多くの人は単語を読めても、文章になるとわからない?

 インターネットが普及し、見ず知らずの人とコミュニケーションするようになった昨今、10年20年前よりも単純に文章に触れる機会が増えたと思います。特にSNSによる拡散で、意図せず他人の発言を目にするようになって、その頻度は格段に上がりました。誰でも自由にアクセスできるパブリックなサイトで発言でき、それを自動的に不特定多数の端末に表示される。そんな世の中が、日常になりました。

 しかし、この誰でも書ける、誰でも見れるというシステムが、今まであまり明るみに出なかったある問題を露わにしたと思います。それが・・・

「国語力」

 ひと昔前なら、何か文章を書くとなると新聞、書籍、雑誌などの媒体に限られていました。当然ここに寄稿できるのはプロの人だけで、それなりに学識やキャリアを持っている人でした(マスコミはどうなんだという話は、ここでは置いておく)。その分野に精通した人が、それに応じたリテラシーや教養の元に文章を書くので、それなりに国語力のあるものが提供されていました。

 そして、こういった媒体は自ら手にし購入しないと読めないので、読者もその分野に一定のリテラシーや教養がある層に限られ、お互いの国語力にバラつきが少なかったと思います。

 それが現代になって、無名の一般人までもが書き込めるようになり、自らの国語力が丸裸になる時代がやってきました。ボキャブラリーの多少、文法の理解、長い文章を読む忍耐力、未知の単語を調べる意欲、文章全体の要約と抽象化、論理展開の方法などなど、文章を読むのも書くのもこれらの能力が必要になってきますが(これ以外にもいくらでもあるが)、そういったものがやり取りする上でオープンになってしまったのです。

 さらに、人間は自尊心を守ろうとする働きから、自分の能力を高く見積もる性質があるため、自分の不出来の部分に気付かないという心理効果も働きます。

 そこで今回は、SNS時代になって問われるようになった「国語力」とその仕組みについて、論じていきます。


SNSほど難易度の高いツールはない

 私はTwitterなんかを普段利用していますが、「最近、京都へ行ってきましたー!」とか言って、短文を添えて写真をひょいっと上げるなんてこともします。もちろん、生活の一部分をカットして気軽に見せるには丁度良いツールです。

 しかし、これが一旦イデオロギーや政治の話となるとどうでしょうか?全角140文字で収まるかというと、まず無理でしょう。この文字数で収めるとなると、かなり要約しなければならないし、抽象化した文章にならざるを得ません。とてもではありませんが、具体的な事例まで上げていたら文字数が足らないのは明白です。つまり、表現できる範囲に限りがあるのです。

 ということは、読み手にもその少ない文字数でどれだけ読み取れるかが問われます。特に抽象化した書き方をされた文章の場合、これが現実の世界でどう反映されるのかシミュレーションしながら読まなくてはならないし、要約されている場合はその要因が何なのかというのを推理しながら読まなくてはなりません。それを読み解くには、単語と文法がわかっていないといけないし、それを合体させるとどういう意味になるのかという論理的推察力が必要になってきます。

 なので、多くの人は140という文字数の少なさだけで簡単と判断しますが、それは手数が少ないだけで、国語力という点で見たらかなり難易度の高いスキルが求められることがわかります。


人間は自分のこととなると客観視できない

 ここ近年、脳の発達や学習到達度などの差によって、IQ以外の思考力にも能力のバラつきがあることがわかってきました。当然、平均以上の能力を持っている人もいれば、それ以下の人もいるわけです。統計学的に考えれば、その人数の比率はほぼ半々になります。

 しかし、面白いことに自分は平均よりも能力が高いかを問うアンケートを取ると、半数以上の人が高いと答えます。さらに面白い実験があります。ダニング博士とクルーガー博士の有名な共同研究です。一定数の生徒にテストを受けさせ、成績が平均以上のグループと平均以下のグループに分けます。テストの結果を知らせないまま生徒一人一人に、手ごたえや自分の点数の予想を尋ねました。

