読解力のレベルの無自覚

以前Twitterで私の文章の書き方や文章力について、2人から指摘もしくは罵倒されたことがある。もちろん私も人間なので、誤解を与えるケースもあろうとその時は思った。

しかし、後になって考えてみると腑に落ちない点が湧き上がってきた。特に相手の読解力のことを考慮してなかったなと。その点について、考えてみる。

未熟な読解力

読解力を問う上で、一つ問題を出してみよう。

例題
花子さんはお母さんから、大根1本と豚肉200gを買うよう、お使いを頼まれました。スーパーに来ると、大根は1本80円、豚肉は100g120円でした。しかも今日は大根の特売日で、3割引きでした。花子さんはそこで100ポイント使って会計しました。実際に支払った金額はいくらですか?ポイントは1ポイント1円として計算しなさい。※消費税は考慮しないものとする。

こんな問題だ。日常生活でありそうなシチュエーションだろう。答えは196円である。
計算式は、

80×(1-0.3)+120×(200÷100)-100=196

となるのだが、思ったよりも解けない成人がいるらしい。

こうやって書くとこの式の計算ができないのかと捉えられがちだが、実はそうではない。そもそも、この計算式自体を導き出すことができない人が潜在的にいるのだ。

文章題というのは複数の能力を要求される。

1.文章を読んで、何を問われているのかを導く能力。
2.一旦それぞれを分解してカテゴリー分けし、個別に考える能力。
3.それを最終的に合体させて式に仕立てる能力。
4.その式を正確に計算する能力。
など

数学の問題なので単純思考の人は数学の能力が問われていると思いがちだが、この1と2の部分で読解力が問われている。つまり文章題というのは、国語数学二つの能力を持っていないと解けないのだ。

そういうお前はどうなんだと言われかねないので一応断っておくが、実は私は学生時代県内の模試で必ず上位3位以内に入っていた。1位を獲得したこともあるし、その時の偏差値は70を超えていただろう。

しかも私は数学の文章題を最も得意とし、先述のように式も立てられ最終的な答えにまでたどり着くことができている時点で、一定レベルの読解力はあるだろう。

だが、みんながみんな同じレベルであるとは限らない。中にはこの読解力が欠落していたり、遅れを生じていたりして、できないひともいる。しかもその状態のまま、社会に放り出された人は実生活でどういう目に遭うだろうか。

要求される読解力レベル

ここで先のTwitterの話に戻る。Twitterは140字というかなり少ない文字数で書かなくてはならない。当然要約して書かなければ収まらないし、それでも書ききれない場合ははしょらざるを得ないケースもあることだろう。

そうなると、先の文章題以上の読解力が必要になってくる。文章題なら書いてあることが全てだから、それさえ読めればまだ問題は解けるが、字数制限がありはしょって書いてある文章の場合は、行間を読む力(推理力まで要求される。つまり、Twitterは読解力と推理力が必要な実にかなり高度なツールなのだ。

もちろん書かれていない行間の部分というのは、様々なパターンが想定されるだろう。なのでどれが当たりかわからないから、賢い人は一つにしぼることはせず、その中で最も万人受けする無難な選択をする。だから誰にでも謙虚で腰が低く、丁寧な言葉を使い、時には言葉を控える。それは誰が相手であっても、角が立たないからだ。

だが、読解力と推理力が無い人間はここを間違える。読解力がないから論理的に成り立たない有り得ない解釈をし、それを前提にして推理するからこれも間違える。千差万別という言葉は一応知ってはいるものの、目の前にしている人が一人だと推理を一つにしぼろうとするので、読みが外れる。結果、人によって態度が異なる上、読みが外れるから場に相応しくない態度となり、嫌な奴のレッテルを貼られる。

ダニング・クルーガー効果

この背景には一つ厄介な問題が潜んでいる。ダニング・クルーガー効果だ。能力の高い者ほど自分の能力をそれと同等かもしくはそれよりも低いと評価し、能力の低い者ほど自分を能力以上に高く評価するという心理効果だ。

そもそも能力の高い者は模試の結果や入試の合否など数字を拠り所にする。数字だから誰にも変えようがないし、他人が判定したものなのでシビアである。

反対に能力が低い者は自分の感覚を拠り所にする。少しでも良く見せたいから、自分に甘い評価になりがちだ。しかもそれをなぜか、論拠もなく間違いないと確信している。

このように能力の低い者は自信家で有能であると勘違いしているから、上には上がいるということを知らない。仮に知っていたとしても、確率は低いし、そもそも低姿勢になりたくないから、上から目線になってもいいだろうと判断する。なので、落第生が教師に向かって講釈を垂れるような、実に恥ずかしい愚行をする。これも自分のことを読み間違えていることがなせる業だ。

賢い人はこうなって自分の評価を落とすのが嫌だから、誰に対しても低姿勢だし、言葉を選ぶ。これを心理学の世界で知的謙遜(ちてきけんそん)と言う。

だが、賢い人が首を垂れる姿を見て、愚か者は卑屈だと罵る。メンツを重んじる愚か者にとっては、首を垂れるなんて有能であるはずの自分が情けなく映るから、格好悪くてしょうがないのだ。

とはいえ、この点に関しては誰にでも起こりうるケースなので気をつけたいところだ。

まとめ

文章というのは、なかなか難解である。実際海外の研究で文字だけで書かれた情報は、平均すると人間は30%ほどしか理解できていないという結果も出ている。それほどまでに文章は理解するのが難しいし、それだけ読解力が必要になるのだ。

ましてや、書かれていることが全てだなどというのは、とんでもない思い上がりだろう。しかも、相手の素性も考えずに発言するのは、あまりに愚かである。

常に謙虚でいることを心に留めておきたいものだ。

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