差別に関する被害者側の問題点

 ここのところ差別について度々取り沙汰されている。人種、宗教、部落、民族、ジェンダー、学歴、所得、地位、地方などそれは多種多様だ。正直多様過ぎて、こんなの全部守れる人などいないだろうし、故に全部無くせというのも無理な押し付けになるので、違うと思う。なので、いつまでも各々ポジションだけ見て要求するのは大人げないし、ある程度は不都合も分かち合わないと社会としてまとまらないと思う。

 ただ残念なことに、差別反対と唱える人の中には人の言うことに過剰に反応して、あれもダメ、これもダメと指摘し続ける人がいる。それどころか、誰も気にしてないのに差別されたと訴えたり、赤の他人の話なのに自分に向けられたと非難したりする人もいる。究極は私が差別と言ったら差別と、常軌を逸した発言をする者までいた。あまりにも主観的で、それだと何でもありの言ったもの勝ちになってしまい、倫理のかけらもないし、もはや法治国家ではなくなってしまう。

 この異常な被差別意識の裏には、何があるのだろうか?

差別の基準

 そもそも同じセリフを聞いたとしても、腹を立てる人もいれば、そうでない人もいる。なので差別されたと訴える人もいれば、冷静にやり過ごす人もいるということになる。大体、他人の心を100%読み取ることは誰にも不可能だから、発言者がどういった真意で言ったかはわからないし、それを確かめる方法もない。ゆえに差別したのかどうかなど、神様でない限り誰にも判断できないはずだ。

 つまり、誰が見ても差別だと言い切れるものはないと言え、聞き手の主観次第であるということだ。ということは、多くの場合聞き手が差別と思うか思わないかが決め手なので、聞き手であっても差別と思わない人がいることを考えると、一概に発言者の問題ではないことになる。

差別の本来の原因

 上記のことから差別の本来の原因は、受け手のほうにあることがわかる。では何が被差別意識の原因なのだろうか。それは、自分の中に触れられたくない部分があるからだ。もっと言えば、普段から自分の恥と思っている部分、疑心暗鬼になっている部分と、相手の発言内容のジャンルが被っていて、反射的に防衛機制が働いているからではないだろうか。

 つまり、発言は怒りを爆発させるトリガーで、根本の起爆剤は自分に対して羞恥心や疑心暗鬼の感情などがあり、自己肯定感を持っていないということだ。そして、そこを自分が一番見たくない触れたくないと思っていてるからこそ、過剰に反応している。

自己肯定感が無い人は他人基準

 ところで自己肯定感を持っている人にとって、基準はあくまで自分にあると思っている。生きてさえいればこの世に肉体はあり続けるのだから、それだけで自分は存在しうると思っている。実際に他人が「同性愛者は嫌いなんだ」と言ったとしても、自分自身が消えて無くなるわけではないから、自己肯定感を持っている人なら怒りを持たない。何より自分が同性愛者であっても恥ずかしいと思っていないから、「まあ、そういう思考の人もいるよね」と思うだけのことだ。

 しかし自己肯定感が無い人は自分の存在に不安感があるので、他人の評価や態度に基準を置いている。なので、他人の一挙手一投足が気になって仕方なくなる。だから他人がヨイショしてくれることを望むし、相手から拒否されたり図星を突かれたりすると、「あの人がこう言ったからムカつく」「この人がこんなことしたから許せない」といって、ヒステリックに怒りだす。場合によっては、文脈的に拒否されてなくても、特定のワードを聞いただけで反応してしまう。こうやって些細なことでも過剰に反応してしまうのだ。

自己肯定感が無い人のパターン

 では実際、自己肯定感が無い人がどういった行動パターンを取ることが多いのだろうか?

