大体人間というものは、本音と建前を持っている。公の場では誰しも自分を取り繕うものだから、本音は言わず建前やいい格好しいをしてしまう。だから、そこでの発言は本音ではなく、カムフラージュするための仮面でしかない。だから本当は個性など出したくないし、自分らしさなどよくわからないし、むしろ控えたいとすら感じているだろう。むしろふとした時や負の感情を伴った時に出た「普通になりたい」「普通がいい」が、本音なのだろう。
そもそも障害を持っていること自体普通から逸脱しており、かなり特殊な状態である。彼らにとってはそんな特殊な状況のほうがデフォルトになっているので、特性の強い今のほうが日常過ぎてもううんざりなのかもしれない。そんな人にとって「普通」は、高嶺の花に見えてしまうだろう。
ただ中には薬や心理療法の力で障害を低減させた人が、世間一般の「普通」を体験してあまりのつまらなさとドラマ性の無さに辟易して、障害の有る状態へ戻りたがるケースもあるという。「普通」であるがゆえに没個性的になるのは必然でわかり切っているのだが、どうも障害者はデメリットを考慮できずいいとこしか目に入らないから、「普通」に対するイメージが都合のいい幻想におちいりがちだ。
ただ中には薬や心理療法の力で障害を低減させた人が、世間一般の「普通」を体験してあまりのつまらなさとドラマ性の無さに辟易して、障害の有る状態へ戻りたがるケースもあるという。「普通」であるがゆえに没個性的になるのは必然でわかり切っているのだが、どうも障害者はデメリットを考慮できずいいとこしか目に入らないから、「普通」に対するイメージが都合のいい幻想におちいりがちだ。
その結果、彼らの思う「普通」も世間一般の「普通」とはかけ離れたものになり、ズレた行動として現れ、「普通」になれないジレンマが再燃する。
結局、「普通」を追いかけること自体が無意味で、自分にとって何ももたらさないのだ。それよりも「普通でない」自分をどう扱うかのほうが重要だ。「普通でない」自分の取説を作り、それを愚直にこなすほうが生産的である。なぜなら、「普通」には実体がないのだから。
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