論理的に考える人とそうでない人

世の中には何か一つのテーマが与えられたときに、論理的に考える人(理論派)とそうでない人(非理論派)がいる。論破王のひろゆきさんやメンタリストDaiGoさん、オタキングの岡田斗司夫さんなどもこれについて論じているが、私はこう考えるというのを書いてみる(こういうところが、理論派のうざいところなのはわかってる)。

そもそも論理的とは


論理的とは何ぞやということなんだけど、これを理論派の人に説明するのは非常に簡単である。ひろゆきさんやDaiGoさんが使ってる、

A=B
B=C
ならば、
A=Cである。

という説明でこと足りる。

ただ、この説明は典型的な三段論法過ぎて、説明不足な気もする。もっと細かく突き詰める必要がある。

論拠の確証

まず論理に必要なのは、前提となる論拠だ。ここが成り立っていなければ、論理が破綻してしまう。そのため、論拠に客観性のある確証を持たせる必要がある。そこに個人的な思惑が入ってしまっては、客観ではなく主観になってしまい、自分次第でどうとでも言える話になってしまうからだ。

そこで理論派は、データや論文などを論拠とする。データは数値で表されるので、そこに自他ともに思惑を挟む余地が無いから、客観性が担保されている。論文は実験することによって仮説が正しいか実証したりデータ化したりして、そこから結論を導き出したものなので、これも確証が高い。だから理論派は、データや論文を重視し、多く活用する。

ゴールは法則を見つけること

そしてこれらの論拠を駆使して理論派は何をしたいのかというと、新たな法則や傾向を見出したいのだ。そしてこれ見出すために必要なのが「論理的説明」なのだ。

A・B二つの実験結果が出た時、Aのほうが多数だったらAの傾向があると結論付けるし、アとイで比べてアでは病気の改善が見られたとなれば、アは効果があったと発表する。これが法則を見つけるということだ。

自分を抜きにして語る世界

ただ、ここまでの説明で論理の話の中に、自分のことが一切入っていないことにお気づきだろうか。そう、自分については一切語っていない。全て他人基準である。しかも多人数の。だから論理の世界では自分個人のことは挟みずらいのだ。これは話の持っていき方の都合上しょうがない。自分のことを挟んだ時点で自分本位となってしまうから、客観性を維持するために守らなければならないルールなのだ。

理論派の特徴


自分が無いと言われる理論派

今までの論理の説明からわかる通り、話の中に自分の気持ちや思惑を入れると客観性がなくなり、論理が破綻してしまうので、理論派は話の中に自分自身のことを一切入れない。むしろ、排除する。だから、論理的説明をしているときは全て基準が、大衆や被験者や国民など、赤の他人ばかりである。

このことから理論派は自分が無いとか、感情が無いとか言われるが、それとはちょっと違う。自分も一人の人間である以上、情や欲に流されるかもしれないと認識しているから、それを恐れて自分を出さずにコントロールしているのだ。結果として、大人びた印象を受ける人は多いだろう。

真逆の評価を受ける理論派

あまり感情を表に出さないから、理論派は一部の人から冷たいと思われがちだ。しかし自分を考慮に入れないから、その視点は第三者目線であることが多い。しかも分析するのが得意なので、本当は人間をよく見ているし、その分相手の気持ちを理解していることが多い。

ただその分析が行き過ぎて、相手の深層心理や核心にまで行きつくことも度々ある。相手からすれば痛いところを突かれた形になるので嫌がられ、気持ちを理解してないと言われてしまう。

合理主義で現実主義

理論派の人は自分とは別の次元で物を考えるので、欲が無いのかというとそうでもない。投資をする者もいれば、会社経営する者もいる。

でも、そこは理論派である。自分が何が好きか以前に、失敗や損失は最小限に、利益は最大にするほうを優先する。そのために勉強し、研究し、最も失敗確率が高いものを消去する。