 すると、上位のグループは思ったより難しかった、もしくは並ではないかと答え、自分の点数を低く見積もる生徒が多く、反対に下位の生徒は思ったよりできたと答え、実際よりも点数を高く見積もる傾向があることがわかったのです。

 このことから人間は自分を客観視できず、能力の低い者ほど自分を過剰に評価することがわかりました。つまり人間は、自分の能力が足りていない部分に自分で気づけないのです。これを両博士の名前を取って、ダニング・クルーガー効果と言います。


国語力の差から生じる弊害

 そしてこれが国語力に表れて、その状態でSNSを利用したらどうなるでしょう。国語力のある人の話にない人が無自覚のまま、もっと言うと国語力があると過信して入り込むので、情報伝達の方法や理解度に大きな差が生じ、その差が埋まらぬまま話が進行することになります。

 せっかく正しい語句を用いて理路整然と説明しても、聞き手がその語句を知らなかったり、間違った文法で読んでいたら、それは本当の意味を理解できません。特に単語に関しては置き換えることも可能な場合もありますが、文法が間違っていたり、面倒くさがってところどころすっ飛ばして読んだり、はたまた認知バイアスにかかっていて曲解されたら、話し手のほうでは手の施しようがありません。

 これが昨今SNSで起こっていることなのです。

 実際にこの国語力の違いによって、SNSに限らず様々なところで影響が出ています。例えば、ここ最近のメディアやタレントが何か発言する際に曲解する人がいるので、いちいち断りを言うようになって本題に水を差す機会が増えたり、ネットで医学的な話をしているにもかかわらず、そこに人権の話と思い込んで場を荒らしたりというケースは、私以外にも見たことある人は多いのではないでしょうか。


国語力の低さは自分は気づかなくても、相手にはバレる

 しかし、先ほども言った通りダニング・クルーガー効果が働くので、国語力がない人でもできていると思い込んでいます。なので国語力は自分ではわからないし、国語力がない人同士であれば気づかれないでしょう。

 しかし、相手が国語力の高い人物であった場合はそうはいきません。なにせ、自分よりもリテラシーが高い分、正解を知っているわけですから、間違いに気づいてしまいます。ここを反対の意味で捉えたなとか、ここの論理が成り立っていないなとか言って判明してしまうのです。さらに、それを素直に認めず押し通そうものなら、意図的であると捉えられ悪意があると判断されてしまいます。これは、自分にとって大きなマイナスです。

 なので、如何に早く自分の国語力に気づき、修正できるかがカギとなります。


国語力とは何か

 では、国語力とはなんぞやという話になりますが、この言葉自体が抽象的であるため、一つの要素を指すものではありません。思いつくところを列挙してみると、

 語彙(意味まで知っている単語の数)、文法(自己流ではない、正しい単語の使い方)、概念、読解力、抽象化、具体化、論理的思考、推察力(決めつけではない)、予備知識・・・

 といろいろあります。一個一個説明すると、

 語彙:語彙とは一つの言語における、言葉数の総量のことです。意味まで知っている単語をどれだけ多く持っているかを表します。

 文法:単語の組み合わせ方です。ここを間違うと、肯定文か、否定文か、疑問文か、過去形かなどがわからなくなり、意味を取り違えます。

 概念:一つの分野において共通する普遍的な要素のこと。辞書の表現を使うと難しく感じますが、自然科学を例を挙げると、この世の自然現象は神や未知なるものが起こしたものではく、ちゃんと物理的な理由があるはずだという前提条件の部分が、概念にあたります。

 読解力:語彙、文法、概念などを踏まえて、部分ではなく「全体」として何を言わんとしているか読み解く能力。

 抽象化:抽象化とは、個々の物事の共通する部分を抜き出して、一つの概念とすること。例えば、猫と犬がいて、生き物としては別だけれど、動物という点で共通しているから一括りで捉えるのがそうです。

