2025年4月29日火曜日

すねかじり根性の国民

 ここのところ、よく年金が少ないから金をくれ、高額医療を受けたいから金をくれ、障害者だから金をくれ、仕事できないから金をくれ、資産運用やる気がないから金をくれ、年寄でデジタル化に消極的だから金をかけろなど、実にたくさんの理由で多くの人が公金を欲しがる姿を見る。

 私からしたら、「他人のお金なのに、よくもまあこんなにたかるもんだ」「こんなに多くの人がたかったら、限りあるお金が尽きるのがわからないのだろうか?」と思うのだが、これらの人はそんなのお構いなしだ。

 実は所得に関係なく、年老いて死ぬまでの生活資金を自分で工面するのは経済的にそんなに難しいことではない。それどころか方法論も確立していて、その通りにやればまず失敗も避けることができる。

 にもかかわらず、多くの国民がそこには目もくれず、公金のみを当てにし浪費している。その姿はまるで芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のようだ。

 ではなぜこの人達のように、人間はこういった情けない行為をしてしまうのだろうか?その謎について紐解いていく。

細かい無駄使いが多く無計画

 前提としてお金に余裕があれば、他人にたかる必要はない。逆にお金をくれということは、貯蓄がないというのを自分で暴露しているわけだ。

 で、お金が貯まらない理由でありがちなのが、単価の安い無駄使いが多いというもの。タバコ、お酒、ギャンブルはあるあるで、菓子、自販機の飲料、服、おもちゃ、外食、ビニール傘、買い食い、グッズ代もあるし、最近だとネトゲの課金、スパチャ、投げ銭のようなネット系の出費もある。これが一つだけならまだしも、気付かぬうちに複数やっていることがしばしばなため、お金が貯まらない。

 そしてなぜこういった出費に気付かないかというと、お金の使い方に計画性が無く、衝動的に物を買ったり、課金したりしているからだ。つまり、お金の使い方に制限やルールを決めていないのです。そうなると出費に対してルーズになり、細かい無駄使いほど気付かなくなってしまうのだ。

依存的なマインド

 この手の人達は、自分の面倒は行政が見るべきと考えている。子供の頃は親が面倒を見てくれていたが、そこから親離れし自立して自分で生活基盤を整えるのではなく、親から行政へ依存相手を変えることで子供時代のマインドを引きずってしまう。

 漠然と誰かが何とかしてくれるだろうというバイアスにはまっていて、将来について具体的かつ真剣に考えておらず、漫然としているからどうしても財布の紐もゆるくなりがちで、先述の無駄な出費も増えてしまう。

ネガティブなものから目を逸らす

 それどころか将来のことを考えてネガティブになるのを嫌がって、見ないようにすらする。そしてそこから逃げるべく行政に泣きつくのだが、さすがに行政だって全員は救えない。行政へ救いを求めるのは泥船である。

 もちろんネガティブなことを考えるのはストレスを感じるし、億劫ではある。しかしこれは自分の将来にとって大事なことで、やらなくていいことではない。そこに目を向けた人はきちんと整えてられているので、できないことではない。ネガティブなことから目を逸らすのは、将来の生活の放棄である。

自分本位で、全体を見ていない

 基本、この手の人は全体を俯瞰してみることがない。自分以外に同じように行政を当てにしている人はいるのか、それが人口のほとんどだったらどうなのか、それを合計したらいくらになるのか、自分の考えは本当に成り立つのか、という視点がまずない。自分にお金がない→行政が建て替えろ、という自分都合の枠内だけで考えてしまっている。

 行政だって金のなる木ではないし、無限にお金を持っているわけではない。さらに言うと、振り分けねばならない先は多岐にわたり、教育、育児、医療介護、インフラ、産業育成、科学学術、技術開発、外交、防災、国防、通信、公安など、例を挙げればキリがない。なので国民の生活費まで面倒を見るなど、普通に考えてあまりに経費が膨大になりすぎて不可能である。このことがわからないというのが実におかしい。

要は甘く見るな、自立しろということ

 結論、安定した生活を送るのはそんなに簡単ではないということだ。人生は常にサバイバルで甘い考えに囚われると、途端に立ち行かなくかる。そのためにも用心と事前準備が必要だし、それは一日二日でできるものではないから、計画的に少しずつコツコツ貯えるしかない。

 他人は自分の思い通りにはならないので、本当に頼れるのは自分しかいない。よって甘さを捨て、自立するのが一番確実で、安全策である。そのために、いかに目先の誘惑に惑わされないよう対策を練るか、自分でできることを増やすか、自分の取り分ではなく皆のことも考えられるか、自分改革が今求められている。