そもそも彼らは、どんな物事でもやっているうちにはまってくるので、興味なんて後から湧いてくるものだということを知っている。だから特定のジャンルや業種にこだわらない。好きなことでも成功率が低ければ余程のことがない限り手を出さないし、最初興味の無いことでも成功率が高そうであれば果敢に手を出す。

無情と言えば無情だが、要は合理主義者で現実主義者なのである。

非論理派から見たら


では反対に、非論理派を見てみたいのだが、大きく分けると2パターンある。理論が理解できていないパターンと、論理的になりたくないパターンだ。

まずは理論が理解できていないほうから見ていこう。

論理が理解できないパターン


代数がわからない

先ほどの式

A=B
B=C
ならば、
A=Cである。

は中学で習う代数の知識を基にしているが、まず代数の知識と理論を理解していないと難しい。しかも、このケースだと「AはAでしかないから、Bであるはずがない。だって別の文字じゃん。」って思っている人もいる。

なので、この手の人には何かに置き換えて説明する必要がある。例えばこんなのはどうだろう。

ニワトリは卵を産む
卵からヒヨコが生まれる
だからニワトリの子はヒヨコだ

初めの例題に当てはめると、ニワトリがAで、卵がBで、ヒヨコがCなので、

ニワトリ=卵
卵=ヒヨコ
ニワトリ=ヒヨコ

論法としては同じなのがわかるだろうが、身近な生活に基づいているのもあって、このほうがわかりやすいことと思う。しかも、意外と実生活でも無意識に論理的思考をやっているのがわかるだろう。

なぜその結論になるかがわからない

あともう一パターンあるのが、アルファベットが代数なのはわかるけど、なぜ先の前提条件でA=Cと言えるのかがわからないというパターン。学生時代、数学の証明問題でつまづいていた人は、これに当てはまるのではないだろうか。

このパターンは1を聞いても1しかわからないケースと思われる。なので、式と式の間の説明も細かくしないとわからないのだ。例えばこんな感じだ。

A=B
B=C
ならば、
A=B=Cが成り立つので、
間のBを抜いて、
A=Cであるとも言える。

なかなか回りくどくて、理論派からしたら面倒くさいと思われてしまうが、そこまでしないとわからない場合もあることだろう。

ただ、上記二つのパターンは経験不足や説明不足が原因なので、トレーニングしたり工夫したりして慣れていけば、改善の見込みはあるかと思う。

論理的になれないパターン

これは厄介である。そもそも論理的に話をする気がないからだ。大体、なれないと言う時点で対立しやすいし、感情論になっているからどうにもならない。

ただ理由については分析できるので、書き出してみる。

欲望タイプ

先の説明にもあるように、論理で語ると大多数を基準にしがちなので、個人的なことを挟みずらくなる。つまり、多数決の論理になりやすい。なので個人や少数派の願望を叶えようとすると、論理は邪魔になる。

そこを理性や社会倫理で考える人もいるだろうが、全員が全員そうではないので、そこを無視してゴリ押しする人もいるだろう。そうなると、より多くの人が利益を得られるようにと考える理論派と、対立することになる。このタイプの人からしたら理論派を大衆迎合主義と映るだろうし、理論派からしたら大多数を犠牲にしてまで自分を優先するわがままなヤツと映るだろう。

しかも少数の立場である以上、まともに正面から立ち向かったら負けるのは必定なので、卑怯な手段に出ざるを得ない。なので、理論は無視、モラルも無視、矛盾があっても知らん顔ということになりかねず、トラブルメーカーのレッテルを貼られる人もいるだろう。

ただ一つ言えるのは、いかなる理由も人に迷惑をかけていいことにはならない。

感情的なタイプ

このタイプは感情のほうが反射的に先走ってしまって、論理以前に話し合いにすらならないケースが多い。理性が効かないパターンだ。

理性を司るのは、脳の主に前頭前野という部分だ。ちょうどおでこのすぐ内側にある。実はこの前頭前野、脳の中でも最も成長が最後になる部分で、成長が遅いとその分理性が効かないということになる。

