中には成功し何かを手に入れたケースもあるが、かえって敵を多く作って反感を買っていたり、反撃を受けて厳しい引き締めを招いてしまったり、結果的に独り占めになって理想とは真逆の結末を迎えたりしている。そのため、さらに苦しい状況へ追い込まれて自らより不幸へ落ちていってさえしており、こういう姿を見ていると実に滑稽でしかない。
弱者を盾にするのは、下から人を操作する方式
弱者を盾にするという行為は、そもそもどういうものか?
まず自分が弱者であると人々に認識してもらわないといけないので、自ら自分を格下認定してそれを世間へ明らかにする必要がある。そう、黙っていれば相手は何も知らないから対等な関係でいられるのだが、弱者を盾にするためにはわざわざ自分を格下扱いしなければならないのだ。
そして格下であるがために不幸である、被害を受けているとアピールする。そんな不幸な私を助けないのは人の道に反しますよね、だから私の言うことを聞かないのはおかしいですよねと言って、自分の要求を飲ませる方式である。
こういう下から人を操作する行為は、数多くの心理士やカウンセラーによって本能的に人間は嫌悪するようにできているし、出会ったら避けるようにと解説している。それはこの後双方に不幸が待っているから、それを避けるために事前に察知するようにできているからだ。ではどんな不幸が待っているのか?
こういう下から人を操作する行為は、数多くの心理士やカウンセラーによって本能的に人間は嫌悪するようにできているし、出会ったら避けるようにと解説している。それはこの後双方に不幸が待っているから、それを避けるために事前に察知するようにできているからだ。ではどんな不幸が待っているのか?
欲しいのもがある限り不幸でいる必要が出てくる
弱者を盾にすることで問題なのは、一つは自分がいつも不幸でいることが条件になっている点だ。不幸が解消されると相手を揺するための名目がなくなってしまうため、欲しいものが手に入らなくなる。だから常に自分が不幸である必要が生じるので、欲しいものがある限り不幸でい続けなくてはならず、幸せを自ら手放さなくてはならなくなる。
結果、何を手に入れても満足できない欲求モンスターになり、要求がエスカレートし、社会に害悪を与える存在になり、ついには多くの人々の堪忍袋の緒が切れて追い出されてしまう。しかも本人がこれに気付かないのが、もっと問題である。
二つ目にただで利得を引き出す行為である点だ。弱者を盾にするのは本人は要求が通って利益があるが、相手は何も得ていないので利益がない。つまりギブアンドテイクが成り立っていない。アダム・グラント氏のギブアンドテイクという本によると、人間の7割はマッチャ―という五分五分の関係を望むタイプのため、ギブアンドテイクが成り立たないと腹を立てる。その結果、賛同を得るばかりか反感を買って7割の人は離れて行ってしまう。
三つ目に問題なのは他人へ依存を強めて、自立ができなくなる点だ。こういう人達であっても助けようとするギバーと呼ばれるタイプの人がいる。このギバーはアダム・グラント氏によると1割しかいないそうだが、この貴重なギバーへ依存せざるをえなくなる。ギバーは数が少ないのでそこに要求が集中し、骨の髄まで吸われることになるのでギバーは神経をすり減らしやせ細ってしまい、ついには潰れてしまう。こんな関係はいつか破綻するのだ。
弱者の肩書きを捨てることが幸せへの第一歩
その一方で、同じ境遇でありながらも弱者を盾にせず、自分の腕でつかもうとする人もいる。そういう人は紆余曲折ありながらも概して欲しいものをつかんでいるばかりか、それをさらに拡大して自分の予想だにしなかった結果を残している。そうやってつかんだものは誰かが奪おうとしても尽きることがなく、確固たるものとなっている。
そこにはギブアンドテイクが成り立っているから誰も損をしていなし、不幸なポジションに身を置くこともないからしっかり幸福を感じ、満足することもできる。モンスターになることもないから人間関係も良好で依存することもない。
弱者の肩書きを捨て、自分自身を育て、むしろ自分のほうが人々に与えることが、幸せになるための条件なのだ。
そこにはギブアンドテイクが成り立っているから誰も損をしていなし、不幸なポジションに身を置くこともないからしっかり幸福を感じ、満足することもできる。モンスターになることもないから人間関係も良好で依存することもない。
弱者の肩書きを捨て、自分自身を育て、むしろ自分のほうが人々に与えることが、幸せになるための条件なのだ。

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