 具体化:抽象化の反対で、実際の事例に当てはめたり、実例を出したりすることです。先ほどの猫と犬の例を挙げたのは、典型的な具体化です。

 論理的思考:自身の感情や願望などの主観を排除し、自然科学、統計、実験など、不変で客観的なものから得られた法則や傾向を基に考えること。

 推察力:与えられた情報や条件から、論理的に結論を導く力。

 予備知識:その分野を語る上で、事前に知っておく必要がる知識。

というのが、それぞれの意味です。

 これらをその時々で組み合わせて文章を作ったり、読んだりしているのですが、当然人間のことなのでここにも個人差があるのです。知らない単語があったり、間違って意味を覚えていたり、文法を間違っていたり、具体的な事例に当てはめられなかったりなど、どれか一つでもできない部分があると、言いたいこととは違った文脈になってしまったり、間違った解釈をしてしまったりすることにつながります。

 ゆえに、書き手も読み手もある程度の高い総合力が必要になります。特にどちらか一方が高いリテラシーを持っている場合は、尚更でしょう。


そもそも国語力の差はどこから来るのか

 このように国語力には複数の要素が絡んでいて、その能力には個人差があり、その差によって多くのトラブルを招くことを話してきました。では、そもそも国語力の差はどこから来るのでしょうか?

読書量
 これを原因と挙げる方は多いかと思います。もちろんこの読書量の差は、大なり小なり国語力の差に影響していると私も思います。読書量が少なければ、他人の言葉に触れる機会が少なくなるので語彙が増えないですし、相手が何を言わんとしているかを読み取る機会も少ないですから、相手目線で考える回数も少なく、客観視を身に着けるトレーニングになりません。

 さらに読書となると膨大な数の文字をひたすら見続けなくてはならないため、長い文章を読み続ける忍耐力が必要になります。読書に慣れていないと、ネットで長い文章を目にした時に抵抗感を感じ、中飛ばししたり、流し読みしたりして、意味が理解できなくなってしまいます。

話し言葉の多用
 現代のことですから、ネットスラングを用いたり、若者言葉を用いたりすることは多いと思います。ただ、現代の傾向として全く異なるシチュエーションであったとしても、同じ単語を用いるケースが多々あります。

 たとえば、「やばい」という言葉がそうです。元々は任侠の世界の言葉でしたが、やがて一般化し一般大衆も使うようになりました。その頃は、危険、危機的といった身の安全が脅かされる状況のみを指していましたが、今では凄い、美味しい、感動など場面関係なく使う人が増えました。そうなると他の単語を覚える必要がなくなるので、必然的に語彙が貧困になり、知らない単語が出てきた際に意味がわからなくなります。

 さらに興味深い研究があって、同じ単語を多用する人と語彙が豊富な人を比べた実験で、語彙が豊富な人は知能が高く、同じ単語を多用する人は知能が低いという結果が出ました。語彙の量と知能に相関性があるのです。そして知能は、論理的思考、抽象化、推察力に影響することが脳科学で考えられているので、国語力に関わってきます。

自己流の解釈
 一般的なパターンとは異なり、独自の解釈をする人もいます。普通はそう受け取らないのに、この人は何でそう取るの?と思ったことは無いですか。そういう特異な解釈をする人が、まれにいます。

 このタイプは、一つ一つの言葉に対して、自分独自のレッテルを貼っています。障害者=弱者、平等=万能、格差=差別のように、言葉に対して勝手なイメージを持っていて、その勝手なイメージの方で文章を読もうとします。なので、正しく読解できるはずもありません。これは認知の歪みから来るのですが、この歪みの背後には生育環境が影響しているケースが少なくなく、問題を深刻化させます。

 さらにこのタイプは、特定の単語が入っているだけで過剰反応する人もいるため、文脈関係なくヒステリーを起こす場合があります。加えて厄介なのが、メンツを守ろうとするので、自分から引き下がったり、罪を認めたりしません。