周囲にいるのはイエスマン
 自己肯定感が無い人は自分の周りにイエスマンしか置かない。自分の弱いところを突かれるのではという不安がいつも付きまとうので、怖くて仕方がないから、肯定意見しか言わない人としか付き合えない。こうやって私みたいに深層心理を深堀りし本当の自分を暴こうとする人や、自分の考えと異なっていたり間違いを指摘したりする人を遠ざけようとする。

間違いを認めない
 間違いを認めてしまうと、今までの自分さえも否定する癖が付いているので、本人にとっては決してできない。相手は間違った事柄のみを指摘しているのだが、自己肯定感が無い人は、全てにおいて「指摘=否定=自分」という図式を当てはめるので、耐えられない事態になってしまう。

0↔100思考・完璧主義
 精神が不安定な人に多い思考パターンだが、自己肯定感が無い人にもあてはまる。大抵の人は60%とか70%の及第点がとれていれば、まずまず良かったととらえるのだが、自己肯定感が無い人は取れてない部分があるからと悲観的な評価を下す。なので、一つでも上手くいかなかったことがあると、全て投げ出してしまうことが多い。

譲歩できない
 さらに問題なのが、人間関係でも完璧主義をやってしまうことだ。自分の願望が100%叶わないと気が済まないので、相手に譲歩したり妥協したりができない。結果50%50%の関係がわからず、損をしたくないからと100%自分の取り分として要求してしまう。

 しかも、願望を叶えることに盲目的になっているから周囲のことが眼中に無く、相手の取り分が0%でになっていることにも気付かないし、そのせいで相手が悲しんでいることにも気付かない。それどころかこれを指摘すると、自分の取り分を奪う酷いヤツといって罵ってくる。

シングルフォーカス
 もう一つ特徴的なのが、このシングルフォーカスだ。物事を個別に捉えてばかりで、全体を見ようとしない習性だ。例えば、相手が自分にないもを持っていたとして、それが欲しいからねだる。別の人がまだ他にないもを持っていたらねだる。また別の人を見かけたら欲するを繰り返していく。

 もちろん個別に見たら平等なのだが、全体としては自分ばかりが3つも4つも所持していて、むしろ不公平を生んでいる。だが、シングルフォーカスのために個別の事例しか見ていないから全体を見ることができず、総合的におかしいことに気付かない。

 以上のことから結果的にわがままな人という印象を与え、周りから人が去って行ってしまう。そして、一番残念なのがこれに自分が一番気付かないということだ。なので、「いつも私の周りから人がいなくなる」とぼやくことになる。

自己肯定感が無い理由

 では、なぜこんな心理状態になるのだろうか?個々の事例に関しては、本人と会って話をしないと判断できないが、考えうるパターンを列挙する。

遺伝
 身もふたもない話だが、これはかなり確率が高いパターンかと思われる。海外の性格分析の研究で、子供の性格形成に親からの遺伝の影響が平均50%を占めていることがわかった。となれば先天的に自己肯定感が無い可能性も考えうるだろう。

育て方
 育てられ方が影響している可能性もなくはないだろう。先の性格形成の研究によると、通常親の育て方の影響は0~11%という結果が出たので、この影響は軽微と見るのが妥当だが、毒親やネグレクト、虐待の場合は異なるとされているため、不健全な家庭で育った場合は考慮すべきだろう。

友達
 以外に思われるが、性格形成の研究で40%は友達の影響を受けているという結果が出た。具体的には、親しい友達5人の平均に自分の性格が近づいていくという。ということは、自己肯定感が無い友達と付き合っていると、自分も知らないうちに肯定感が無くなっていくということが考えられる。

成育環境
 自分が育った環境が影響しているかどうかだが、育て方や友達付き合いもここに含まれてしまうので、客観的に環境のみをピックアップして評価するのは難しい。余程すさんだ環境だったらあるかもしれないが、研究によるとこの点に関して欄外だった。

幸せになるには

 このように、他人が差別したから怒りを露わにしているのではなく、元々過去の人生の中で特定の思考パターンに陥り、そのせいで鬱屈としたものがあって、それを差別という形で噴出していることがわかる。では、これをどうしたらいいのだろうか。

