そもそも自分個人の価値観と裁量で相手に向かって差別だというのは、価値観の押し付けであると同時に、相手の名誉や信用を不当に貶める行為でしかなく、一個人が独断で判断していいことではない。それどころか司法にしか判断の権限を認められていないので、法廷の場で尚且つ裁判官であることが条件であり、個人が勝手に差別だと言って相手を罵るのは越権行為であると同時に、法律違反にもなりうる。
にもかかわらず、何かにつけ他人との違いに差別と言って攻撃するのは尋常の精神ではなく、これに執着するのは何か特殊な深層心理があると考えられる。今回はこのことについて、深く見ていく。
そもそも違うのが人間
その前に大事な前提として、誰一人として同じ人間はいないということだ。例えDNAが同一である一卵性双生児であったとしても、髪型、シワ、老化の進度、指紋など、どこかしら身体に一致しない部分は生じてしまうし、学校のテストの点数や仕事場での配属、家事育児のタイミングなど生活面でも一致しない所は出てきてしまう。それだけ同一の人間というのは存在しないのだから差異があるのは当然で、それを操作しようなどというのは不可能である。
差異を認めたくない人=他人より損したくない人
にもかかわらず、その差異を認めたくないという人がいる。常に他人と比較して少しでも劣っていたり、取り分が少なかったりするとすぐ差別に結びつけてしまう。本当は陰で相手はトレーニングを積んでいたり、遊ぶ時間を削って勉強をしていたりしているからこそ差異が生まれているのに、そんなところは見向きもせず、結果だけを見てズルいと言う。
しかもこういう人は自分が生まれつきリードしていることに関しては、相手の実力不足だと言い放って切り捨てる。
結局、こういう人は自分が損することに敏感で、その嫉妬心から受け入れられないのだ。だからチャレンジや努力も面倒だし、プレッシャーがかかって損した気になるので、やろうとしない。そしてそれに対する自己弁護として、「差別」「自分は恵まれなかった」という言葉をすぐ持ち出したがる。
人のことを言う前に、人間性を身につけるのが先
自分はそれだけ人間的に成長できておらず未熟なままなのに、他人のことを差別だと言って罵ったり、非難したりするのは、どの口が言ってるんだという話だ。相手は多くの苦労と経験を積んで大人の道を二歩も三歩も先を進んでいるというのに。その差が開いているのは自分が己を磨くのを怠ったからで、決してそれを相手のせいにしてはならない。
それどころか差別だを言って罵るのは、相手をおとしめる行為で悪逆非道に他ならない。人間は嫉妬に駆られるとこういうところが見えなくなるし、そうなったが最後精神のコントロールを失って衝動の権化になってしまう。
そうならないためにも常に自分を戒める必要があるし、人のことを言う前に自分自身の人間性を高めることのほうが何より重要である。
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