2025年9月26日金曜日

普段から自分が上下で人をジャッジしているから、無関係なことまで差別に見える

 ここ近年、左翼を中心にして言いがかりでしかない差別非難が過熱している。それも尋常ではないくらいヒステリックに、自分の感情をコントロールできなくなるくらい猛り狂ったような非難だ。その様子を見て、あまりの狂気ぶりに一般の人がドン引きするどころか、同じカテゴリーの人ですら同類と思われたくないと毛嫌いしている程だ。

 そんなことをすれば増々自ら敵を作って孤立無援になるのは明らかなのに、彼らは盲目になっているのでそれでも止めようとはしない。むしろ、お仲間だけで固まって変に結束力を強め、より閉鎖的になろうとしている。その行為は、傍から見てあまりに奇異で、正気の沙汰ではない。

 そこでここでは、彼らの深層にあるものを探っていく。


 人は興味のないものには目くじらを立てない


 人間、興味のないことには無反応になるものだ。関心のないことにはどうでもよいと思うので、どっちの結果になっても構わないからだ。だから、興味のないことにはわざわざ目くじらを立てない。


 どんなものも差別に見えるということは、いつも上下で考えているということ


 反対に目くじらを立てているということは、差別に興味関心があるということになる。そして、自分も普段から上下で人をジャッジするのが習慣になっており、その前提に立っているということだ。

 つまりどれも差別に見えるということは、どんなものにも上下が存在すると思っているわけで、その人は普段から人間関係を上下で判断していることがわかる。このことから、本人に差別意識があると言える。


 差別なんぞ人間ごときが簡単に判断していいものではない


 そもそもの話、ことあるごとに差別だと言って他人を攻撃するのも、自分個人の解釈で勝手にジャッジし、相手の人格を否定しているので無礼である。そんな無礼なことをするという点においても、言っている本人のほうが差別意識を持っていることの何よりの証だ。

 大体人間は神様ではないので人間関係の見極めなんぞ簡単にはできないし、裁判官ですら迷うものだ。それに司法にしか判断する権限が無いので、一個人に差別か否か判定する権限はないので越権行為でこれは法にも反する。それだけやってはならないことを侵している以上、差別を叫ぶ側のほうが差別をしているのだ。

 よって、差別を連呼する人間ほど差別をしている大罪人であることを自覚せねばならない。




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