なので何でもないようなことでも激高しやすく、論理的、建設的な話ができない。欲望タイプもそうだが、傍から見たら駄々っ子としか映らないだろう。

先入観タイプ

これは最初の印象や思い込みで、なんでも判断してしまうタイプだ。面倒、小難しそう、肌に合わないなど、何かにつけて曖昧な理由をつけて避ける。

このタイプは根底に自信の無さや恐怖感があるから、やったことが無いこと、新しいこと、あまり良い印象が無いことには抵抗しやすい。

ただ、感情的なタイプとコンボになると厄介だが、先入観のみの場合は慣れの問題なので、それが当たり前の状況になると徐々に話ができるようになってくる。そういう点では、打ち解ける見込みはありそうだ。

完璧主義タイプ

全てを自分の思い描いた通りにしないと気が済まない完璧主義タイプも、論理を嫌うだろう。現実には有り得ない、あったとしてもかなり成功率が低く非効率だからだ。理論上最も上手くいくやり方を提示しても、細部にわたるまで自分の思い描いた通りでないと納得しないから、却下してしまう。

理論派は物事が100%思い通りにいくなんてことはない、あっても確率が低いことを知っているから、意外と完璧は求めない。だから、自分の中の「ベスト」にこだわるくらいだったら、「ベター」な選択でいいと考える。

しかし、完璧主義者はそこを押してでも自分のベストにこだわる。その点で論理的ではない。

非現実的理想主義タイプ

誰しもこうなったらいいなと思うものはあるだろうが、これが行き過ぎると非現実的になる。そしてこうなった人には、論理は通じない。非現実な理想はあくまで空想で、この世には存在しないからだ。

論理は現実に起こったことを基にして筋道を立てる作業なので、良いところばかりを見せるとは限らない。時には残酷な結果、不都合な真実まで明るみに晒してしまう。これは非現実的な理想を抱いている人にとって、非常に都合が悪いから論理を無視する方向に走らざるを得なくなる。

こういうタイプは新興宗教にはまりやすい。新興宗教は非現実的な理想を、さも存在するかのように語って勧誘するからだ。彼らにとっては唯一の理解者となるから妄信する。

ただ、皆さんも知っての通り新興宗教の話は非科学的な何とでも言えるものだし、傍から見てちょっとヤバいなと思われる人が多いので、論理とはかけ離れた存在である。しかも幸せを目指そうとして、かえって苦しくなっている人も多い。その点でも矛盾がある。

認知の歪みタイプ

これはもうどうにもならない。何かにつけ真っ向から否定したり、言ってないことを言ったと思い込んでいたりするので、非常に対処に苦慮する。

このタイプは認知能力に異常があるので、論理的に説明しても極端もしくは論理上有り得ない理解のし方をする。しかも、心理学の研究でこういうタイプの人の中には、無意識に記憶の改ざんまで行い、しかもそれを妄信している人までいる。こういう人に限って記憶は絶対正しいと主張するし、どうして改ざんまでしていてそう思えるのか不思議だ。

ただこういう人はパーソナリティ障害を抱えているケースも多々あるので、取り扱いは困難を極める。離れる以外ないだろう。

結局のところ


論理的思考とは最適解を見出すための合理的な手段ではあるが、不都合な部分まで明るみに晒すかもしれない特性上、裏表の激しい人にとっては煙たいものになるだろう。上手く表に変換して活用しようとする人にはいいが、裏の部分を押し通したい、引きずっている人には相容れないだろう。

さらに精神と脳の発達に比例している感もあるので、全員が全員身につくものではないような気がする。

ただ論理的思考ができるようになると、感情や欲求との使い分けもできるようになるので、より要領よく世渡りできるとは思う。逆にこれが無いと感情と欲が丸出しになるので、世間で言う痛い人になる。

その辺賢く生きて行っていただければと思う。

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