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2026年2月6日金曜日

不甲斐ない自分を認められない人ほど「自分らしさ」と言いたがる

 よく左派やリベラルの間で「自分らしさ」というワードが使われる。「自分らしい生き方をしよう」とか、「自分らしく生きられる世の中を」とか、スローガンやら講演やらで頻繁に叫んでいる。

 ただこの人達に「自分らしさ」って具体的には何?じゃあ、今までの自分は何なの?と聞くと、「・・・」となる。多分、自分らしさというワードが持つポジティブそうな先入観だけでいいものと飛びついているだけで、その中身について考えたことがないのだろう。単純に素の自分を出せない=自分らしくないと考えているだけではないのか?


 素ではない自分は自分でないのか?


 こういった自分らしさというワードを頻繁に使う人というのは、仮面を被った状態を殊否定する。素を出せない自分は自分じゃない、ありのままの姿でない自分は自分じゃないと言う。

 それなら、今の自分は誰なんだ?という疑問が湧く。自分じゃない自分って誰なんだろう?と。でも、実際のところそんな今の自分も、自分じゃないと言って否定している自分も、紛れもなく自分そのものである。親兄弟ではないし、友達でもないし、まして会社の上司や同僚でもない。誰かと言われたら、やはり自分でしかないのである。


 容認できない自分がいる


 結局それというのは、一人の自分の中に容認できる部分と容認できない部分があるということだ。公共の場で自分全開にするのが理想で、そのように振る舞える自分なら認められるが、実際には臆したり空気読んだりして仮面を被っているのは自分として認められないというわけだ。

 それは裏を返せば、自分にとって理想的な部分は認められるが、欠点や不甲斐ない部分などマイナス要素は認められないということ。つまり、自分の中の様々な要素を選り好みしているということだ。


 不甲斐ない部分もあるからこそ今の自分がいる


 なら、欠点や不甲斐ない部分が自分になく、理想的で完璧で自分らしさ全開だったら、今まで自分の人生を歩めたかというとその保証はない。もしかしたら、その欠点があったからこそ生きてこれたかもしれないし、不甲斐なさのお陰で何とかなったかもしれない。そう、欠点や不甲斐なさは今の自分を構成する要素のひとつに過ぎないのだ。

 つまり、今どんな状態であっても、全てが「自分らしさ」となるのだ。だからこそ、「自分らしさ」というのは自分を追い詰める呪縛でしかなく、欠点や不甲斐なさを受け入れた先に呪縛からの解放と、真の「自分らしさ」の受容が始まるのだ。




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