2025年4月22日火曜日

失敗する人=耳の痛い話や不都合な真実を受けつけない人

 世の中には失敗を繰り返す人がいる。転職を繰り返したり、精神疾患の再発を繰り返したり、友達関係が長続きしなかったり、ギャンブル・お酒・たばこ・薬物・ODを止められなかったりなどなど・・・。酷い人だと、夜逃げを繰り返したり、浪費を繰り返して貧困におちいったり、素行が悪くて人々から見放されたりして、自ら身を落として荒んだ人生になってしまう人も少なくない。

逃げ癖のある人が失敗を繰り返す

 こういった人の傾向や共通点はいくつかあるが、その一つに耳の痛い話や不都合な真実など自分にとってネガティブなことを、嫌だという感情だけで拒否してしまうという点が挙げられる。具体的には、本人には必要な厳しいアドバイスや忠告であったり、変えようのない科学的エビデンスのある事実であったり、自分が犯した罪や責任であったり。

 人間、堕落せず、日陰者にならず、自立した大人になる上で欠かせないハードルが必ずいくつか現れ、そのハードルは苦しかったり恥ずかしかったり面倒だったりと楽ではなく厳しいのもだが、失敗を繰り返してしまう人は自分にかかる労力や恥や厳しさから逃避することを選んでしまう

 その癖欲求は人一倍あるので、楽だが確率がほぼ0%の手段or手っ取り早いが悪どい手段or計計画性のない刹那的な浪費に手を染めてしまう。

逃げた分に応じて不幸が待っている

 それで実際に得をしているかというと、そうはなっていない。その場の恐怖やストレス、プレッシャーからは逃れられはしたが、その代償を大きく受けている。貯えが無くて生活苦におちいり食事すらままならなくなっていたり、信用を失い誰からも見放されて孤独死していたり、警察のお世話になり精神科へ措置入院させられ出られなくなったりする人までいる。

「良薬は口に苦し」と「上手い話には裏がある」

 結局、社会へ出て無事に生活しようと思ったら、耳の痛い話は聞けるようにならないといけないのだ。いつまでもイヤイヤ期の幼児と同じ状態をいい大人が続けるのは見ていて痛いし、周囲から呆れられて距離を置かれるだけだ。

 昔の人は良くいったもので、「良薬は口に苦し」の通り自分のためになることというのは、苦痛を伴うものである。だがその苦痛は乗り越えれば消える一時的なもので、避ければ避けるほど永続的に苦痛が大きくなる。反対に上手い話や都合のいい話など存在せず、その代償は一生ものになることが多い。

 だからこそ素直に人のアドバイスや忠告を聞く器の大きさを持たなければならないし、不都合な真実をもみ消すようなことはしてはならない。むしろそこから自己改善のヒントを得て、人として成長するのがあるべき姿だ。

2025年4月19日土曜日

無力感の強い人の要望を聞いてはいけない

 世の中には他人への要求が多い人がいる。しかも一回言うことを聞いてあげると恩義や遠慮というものを知らないから、尚のこと要求がエスカレートして他人がキャパオーバーになるほど迷惑をかける。

 それでいてそういう人に限ってこちらの要求は一切拒絶する。それどころか簡単に人を裏切り、白を切って人を捨て去り、自分の欲求を満たすためなら恩を仇で返すことをいとわない。こういう厚顔無恥な人は何を考えているのだろうか?

要求が増えるのは、相手が従順だと思っているから

 まずは表面的な部分の話をしよう。この手のタイプの人は、何でも他人にやってもらうことを前提で考えている。そう、非常に依存的なのだ。だから、相手が自分の要求を飲むタイプなのかどうか、従順になるのかどうかを判断基準としている。そうやって常に値踏みしているので、いざ相手が要求を飲むとこの人ならばとあれもこれもと要求する。

 その際、相手のキャパシティーやスケジュールなど考えておらず、以前要求が通ったことを踏み台にして強硬に押し通そうとするだけだ。あまりに自己中心的でわがままであるばかりか、相手を奴隷か使用人のようにしか扱っていないので、倫理から逸脱している。

根底にあるのは無力感

 ではなぜ次から次へと要求をエスカレートさせるほど、他人へ依存するのだろうか?それは本人の根底に無力感があるからだ。自分は何もできない、自分には能力がない、自分に才能がない、自分には体力がないなどと言って、自分は無能であると信じ込んでいる。

