しかしこの才能という言葉、ナルシストでない限り成功者自身が言うことはまずない。成功者が言うと自惚れになってしまい、謙虚さがないと取られ、自信の立場を危うくするからだ。そうこの才能という言葉は、敗者しか言わないのだ。ではなぜ敗者ほど才能と言いたがるのか?この謎を解いていく。
才能と言うことにメリットがある
当たり前のことだが、何らかのメリットがないと人間は言葉を発しようとはしない。物事を説明したり、意思を伝えたりする時なんかは良い例だろう。漫才でボケるのだって一見意味ないようではあるが、その後のツッコミを期待して笑いを誘おうとしているわけで、これも意図があってしている。
そして敗者が才能という時も、やはり意図が見える。一つはトップリーグで活躍するトップのスポーツ選手を見た時に発する、格の違いを表現するための「才能」だ。メジャーリーグで首位打者を取るとか、ワールドカップで得点王になるとかした際に、思わず発してしまうことは誰にもあるだろう。こういう時の才能という発言は特に問題とはならない。
だが、問題となるのはもう一つの事例だ。それは、
「自分を守る」
時に発する「才能」だ。一介の庶民やどこにでも居そうな凡人が何かを成し遂げた時に、「アイツは才能があったから」と言って、自分を納得させるための「才能」は要注意である。
本当はやれば誰でもできることであっても、やらずにいて負の結果を招いているのを「才能」のせいにしているのは自己正当化に他ならない。それは上手くいかなかった時に恥をかいたり、後悔するのが怖かったりするのでやりたくはないが、かといって意気地なしなのを認めるのも格好悪いので、自分のせいではないことにするべく外部に理由付けしてるからだ。
才能と言っているうちは何も良くならない
ただ、これをやっているうちは何も始まらないので、いつまでたっても自分に良いことは何も起きない。それどころかできることもできなくさせてしまうので、どんどん自分を退化させてしまう。そうなると、没落の一途をたどり、人生が立ち行かなくなってしまう。
なので、一刻も早く「才能」というワードを使うのを止めなくてはならない。反対に、あの人でもできるんだったら、もしかして自分もできるかもしれないと可能性を持つことが大事だ。
なので、一刻も早く「才能」というワードを使うのを止めなくてはならない。反対に、あの人でもできるんだったら、もしかして自分もできるかもしれないと可能性を持つことが大事だ。
この世の中には特別な才能などなくても実績を残している人はごまんといる。方法論が確立されていて、再現性のあるものもたくさん存在する。そういうものであれば失敗のリスクは少ないから、本来やれる人は少なくない。「才能」のせいにするのを止めた時が、明るい未来へのスタートとなる。
0 件のコメント:
コメントを投稿