日本において、患者の家族だったり、福祉に関わる初心者だっただりする人が、話を伺う相手としてよく他の患者や家族を選ぶ。本人に聞くのが一番だろう、当事者が一番知っているはずだという考えからの選択だと思うが、ちょっと立ち止まって考えて欲しい。本当に本人だった詳しいのだろうか?果たして本当に、当事者は包み隠さず洗いざらい話しているだろうか?そこに矛盾はないだろうか?
患者や当事者も医者ではないから素人考え
まず前提の話として、患者や当事者家族に専門知識はない。それは当然である。なぜならほとんどの人は、「専門医」の認定はおろか「医師免許」すら持っていないから。それゆえに彼らの考えは主観や感覚、憶測が中心で、的を射ない素人考えにしかならない。
もっと言えば、自分は何がわかってないのかすら自分で解明できていないからこそ障害とされているわけだから、本人だってわかりませんと答えるか、当てずっぽうで答えるかにしかならない。ゆえに、こっちが欲しい適切な情報を提供することはできないので参考にならないどころか、間違ったことやデマを伝えられてしまう危険性のほうが圧倒的に高い。
そもそも医学的な知識を踏まえているという確証はないし、それに納得できているかもわからないし、専門知識を学習するだけの能力を持っているとも限らない。つまり、地雷の要素が山ほどあるのだ。場合によっては、医者とは真逆のことを言う可能性もあるので、話を聞く相手としては適切ではない。
患者や当事者であるがゆえに利害がある
この利害という点についても見逃せないだろう。医師であれば本人でも家族でもない第三者なので、自分の人生やメンツ、プライド、体裁に係わらないから、どんな知識や情報でも提供することに抵抗がない。
しかし、こと患者や家族となれば話は別である。メンツ、プライド、体裁、利害に直接係わるので、自分の都合の悪いことは話さなかったり、嘘をついたり、話を逸らしたりする。人間には回避行動と言って自分が不利になる行為を避けようとする習性があるので、都合の悪いことまで素直に話す人は稀である。
それゆえに患者や当事者、家族は、最も真実を語らない部類の人間といえる。彼らにとって真実を語るのは、危険極まりないことだからだ。
深刻な問題ほど綺麗事では語れない
だが本当のところ、精神疾患や発達障害、知能のような複雑で深刻な問題については、綺麗事で語れないことのほうが圧倒的に多い。「個性」で片付くものでもないし、「みんな違って、みんないい」と言うならなんで生活や仕事に支障があるのかって話にもなる。もっと言うなら改善しないで生活できるなら、障害とは言わないし。
そういう活動家や自助グループがよく使う聞こえのいい当たり障りのないキャッチフレーズは、問題から目を逸らすわ、具体性がなくて実際にどうしたらいいという問いの答えになってないし、気休めにしかならないしで、実用的ではない。障害者にも才能があるだの、できることを伸ばしていこうだの、というのもよくセリフだが、それだけで済むんだったらとっくに社会に溶け込んでいるはずだ。
そういう活動家や自助グループがよく使う聞こえのいい当たり障りのないキャッチフレーズは、問題から目を逸らすわ、具体性がなくて実際にどうしたらいいという問いの答えになってないし、気休めにしかならないしで、実用的ではない。障害者にも才能があるだの、できることを伸ばしていこうだの、というのもよくセリフだが、それだけで済むんだったらとっくに社会に溶け込んでいるはずだ。
実際にはトラブルメーカーとなりうる部分が人よりも多いからこういう状態になっているわけで、そこをいかに制御するかも考えないと社会ではどうしてもやっていけない。歯の浮くことばかり言う人は心理的安全性を与えてくれるが、そういう人は相手にショックを与えまいとして耳の痛いことを言うのを避けるために、一番大事なことを教えてくれないので要注意である。
そもそも医学に関係することは医師と研究者にしか決定権がない
そしてこれはそもそも論の話になるが、医学に関係する物事は医師にしか決定権がないということについても知っておかなくてはならない。というのも、医師法という法律があって、医師以外の人が断定することを固く禁じている。これは患者であってもそうで、だからこそ患者や当事者も勝手な憶測や医科学に乗っ取らない主観のみの物言いというのも推奨されない。
特に障害受容ができていないと医師の判断に反したことを言うので、うっかり当事者の話だからといって聞いて信じてしまうとキケンである。
特に障害受容ができていないと医師の判断に反したことを言うので、うっかり当事者の話だからといって聞いて信じてしまうとキケンである。
矛盾や論理の破綻がないかを疑うことが大事
なので本当に情報が欲しいと思ったら、患者、当事者や家族に話を聞いてはならない。所詮素人だし、利害に応じて話を変えてしまったり、医師や研究者の指導に従っておらず勝手なことをやっている場合が多々あるからだ。
さらにその話が真実かどうか見極めるには、綺麗事ばかり言っていないかと、矛盾や論理の破綻がないかで判断できる。つまり消去法で判断するのだ。なぜ消去法かというと、真実かどうかを判断するのは難しいからだ。高度な実験を伴うエビデンスが必要だったり、人間誰でも主観が混ざって完全に客観的な判断をくだすことができなかったりするからだ。
これに対して、嘘や綺麗事、デマ、勘違いを見破るのは簡単である。相手の矛盾点や論理の破綻があれば証明できるからだ。
患者や当事者から話を聞きたいというのは、自分の中の決めつけ、固定観念であるし、単なる自己満足でしかなく、本人のためではないということに気付かねばならない。
これに対して、嘘や綺麗事、デマ、勘違いを見破るのは簡単である。相手の矛盾点や論理の破綻があれば証明できるからだ。
患者や当事者から話を聞きたいというのは、自分の中の決めつけ、固定観念であるし、単なる自己満足でしかなく、本人のためではないということに気付かねばならない。
正しい知識は、免許を持っている人か科学者に聞くしかない
結局のところ医学が関わる以上、余程のインテリでない限り、素人ごときが医学に即したまともな情報や知識を提供することはない。それは患者や当事者も例外ではなく、当人だからと言って正しいという証拠にはならない。
むしろ障害であるがゆえ、利害が絡むゆえ、所詮素人であるがゆえ、医学に乗っ取らない間違った情報を伝える可能性のほうが大である。ちゃんと知識を得たいのなら、
①医師、研究者を頼ること
②患者や当事者の話を聞きたがるのは、自己満足であると心得ること
②患者や当事者の話を聞きたがるのは、自己満足であると心得ること
③情報に矛盾や論理の破綻がないか確認すること
を守ることが必須である。
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