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2026年7月24日金曜日

学校教育批判は大抵的外れ <気休めを信じ込む愚かな民衆>






 日本ではよく学校教育批判が起こる。その際の言説はみなそろいもそろって同じである。画一的、社畜化、個性の否定、保守的などの批判は、よく見聞きすることだろう。これらの文言を言う時に「政府が~」とか「文科省が~」とか「指導要領が~」とかも言われるが、閣僚や役人が実際に言っているのを聞いたことある人はいないだろうし、指導要領を読んだことある人もいないだろう。

 ましてや現場を担う教員の大半が、批判にあったような指導をしているところなど、まず誰も見たことがないだろう。そう、誰かが言ったデマや陰謀論を鵜呑みにしている人がそれほど多いということだ。


 子供の夢を応援してくれる教師ばかりなのに


 実際に「夢を見ていないで、会社員を目指しなさい」なんて言ってくる教員を見聞きしたことないし、むしろ「夢が叶うといいね」言ってくれる教員ばかりではないだろうか?部活動に入っていれば応援してくれるし、少しでも希望の進学先へ入れるようにアドバイスもしてくれる。これのどこが画一的、社畜化、個性の否定なのだろうか?

 もし本当に学校が
画一的、社畜化、個性の否定をしているなら、むしろ生徒に選択権はないし、夢を否定するし、教員が何でも決定していなければおかしい。しかし、実際にはそんなことはなく、進路、部活、委員会、教科によっては授業まで生徒に選択権があり、画一とは真逆になっている。


 教員の主な支持政党からしても


 昭和の時代、教員の支持政党といえば社会党だった。片山均政権、村山富市政権の時期はあるものの、ほとんど期間で野党第一党であった政党だ。教員が自民支持であったなら政権や官僚の意向に沿うだろうが、野党第一党支持、それも社会党支持であったため素直に政権に従うとは考えられない。

 そして社会党が消えた現在、かつてほど政党による政治的拘束力がなくなり、教員は自由に野へ放たれた。そうなるとますます教員が生徒を縛る意義がなくなっている。むしろ社会党支持であったことからして、社会主義のイデオロギーこそが画一的なのでそれが教育へ反映されていたと考えてもおかしくない。


 どの層が批判しているのかも重要


 この学校教育に対する批判が多い層にも注目する必要がある。どんな層にも一定の批判者はいるが、特にこの手の批判が多いのは底辺と言われる層ではないだろうか?反対に富裕層やインテリ層なんかは今のシステムにおける勝組といわれるので、あまり批判する必要もないというのがあると思う。

 もし底辺層の言う通り学校教育が画一的、社畜化、個性の否定、保守的だというなら、それに従って今の地位と名誉を勝ち取った結果として富裕層やインテリ層がいることになるので、むしろその方針は正しいことになる。だから、皆で画一的、社畜化、個性の否定、保守的になったほうが総じて豊かになれるということになるし、貧しいということは自由奔放で個人主義だからということになる。この点において底辺層の言うことに矛盾がある。

 しかし、実際には選択が生徒自身に委ねられている以上、画一的、社畜化、個性の否定、保守的になんぞなっていない。そんな教員に支えられ、自由奔放に過ごしてきた富裕層やインテリ層はしっかりとした地位を築いている。そう、画一的、社畜化、個性の否定、保守的なのは、底辺層自身なのだ。

 選択権が与えられているにもかかわらず、成功するほうを選ばなかったばかりに失敗してしまい、しかも保守的であるがゆえに方針を変えることをせず、いつまでも画一的に現状維持を続けた結果として底辺に落ちたわけだ。その自分のミスから目を背けるために、学校教育のせいにしている。あまりに愚かで情けないことだ。


 何事も疎かにした者が落ちぶれている


 結局のところ、人生の選択にしても学校教育にしても、蔑ろにした者が落ちていっている。その責任を学校教育になすりつけるのは責任転嫁に他ならず、反って自分の人生の軌道修正を先延ばしにしてしまう。他責にするのは一時の恥から逃れることができるから楽な選択ではあるが、根本解決にならないので事態の悪化は避けられない。

 人生の傷口を今以上に広げないためには、いかに早く自分の失敗や選択ミスを認めるかが重要である。学校教育批判は現実逃避でしかないのでサッサと止めて、打開策を模索するほうへ意識を向けたほうが賢明だ。




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