元々はここ近年日本の学生(フィンランドもそうらしいので、日本に限ったことではないが)の読解力と記述力が低下している問題について話していて、国語の成績は学習だけでは伸びにくいということを言っていた。この読解力低下に関しては新井紀子氏著「シン読解力」でも触れていたし、予備校講師の宗慶二氏も自身のYouTubeチャンネルで取り上げていたので、教育業界では有名な話なのだろう。
よく世間では読解力というと登場人物の気持ちや意図を読み取ることと思われているが、このお三方に共通する現代っ子の読解の問題というのは、アカデミックな論理構造をキチンと理解できているかというものである。証拠や事実、エビデンスをもって組み立てられたプロセス、いわゆる因果関係を理解できていない子が増えているというのだ。
そして、この論理を理解できる層と気持ちしかやり取りできない層との間で二極化が起きていて、分断が広がっている。
論理の壁と気持ちの壁
ここで岡田斗司夫氏が説いたのが論理の壁と気持ちの壁だ。いわゆるインテリ層は証拠や事実に基づいた論理展開や世の中の構造の探求を好み、現実的・実用的なテクニックに傾倒しがちだ。その分気持ちのウエイトが下がるため、お気持ち主義の人たちの訴えが非論理的で非現実的に映ってしまう。しかも、何度説明しても論理を理解されないばかりか、気持ちの話に引き込もうとされるため、壁を感じてしまう。
その上インテリ層は、ボキャブラリーが豊富で弁が立ち、知識も多く、理詰めするので、お気持ち主義の人たちは反論の余地がなくなって追い込まれてしまう。
反対にお気持ちしかやり取りしない層、いわゆるお気持ち主義の人たちは表面的な印象のやり取りばかりを好み、探求的な突っ込んだ話を好まない。それどころかインテリ層の論理の話を聞いても当たり前のつまらない話としか感じない。なので、インテリ層には見えている壁がお気持ち主義の人たちには見えておらず、自分の理解の乏しさに気付かない。
それどころかお気持ち表明ばかりに終始するために、インテリ層からはつまらなく映ってしまい、場違いな印象を持たれてしまう。しかも、インテリ層の気持ちのやり取りのウエイトの少なさがお気持ち主義の人からしたら冷たい印象に映り(完全なる決めつけなのだが)、気持ちの壁を感じてしまう。
実はこの現象は岡田斗司夫氏だけでなく私自身も体験しており、お気持ち主義の人から論理の話は「当たり前なことを言ってるだけで、つまらない」と言われたことがある。論理構造に興味がない人からしたら、事実を列挙しているだけで、ただのデータベースにしか見えてないのだろう。それがどう関係して、どう作用するのかが面白いのだが。
その上インテリ層は、ボキャブラリーが豊富で弁が立ち、知識も多く、理詰めするので、お気持ち主義の人たちは反論の余地がなくなって追い込まれてしまう。
反対にお気持ちしかやり取りしない層、いわゆるお気持ち主義の人たちは表面的な印象のやり取りばかりを好み、探求的な突っ込んだ話を好まない。それどころかインテリ層の論理の話を聞いても当たり前のつまらない話としか感じない。なので、インテリ層には見えている壁がお気持ち主義の人たちには見えておらず、自分の理解の乏しさに気付かない。
それどころかお気持ち表明ばかりに終始するために、インテリ層からはつまらなく映ってしまい、場違いな印象を持たれてしまう。しかも、インテリ層の気持ちのやり取りのウエイトの少なさがお気持ち主義の人からしたら冷たい印象に映り(完全なる決めつけなのだが)、気持ちの壁を感じてしまう。
実はこの現象は岡田斗司夫氏だけでなく私自身も体験しており、お気持ち主義の人から論理の話は「当たり前なことを言ってるだけで、つまらない」と言われたことがある。論理構造に興味がない人からしたら、事実を列挙しているだけで、ただのデータベースにしか見えてないのだろう。それがどう関係して、どう作用するのかが面白いのだが。
岡田氏の間違い
ただこの動画でひとつ岡田氏が間違っているのは、インテリ層は気持ちがわからないと言っていることだ。インテリだって人間なので気持ちはあるから、わからないということは決してない。
ではなぜインテリ層が気持ち重きを置かないかというと、そこに囚われるとゴールに到達しないことを悟っているからだ。インテリ層は成果主義でもあるので、欲しいものが手に入らなければ意味がないと考える。その際に邪魔になるのが感情・気持ちなので、目標達成の手段として軽視するのだ。
結局両者はわかりあえない
まあ、重視しているものが違うから、両者は分かり合えないだろう。目指すゴールがそもそも違うのだから、同じ道を歩もうとしても綱引きにしかならない。
ただ、お気持ち主義の人は他人に共感を求めるのだけは止めたほうがいい。それは自分の道に相手を引きずり込む行為なので、相手の歩みを邪魔していて、自由を奪っている。各々自分の道を自分の力で進めば問題にはならない。要は自分は自分、他人は他人なのだ。
そしてこれこそが真の多様性の目指す姿ではなかろうか。
そしてこれこそが真の多様性の目指す姿ではなかろうか。

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