自分を見つめることから
 これは自分の問題なので、まずは自分を見つめないと始まりません。その中には先ほども言った、恥ずかしいさや疑心暗鬼になっている心情、あとは自分の卑しいところなどの黒い部分も見る必要があります。これは非常につらいし怖いと思う。特に意地張っている人や負けず嫌いの人、正義感の強い人は、かなり抵抗感があると思う。完璧を装っている自分像とは、真逆のことを認めなけれならないからだ。

 でもそれだけ強い抵抗感があるということは、そこに大きくて未解決の問題があるということです。これを解決しなければ平行線どころかもっと軋轢が生まれ、幸せを逃すことになる。

抵抗感があるのは今の自分を守りたいから
 そしてこの黒い部分を、最初は見ないように見ないようにすると思う。それは長年かけて築き上げた自分像が壊れるのではないかという危機感が出てくるので、自分にとって怖いことで、恥を感じるから。何より見ないほうが楽だし、気分が落ち込まなくて済む。自分の不都合や失敗を認めなければ、体裁のいい自分や正常な自分、普通の自分の体でいられるから、自尊心が傷つかないで済むので。これが心理セラピーでいう利得だ。

 しかし、完璧な人などいないし、できやしない。できないことをやると無理が生じるので、確実に心身に支障が出る。その上、その場の体裁(エゴやメンツとも言うが)ばかり気にいていると、自己防衛ばかりになるので対人トラブルが増え、周りが愛想を尽かして離れていく。それが今の状態なのだ。

不完全でも悪くはないと思うこと
 そのため必要になるのが、本来の自分を認めることだ。それが不完全であってもいいのだ。それは皆も不完全だから。不完全なのは自分だけではないので、おかしなことではないし、恥じることでもなく、極々普通のことだ。

 そして、自分のことを自分が一番否定していたことに気付く。「世の中で一番の大失敗をしてるのは自分じゃないか」「人のこと言えた立場ではないじゃないか」ということが見えてくる。

羞恥心が出てくる
 これがわかってくると、急に羞恥心が襲ってくると思う。「自分はあの人になんて失礼なことをしてしまったんだろう」とか、「あの時なんでもっと冷静になれなかったんだろう」とか、「あの人は自分のことを思って言ってくれてたのに、なんで素直になれなかったんだろう」とか。

 でもこれに気付けたら、切っ掛けを掴んでいる証拠だ。自分に向き合っているということだし、失敗を認めているし、問題点が見えているので、一つ一つ改善すればいいのだ。

立場の違う人へも慮ることができるように
 そうすると、今まで自分のこと、自分の立場でしか見えていなかったものが、他の立場でも見えてくるようになりる。そうなると、一概に自分の考えが正しいわけではないことがわかってくる。

 それどころかどんなものにも良し悪し両面あることに気付き、どっちかの考えに傾倒するのではなく、バランスが大事だということがわかってくる。すると相手の発言に腹が立たなくなったり、譲歩したりすることができるようになる。しかも譲歩したことでその恩義として見返りを得ることができるようになり、良好な人間関係を築けるようになる。


注意点

 しかし、これは小手先のテクニックとしてやっただけでは、上手くいかない。これだと結果や見返りを自ら求めてしまい、欲求を見透かされるので、人から嫌われる。なので、自分を見つめ直すところからやらないと上手くいかないのである。

 それともう一つは、我流でやると失敗しやすい。よく言われることだが、自分のことは自分が一番見えていないからだ。それだけ自分で自分を見るというのは難しい。だから、専門の臨床心理士や精神科医に見てもらうのが一番だ。赤の他人はしがらみや個人的な利害関係がないから、客観的に見てもらえやすい。ただその分だけ忖度が無いので本質を突いてくる可能性はあるが、そこは耐えなければならない。その先に幸せがあるから。

 さあ、あなたはどうする?

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