脳の成長
 言語を司るのは脳なので、ここ成長が無関係というのは考えられないでしょう。実際、脳の成長は発語のスピードにも影響することがわかっています。そして脳の一部である海馬は記憶力を司り、前頭葉は理性と論理と思考を司っていることがわかっているので、国語力に影響することがわかるでしょう。

言葉に対する認識
 これは私見ではありますが、国語力がない人に言葉を感覚的なものと捉えている人が多いように見受けられます。そもそも言葉とは音声や文字を組み合わせたものです。あらかじめその意味や文法を申し合わせておき、そのパターンによって全体の意味を形成します。つまり、暗号となんらやっていることは変わらないのです。

 多くの人は暗号を感覚的なものとは考えず、一定のルールによって決められたものと認識しています。しかし、言語となるとそう考えないのは矛盾しています。実際、外国語も言語ですが、感覚的に話すでしょうか?恐らく多くの人は外国語となると文法を気にすると思います。

 国語力のある人は母国語であっても、感覚的には捉えません。自分と相手では感覚に差があることを熟知しているし、お互いの国語力を過信しないので、誤解の生じる言い回しを避けます。思いつきで言葉を口にするということは、危ういのでしないのです。

文章を読む際の癖
 多くの人は自覚がないでしょうが、文章を読む際に単語を一つ一つ拾うようにして読む人がいます。例えば、「今は冬ではないので、雪が降らない」という文章があるとしましょう。単語を拾う人というのは、「今○冬○○な○ので、雪○降らない」みたいな読み方をする人です。これだと、今が冬で、しかも冬なのに雪が降らないという意味になってしまい、相手の言いたかったこととは異なってしまいます。

 嘘だろと思う方もいるかもしれませんが、意外にもいて、早とちりしがちな人に多いように思います。

 さらに、この傾向は発達障害を持っている人にも見られるとの話もあります。シングルフォーカスの傾向があることから、一点集中した読み方になりやすく、断片的にしか文章を読めないのだそうです。

ディスレクシア
 聞きなれない言葉かと思いますが、文字の読み書きが生まれつきできない、もしくは苦手とする障害です。ハリウッド俳優のトム・クルーズがこの障害を持っていることで知られています。

 この障害が重く、全く読み書きができない場合はSNSを利用しようがないので、反って問題にはならないと思いますが、軽度の場合だと症状が弱く自覚できていない可能性があるため、遭遇する可能性が出てきます。

 ただセンシティブな上、医師でないと判断できないため、中々どう接していいか戸惑うところです。


どちらに合わせるのか問題

 さてここで、一つの問題が生じます。それは、どちらのレベルに国語力を合わせるのかという問題です。レベルの高い人は能力があるのだから低い方に合わせるべきだと、国語力が低い人は言います。確かにレベルを合わせることだけを考えたら、その結論は妥当です。でも、果たしてそれでいいのでしょうか?

 答えはノーです。なぜかと言うと、一つは語彙が少ないと表現できないものが出てきてしまうからです。日常生活ならまだしも、仕事や学問、趣味など専門性が高い分野においては、膨大な情報が日々やり取りされています。その中には正確性が問われたり、細やかなニュアンスが尊ばれるものも存在します。これらのことを説明したり表現したりする際に、否が応でも国語力が必要になります。

 例えば、仕事上用語を多く知っていたほうが余計な説明を省けて、もっと中身の濃い話をたくさんできますし、文学の世界でも「水に浮かぶ桜の花」と言うよりは、「花筏(はないかだ)」と言ったほうが、比喩表現になり風情を感じます。

 二つ目は社会全体の読解力の低下を招き、つたない表現しかできなくなるからです。そうなっては言語自体が陳腐なものになってしまい、表現できることがどんどん減ってしまいます。そうなると、コミュニケーションにも障害が発生し、意思疎通が困難になってしまいます。

