炎上する人について思うこと

最近、車いすユーザーの伊是名氏が炎上したことが、ニュースでも取り上げられている。福祉の観点で見ると無人駅でもバリアフリー化に関しては必要だとは思うが、人口減少、コロナ禍、リモートワークの普及、電気料高の四重苦に陥っていて経営悪化している鉄道事業者からしたら、なかなか酷な話だと思う。

ただ、バリアフリー化の是非に関しては複数の要素が絡むし、こっちが立てばこっちが立たずの話になるから、ここではしない。今回取り上げるのは、炎上する人とはどんな人かについて分析したい。


発言者によって反応は違う


今回は無人駅のバリアフリーに関しての書き込みが発端となったのだが、仮にこれが別人の発言だったら炎上しただろうか?恐らく炎上しない人も一定数いるのは確かだろう。となると、炎上するかしないかは話題とはあまり関係なさそうだと考えられる。話題によって炎上するか否かが決まるのならば、誰が言っても同じ結果になるはずだからだ。

だが現実、どんな話題であっても炎上する人としない人が現れる。ということは、両者の間で話題以外の要素に違いがあって、これが作用して異なる結果をもたらしていると考えられる。ならば、その要素とは何だろう?


炎上につながる要素


当たり前と捉えるか否か


私も研究者ではないのでそこまで多くのデータを収集したわけではないが、どうもよく見ると度々炎上している人の中に、「やってもらって当たり前」、もしくは「当たり前のことを要求しているだけだ」と発言している人をしばしば見る。だがそれは本当に当たり前だろうか?

例えば、車いす利用者にとってはエレベーターは欠かせないとは思うが、そのエレベーターを設置するにはいろいろな人の手がかかっている。さらにこれを開発した人や発明した人の知恵や研究、創意工夫があって初めて製品化できている。もっと言えば、これを動かすためには電気が必要で、そのために発電しなければならないし、その会社を設立した創業者の先見の明と勇気があって成り立っている。

全てのものは、そういった多くの人が関わり、それによって起こった偶然の積み重ね、そこに至るまでの汗と努力によって物事は成り立っているのだ。つまり、そこに何かがあるということは奇跡であって、当たり前のものなどない。当たり前だというのは、その背後にいる人々のことを考えていない。


感謝の念と礼儀の希薄さ


今回問題になっている伊是名氏について不信を抱いた大きな点は、「感謝」の念だ。某ニュース番組で、株式会社KADOKAWA代表取締役社長・株式会社ドワンゴ代表取締役社長CEOの夏野剛氏が「結局駅員の方が手伝ってくれたわけですよね。感謝の気持ちはないんですか?」という投げかけに、当たり前のことを要求しただけだと終始感謝の言葉を言わなかったのだ。

さすがにこの態度には、人間性を疑わざるを得ない。人の手助けを得たのだから、それに対してはお礼を言うのが礼儀である。例え自分にとって不本意な対応をされたからとはいっても、感謝しなくていい理由にはならない。非難を浴びる人というのは、往々にしてこういう社会一般のマナーを逸脱する。もしこんな人に出くわしたら、二度と優しくしようとは思うまい。


私=絶対


それから炎上する人多く見られるのが、意固地になりやすい傾向だ。私の言うことは絶対正しいとか、絶対に謝りたくないとか、「絶対」と言って自分の気持ちに固執する。ゆっくり解説の件なんかがそうだ。

一応違法ではないとはいえ、目先の欲にとらわれてアコギな手段でお金を稼ごうとしたのだから、サッサと謝って引っ込めたほうが自分の利益のためにも得策なのに、頑なに謝罪も商標権取り下げも拒んだ。結局、所属芸能事務所が説得して取り下げたものの、契約解除となり自ら芸能人への道を棒に振ってしまった。

そもそも、人間関係において絶対的に100%自分が正しいことなどありえない。お互いの関係性の中でもつれは起こるのだから、双方に不手際がある。さらに騒動になり始めているにもかかわらず、意地を張るのも大人げないものだ。


そもそも普段の素行が悪い


ただ、バリアフリーの件は公共の福祉にかかわる問題なので、普通に考えたら多くの人からの賛同が得られるはずである。にもかかわらず、結果は真逆の炎上となった。それどころか同じ車いすユーザーからも反感を買った。なのでちょっと調べてみたら、元々あまり良い評判を聞かない人物のようだった。

まあ、その評判がデマである可能性も否定はできないので、その点を差し引いたとしても同胞から非難を浴びているという。その理由を聞いてみると、訴え方が攻撃的で障害者のイメージを悪化させかねないという。伊是名氏によると昔は叫ぶだけでなく座り込みなどもして訴えて、バリアフリー化の法整備を進めてきたと主張しているが、果たしてそうだろうか?

法整備するには、一定以上の議席を持つ政党に所属する国会議員に陳情書を提出する必要がある。そして何人かの国会議員と面談を重ね賛同を集め、それを基に法案を作成し、国会に提出。衆参両院で審議されて、賛成多数で可決することによって法律は出来上がる。つまり、そういった地味で目立たぬ地道な事務作業をしてくれた人のお陰で法律はあるのだ。なので、攻撃的な訴えが功を奏したというのは憶測に過ぎず、断言できるものではない。

ましてや近年SDGsや草食化の流れの中で、攻撃的発言や行動は忌避されている。にもかかわらず、未だにそのような訴え方をするのは前時代的であり、流れに逆行している。現代人には野蛮に映り、受け入れ難いだろう。



根底にある共通点


その根底にあるものは何だろうと考えてみると、共通するものが見えてきた。それは、全て

「主観的」

であるということだ。炎上する人というのは、自分の主張であったり、自分の意地であったり、自分のイデオロギーであったりと、全て自分視点なのである。

しかし、それを受け取るのは他人である。なので、他人が受け取りたいと思うものでなければ、賛同されない。にもかかわらず、炎上する人にはそれがない。だから、他人から見た時に不躾に映ってしまい、わがままと言われてしまうし、紳士的な障害者はそこを懸念して非難するのだ。

ではこれを解消するにはどうしたらいいかということだが、「メタ認知」を鍛えるというのが現代では一番の方法だろう。

しかしこれは、自閉傾向のある人には難しいだろう。メタ認知とは客観的視点を身に着けることだが、そもそも客観的視点の概念をよく理解できないからだ。自分も他人も同じ価値観で動いているし、同じものを見ていると思っている人に、第三者目線というのは未知の領域過ぎて、想像できないと思われる。

だから、自分の思考が全てになってしまい、折り合いが付けられない。だからいつまで経っても言い分が通らない。これは主義主張とは別の問題で、人当たりや行動パターンの問題なので、混同してはならない。まあ、この手の人は永遠に話を聞いてもらえず、邪険にされるだろう。嘆かわしいことだ。

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