フランスの大学入学について思うこと

フランスでの学生のデモ

フランス在住のひろゆきさんの話で、フランスではどの学力の学生でも好きな大学へ入学させるべきだし、権利があるはずだというデモが行われているらしい。一見すると学習機会の平等を叫んでいるようで聞こえはいい。好きな大学へ行けるのだから、その学生はさぞかし満足だろう。

が、果たしてすべての学生がそうだろうか?もっと言えば、教授、助教授らにとってはどうなのだろうか?

学力差がある学生がいるとどうなるか

好きな大学へ行けるとなると、実際どうなるのだろうか?例えばこういうことになる。

日本の最高学府といえば東京大学で、そこには全国から優秀な学生が集まってくる。好きな大学へ入れるとなると、高校1年レベルの学力しか持たない学生であっても入学できるわけである。


そんな学生が東京大学の授業を受けたところで、ついてこれるだろうか?答えはわかり切っている「NO」だ。

授業を理解できないこの学生は、落ちこぼれていき、次第につまらなく感じるだろう。単位も取れないから、留年、退学も頭をよぎるに違いない。周りとの実力差を見せつけられることにもなるから、疎外感も感じることだろう。そのような学生生活に満足するのだろうか?幸せに思うのだろうか?


ならば、この学生のために基礎学習から授業したらどうだろうか?学力の低い学生からしたらありがたい話で、授業についてこられるから満足するだろう。単位も取れるようになるし、進級も叶うし、東大卒の経歴も手に入る。

だが、ここは東京大学。学力の高い学生が大勢いる。とうの昔に基礎学習を終えて、より高度な知識を身に着けたいと思っている学生がいることを忘れてはならない。授業時間は決まっているのに、そこに基礎学習の時間を設けられたら、応用や高度な知識を学ぶ時間が減ることになる。これは大学全体の学力の低下を招きかねない。最も優秀な人材を育てるべく存在する大学でそれができなくなったら、本末転倒だし、教授陣も不本意であろう。

教える側の立場

教授陣から見たらどうだろうか?

そもそも大学は研究が第一の目的とされていて、世界共通の認識である。授業は付帯業務に過ぎない。つまり教授=研究者なので、研究に最も労力を割きたいというのが本音である。

その研究を達成するためには、より優秀な学生の手助けが必要であろう。

そこに学力に遅れのある学生が来たらどうだろうか?その扱いに四苦八苦することになる。


授業でもそうだ。差がある分、ダブルスタンダードな講義を強いられる。教材作成もより基礎的な部分まで扱わなくてはならないから、今まで以上に手間がかかるだろう。その分、本業である研究に割く時間が限られてしまう。

この件の根本の問題点

学力関係なくだれでも好きな大学に入れるというのは、一部の学生の一時の快楽しかもたらさず、最終的には全員悲劇的な結果にしかならない。


とすると、どこに問題があるのだろうか?

それは入学することばかり考えていて、その後のことを考えていないことでなないだろうか。いわゆる「手段の目的化」である。

そもそも大学とは研究、学習をする機関であり、学歴を得るための場所ではない。入学してからが本番であるにもかかわらず、入学自体をゴールとするからとんちんかんになるのだ。


だが、問題を起こす人というのは往々にしてこのことが理解できない。先読みができないのだ。目の前のことが全てで、目の前のことさえ達成すればことが終わると思っている。つまり、時系列の感覚や、出来事や時間の関連性が理解できていないのだ。わかりやすく言うと、物事をぶつ切りにして各々別件として認識しているのだ。

しかし、物事というのは必ず原因があり連動している。例えば、今国民生活が厳しいのは物価高だからだがなぜ物価高かというと、ロシアからの石油や天然ガスの輸入を控えたり、ロシアが輸出制限をしたりして流通量が減っているからだろう。では、なぜそんなのことになったかといえば、ロシアとウクライナが戦闘しているからで、更にその理由はウクライナのNATO加盟表明が原因となっている。

といった具合に、物事というのは全てつながっているもので、ぶつ切りになっていないのだが、これがどうもわからないようだ。だから相手が連続性を持った話をすると、想像上のこととしか受け止められないらしい。そして、これをやったらどうなるという予測が立てられず、目先にとらわれた、はたから見たら利己的な判断しかできなくなる。

知能との関連

実はこの点に関しては知能や脳の発達との関連があるように思う。医療少年院に収監されている子供を調査した広島大学の研究で、知能指数80台~70台、いわゆる境界知能と呼ばれる子たちが多いことがわかったそうだが、少年院に入るくらいの犯罪を犯した子だから後先考えられないのは明白なのだけれど、それが数字でも表れた格好だ。

実際、丸いホールケーキを人数分なるべく均等に切るという実験で、縦にスライスする、明らかな不ぞろいなど、一般的には有り得ない切り方をする様が見られたそうである。一見何の変哲もない実験に思われるが、完成形を想定しないとできない作業なので、予測力が試される。

これが未就学児ならわからなくはないが、16~18歳くらいの子がやっているとなると考えざるを得ない。詳しくは宮口幸治氏著のケーキを切れない非行少年たち(新潮新書)をご覧いただきたい。

どう納得させるか

学力が低い学生でも自由に入学させるのは、お互いのためにならないので不可であろう。ただ、これを先読みする力のない学生にどう説明し納得させるかは至難の業である。昨今の社会情勢を考えると、差別と曲解されかねない。しかもこういった問題は、本人に自覚が無いことが多い。さて、どうしたものか・・・

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