 三つ目は学力の低下を招くから。国語力が低いと教科書を読み、理解することもできなくります。そして、どんな教科も文章で説明されている以上、国語は全ての教科で必要になります。

 数学の場合も例外ではなく、計算ドリルなら国語は必要ありませんが、文章題や証明問題も主題されるので、その際に出題者は何を問うているのかがまずわからないと解けません。社会の場合も事件のきっかけ、経過、影響が読解できないと解けないですし、人生の教訓とすることもできません。

 なので、低い方に合わせるのは妥当ではないのです。もちろん、先端医学や電子工学などあまりに専門過ぎる内容はほとんどの人がわからないので、そういったものはレベルを落としてくれないとわかりませんが。


国語力をアップさせるには

 では国語力をアップさせるには、何をしたらいいのでしょうか。今まで書いてきた内容にも少しありますが、ここに列挙していきます。まずは、

読書
 これは誰もが言います。やはり読書量が多い人は語彙も知識も豊富なので、否が応でも国語力も身につきます。特に出版物は推敲や編集、校正を行うので、正しい言葉の使い方に直してあります。本来の言葉の意味を知ることができますし、正しい文法を目にする機会にもなります。

 さらに長い文章を見慣れることで、活字に対する抵抗感を減らすことができ、じっくり読めるようになります。

本の要約を人に話す
せっかく読書をしても、独自の解釈をしていたら国語力がアップしません。合っているかどうか確かめるために、本の要約を人に話してチェックすることを精神科医の樺沢紫苑先生はお勧めしています。間違った解釈のままだったら、本の内容とは異なる知識になってしまうので、有効なものになりません。

 例えばトレーニングで間違った方法を行ってしまい筋肉がつかないとか、設問を正しく読解できなくて誤答してしまうとかが起こりえます。

 さらに自己流の文法だと相手に伝わりません。ここで間違いを指摘してもらうことで修正でき、自分の言いたいことが伝わるようになります。

語彙を増やす
語彙が増えることによって、理解できる量と幅と深さが生まれます。どうしてもその言葉でないと説明できないこともあるので、知らないと伝えられないし、理解もできません。そのためにはどれだけ多くの言葉を知り、意味まで理解できているかが重要になります。そのため普段から多くの語彙を用いて書いたり、話したりすることが、トレーニングになります。

友達を変える
友達から受ける影響は少なくないです。教養のない人が周りに多いとそれが当たり前になるので、自己変革につながりません。裏切るわけではありませんが、次第にリテラシーの高い人へシフトすると環境を変えることができ、そのコミュニティが自分にとってのベーシックになるので、必然的にスキルアップになります。

カウンセラーを利用する
認知の歪みからくる場合は自分では気づけないです。例え気づいたとしても、自助努力で改善するには根深く、困難です。こういう時は、プロの力を借りるのが賢明です。心理カウンセラーはその道のプロなので、自分でやるよりも改善する可能性は高いです。

 ただし、過去のトラウマや親子関係を振り返る場合もあるため、一時心理的な痛みを感じることがあり、覚悟する必要があります。

感覚で捉えるのを止める
言葉はお互いの単語の意味と文法がそろって、初めて通じます。感覚と捉えると独自の解釈、独自の用法になり、齟齬(そご:解釈の開きのこと)が生まれます。まずはしっかりと基礎を身につけないと始まりません。


 いかがだったでしょうか?なかなか複雑で難易度高いと思った方も、いるかもしれません。もちろんすぐに身につく能力ではないので、じっくりやっていくことが肝要です。でも、国語力がつくとわかることが増えますし、今まで伝わらなかった自分の思いが上手く伝えられるようになるので、メリットは大きいです。ぜひとも取り組みましょう。


LGBTERで私のことが紹介されています
LGBTERでの紹介はこちら
https://lgbter.jp/lgbter/akari-yoshida/


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