込みはほとんどない。マーケットが縮小し、会社に入ってくるお金が減少する以上、昇給を期待するのは愚の骨頂だ。ならば少しでも収入の多いほうへポジションチェンジしない限り、増収は不可能である。出世もいいが、経営者や投資家へ転ずる方がもっと効率がいい。しかもこの層は多くの収益を投資によって得ているので、今の株価上昇を利用できるのも得である。

 ただ共通するのは、自分から積極的に動いているものに対してお金がやってくるということだ。今と変わらずただ同じことを続けている、いわゆる待ちの姿勢でい続けていても収入は増えない。それは誰にとっても魅力的でないため、評価に値しないからだ。

 だから自分から動いて魅力を作ったり、むしろ魅力のある人に自分が投資したりすることで、価値を創出しない限り収入は上がらない。変化し続けること=増収という構図を理解しなければならない。




2026年7月11日土曜日

答えだけを求めたがる人 ○○を学ぶ賢者






 何かを教わる際に、必ず答えだけを知りたがる人がいる。学校の勉強にしても、投資の判断にしても、仕事のやるにしても、答えにしか興味がなく、いつまで経っても上達しない。私も何人かそういう人に出会ったことがあり、その浅はかさにほとほと幻滅させられた。同じパターンは以前にもあったのに、また聞いてくるのかと呆れてしまう。

 今回はこの答えだけを知りたがるバカについてと、賢者ならどうするのかについて解説する。


 答えだけ知るのは、なぜ悪いのか?


 その前に、答えだけを知るのがなぜ良くないのか説明せねばなるまい。というのも、バカはこれが正解であると勘違いしたままになってしまうからだ。そして不正解の選択ばかり続けていくと、思わない方向へドンドン人生が進んでしまい、最悪取り返しがつかないこともあるのだ。

 では、なぜ答えだけを知るのがなぜ良くないのか?それは、

 「自立できなくなる」「物事が進まない」「他人から拒絶される」

からだ。どういうことかというと、

答えだけを聞く
やり方を学ばない
判断を他人に頼るしかない
他者依存
自立できない


答えだけを聞く
やり方を学ばない
頻繁に他人に聞く必要がある
その度に時間がかかる
物事が進まない


他者依存 + 時間がかかる
他人の手間と時間を頻繁に奪う
負担がキャパオーバーになる
疲弊してドロップアウト
他人から拒絶される

というわけだ。


 なぜバカは、答えだけ求めるのか?


 このように答えだけ知ろうとするのは、長期的には関係破綻を起こすので、まず破滅にしかならない。にもかかわらず、なぜバカは毎回答えだけを求めるのだろうか?

 ① 手軽でインスタントだから
 ② 自分で解くのが面倒だから
 ③ 将来の見通しができず、場当たりだから
 ④ 人間関係に関心がないから
 ⑤ 相手がどういう気持ちになるか考えていないから
 ⑥ そもそも自分のメリットしか目に入っていないから
 ⑦ 自分に自信がなく、自分では解けないと思っているから

 と言ったところだろうか?これらの内のどれかというのではなく、これらがケースバイケースで複数絡んで複合的に作用していると考えるのが妥当だろう。

 さらにこれらの傾向からうかがえるのは、かれらには人間的「未熟さ」があることだ。人間関係や社会性の成長が滞っており、子供時代の判断行動に未だ準拠している。


 賢者は「解き方」を学ぶ


 これに対し、世の中を上手く渡り歩いている賢者はどうだろうか?賢者が知りたがるもの、それは・・・

 「解き方」

である。解き方がわかれば、問題やシチュエーションが変わっても応用が利くので、解くことができる。自分でできることが増えるので早いし、周りの手を煩わせることもない。その結果として人間関係も改善し、良好な関係を維持することもできる。

 さらに、ワンランク上のことをも扱うことができるようになるので、自分の社会的評価や価値が上がり、収入アップや昇進も可能になる。自分で解く力をつけることは、将来を大きく左右する要素なのだ。

 だから、答えではなく「解き方」を身につけなければならない。




2026年7月7日火曜日

日本人はお金の使い方がヘタ






 ここのところ、日本では貧富の差が広がっていると言われている。昔であればベルカーブといって、中間層が最も多くそこから外れるほど少なくなる傾向があった。しかし、ここ近年はその中間層が二極化して、フタコブラクダのようなカーブに近づきつつある。

 そんな状況を憂いつつ病院の病棟清掃をしていると、面白い傾向に気がついた。なんと民族によってゴミの種類が違うのだ。そしてそれは、明確に金銭管理に影響するものだ。


 飲料のペットボトルに見る差異


 都市部の大病院であると日本人に限らず、外国人も度々入院する。特にここ近年はインド・ネパール系の移民が増えており、病院内でも珍しくない。ほぼ毎日誰かしらインド・ネパール系の人が入院しているので、かなりの数を見てきている。

 そんな状況下で日本人とインド・ネパール系では、買い物において決定的に違う点があることに気がついた。それは「ペットボトルのサイズ」だ。日本人はほぼすべての人が500mlのサイズを好んで購入するのに対して、インド・ネパール系は多くの人がサイズの大きい2Lを購入していた。

 病院という特性上、飲料の種類をあまり選べないので、そこに対する差異を認めるのは難しいが、それでも日本人は緑茶と麦茶とミネラルウォーターと、バリエーションが見られる。これに対してインド・ネパール系はほぼミネラルウォーターのみで、それ以外のペットボトルを見るのはまれだ。


 快適さ優先の日本人


 このことからわかるのが、日本人は風味や手軽さを優先して、コストを二の次にしているということだ。これに対してインド・ネパール系は、徹底してコストパフォーマンスの良いものを選んでいる。

 このコストの面をもっと深掘りすると、自動販売機で500mlのミネラルウォーターを買うのと、スーパーで2Lのミネラルウォーター買うのとではどうだろうか?恐らく値段はほぼ変わらない。下手するとディスカウントストアで買えば、2Lのミネラルウォーターのほうが安い場合も少なくない。コストパフォーマンスを考えたら圧倒的に2Lである。

 にもかかわらず、日本人は500mlを選び、それどころか風味のついた緑茶や麦茶を選ぶ。もちろん何を選ぶかは自由なのでそれを承知であれば構わないのだが、こういう買い物の仕方を続けていては塵も積もれば山となるでドンドン財布からお金が逃げてしまう。


 自分で自分の首を絞める日本人


 これはほんの一例で、日本人は本当にお金の使い方がヘタだと思う。こういう普段気にも留めないような細かいムダな出費に鈍感な人は実に多い。鈍感であるがゆえに気づかず、何回も繰り返し、気がついたら何10万とかいった金額に膨れ上がっていることも少なくない。

 特に飲料のようなものは、消耗品だし生活必需品でもあるので、購入回数は天文学的数字になる。塵も積もれば山となるが如実に出る買い物であるから、どんぶり勘定でいるとたちまちお金を失う。

 しかもこれから日本の経済や社会状況を考えると、庶民のお財布はどんどん厳しくなるだろう。今まで通りお財布の紐が緩いと、貧困層への転落は免れない。こういう細かいところの家計の見直しができるか否かが、生き残りの明暗を分けるだろう。