価値はTPOによって異なる
人間を量る際に価値を基準にしがちだが、TPOによって異なる基準が適用される。実績、資産、経歴、親密さ、血縁、ルール、人柄など、その時々で基準は異なり一様ではない。価値を求めるということはこれらで常に良い評価をもらわなくてはならないという発想だし、そのそれぞれが狭き門である。
このことから多くの人はそれぞれのシチュエーションにおいて、何かしらの無価値・低評価をされることになる。全てのカテゴリーで価値ある人間は存在しないし、そんなことは無理ゲーである。ここに一つ矛盾がある。
生まれたことに意味付けできない
根本的な話として人間も動物の一つに過ぎないから、受精しさえすれば生まれる。どんな親か、どんな環境か、どんな家庭かは関係なく。この受精に関しては、早い者勝ちで卵子にたどり着いた何万という精子の内の一つと結合するわけで、運でしかない。そしてその卵子と精子には親の遺伝子が入っているので、子供の特性は両親の範疇から出ることはない。つまり何か外的要因や神の思し召しなどが働く余地はないし、人間の意図を汲み取って子供を生むことも不可能なので、出生自体に特段の意味は無い。
しかし、こういった自然科学に乗っ取った事実に対して、身も蓋もないと思ったりロマンが無く無機質に感じられたりする人には抵抗感が半端なく、出生に価値や意味付けをしたがる傾向が見られる。ただそういった意味付けは現実とは一切関係なく、全て後付けであり、空想・ファンタジーの中でしか成立しない。
しかし、こういった自然科学に乗っ取った事実に対して、身も蓋もないと思ったりロマンが無く無機質に感じられたりする人には抵抗感が半端なく、出生に価値や意味付けをしたがる傾向が見られる。ただそういった意味付けは現実とは一切関係なく、全て後付けであり、空想・ファンタジーの中でしか成立しない。
それ故現実とのギャップが生まれて失望の原因となるし、永遠に答えが出ないので悩みが終わることが無く、脳疲労が悪化しメンタルに障害をもたらしてしまうので不健康である。なので「生まれたことに価値がある」という意味付けも、健康上得策ではない。
価値の有無を基準にすると、無価値感がある人の否定につながる
もう一つの問題として、価値の有無で人を量ることは、自己否定感を持っている人や無価値感を抱えている人は存在してはいけないことになってしまう側面がある。「どんな人にも価値がある」とか「生まれたことに価値がある」とかのような、よくある慰めや耳触りのいいセリフを言われても自分はそうは思えないし虚しいという人もいるので、そういう人にとっては存在否定になってしまう。
価値で考えること自体が無意味で必要がない
そもそも価値という一つの括りで量っている点で型に囚われているし、視野が狭くなっている。価値などシチュエーションによって高くもなるし、低くもなる。人生は常に一定ではないので、後天的に価値を創造することもできる。このことから一人の中に複数の価値が存在するので、価値のあるなしで考えること自体無理がある。
人間が生まれるというのは生物学的に受精したという以外に事実は存在しないし、その結果生まれただけで生存しうる。それ以上の意味付けは必要がなく、意味や価値が無くてもご飯は食べれるし、仕事もできるし、遊ぶこともできる。だから価値など無くていいし、価値がないと考えたほうが余計なプレッシャーを掛けなくて済むからメンタルには良い。実際そういったことを手放せた人ほど悟りを開いて、人生を好転させている。
人間が生まれるというのは生物学的に受精したという以外に事実は存在しないし、その結果生まれただけで生存しうる。それ以上の意味付けは必要がなく、意味や価値が無くてもご飯は食べれるし、仕事もできるし、遊ぶこともできる。だから価値など無くていいし、価値がないと考えたほうが余計なプレッシャーを掛けなくて済むからメンタルには良い。実際そういったことを手放せた人ほど悟りを開いて、人生を好転させている。
人生で大切なのは害にならないことであって、価値があるかどうかではない。無価値でも構わないというスタンスをベースにして、何か叶えたいことがあった時に自分が成長することで積み上げていけばいいのだ。価値に関係なく、人生は自分で作れるというのをまずは知ろう!
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