 しかもこういった人は固定マインドも持っているから、自分は変わらない、運命は変えられない、能力は先天的なもので伸びない、体力は身につかないと決めつけている。実際は多くの物事が自分の選択次第でいかようにも変わるのだが。

 だから他人を当てにせざるを得ず、その一方で相手の要求には自信がないから応えられず、自分ばかり要求する不公平な関係になってしまう。これでは当然周囲は不満を募らせ、怒るに決まっている。

人や環境のせいにするとチャンスを逃す

 さらにこの手の人は固定マインドから責任が自分にはないということにしたがり、相手、環境、親、社会に責任を負わせようとする。それ故に成長やスキルアップ、就職、自活のチャンスを自ら手放してしまう。

 どんな親の元に生まれようが、どんな環境で育とうが、何のチャンスもない人間などいないし(科学的なもの以外、
この世に確率0%ということはありえないから)、大人であれば選択権は本人にあるのでチャンスを逃したのは紛れもなく本人の選択ミスであり、本人の責任である。

無価値感の強い人の要望に限度がない

 以上のことからこういった人の要望を聞くことは、かなりのリスクである。特に人口減少・少子高齢化している以上、金銭と人手の両方が減少をしていっているし、個人レベルで考えても割けるリソースに限りがあるので、全てを聞いてあげるのは無理でいつかは破綻する。

 なので早い段階で相手の要求を断ることが大事で、「仏の顔も三度まで」というのを経験させ、依存関係をこちらから断ち切ることが重要である。

2025年4月18日金曜日

価値がないといけないと思うから苦しい

 よく精神、発達、知的の障害者や生活困窮者が、自分に存在価値がないとか社会貢献できてなくて価値がないと言う。ここで見えるのは、「価値」というものに物凄くこだわりを持っていること。この価値に囚われ過ぎて、より自分のメンタルを悪化させている人すらいる。価値を求めることは、本当は良いことではないのではないか?

価値はTPOによって異なる

 人間を量る際に価値を基準にしがちだが、TPOによって異なる基準が適用される。実績、資産、経歴、親密さ、血縁、ルール、人柄など、その時々で基準は異なり一様ではない。価値を求めるということはこれらで常に良い評価をもらわなくてはならないという発想だし、そのそれぞれが狭き門である。

 このことから多くの人はそれぞれのシチュエーションにおいて、何かしらの無価値・低評価をされることになる。全てのカテゴリーで価値ある人間は存在しないし、そんなことは無理ゲーである。ここに一つ矛盾がある。

生まれたことに意味付けできない

 根本的な話として人間も動物の一つに過ぎないから、受精しさえすれば生まれる。どんな親か、どんな環境か、どんな家庭かは関係なく。この受精に関しては、早い者勝ちで卵子にたどり着いた何万という精子の内の一つと結合するわけで、運でしかない。そしてその卵子と精子には親の遺伝子が入っているので、子供の特性は両親の範疇から出ることはない。つまり何か外的要因や神の思し召しなどが働く余地はないし、人間の意図を汲み取って子供を生むことも不可能なので、出生自体に特段の意味は無い。

 しかし、こういった自然科学に乗っ取った事実に対して、身も蓋もないと思ったりロマンが無く無機質に感じられたりする人には抵抗感が半端なく、出生に価値や意味付けをしたがる傾向が見られる。ただそういった意味付けは現実とは一切関係なく、全て後付けであり、空想・ファンタジーの中でしか成立しない。

 それ故現実とのギャップが生まれて失望の原因となるし、永遠に答えが出ないので悩みが終わることが無く、脳疲労が悪化しメンタルに障害をもたらしてしまうので不健康である。なので「生まれたことに価値がある」という意味付けも、健康上得策ではない。

価値の有無を基準にすると、無価値感がある人の否定につながる

 もう一つの問題として、価値の有無で人を量ることは、自己否定感を持っている人や無価値感を抱えている人は存在してはいけないことになってしまう側面がある。「どんな人にも価値がある」とか「生まれたことに価値がある」とかのような、よくある慰めや耳触りのいいセリフを言われても自分はそうは思えないし虚しいという人もいるので、そういう人にとっては存在否定になってしまう。

価値で考えること自体が無意味で必要がない

 そもそも価値という一つの括りで量っている点で型に囚われているし、視野が狭くなっている。価値などシチュエーションによって高くもなるし、低くもなる。人生は常に一定ではないので、後天的に価値を創造することもできる。このことから一人の中に複数の価値が存在するので、価値のあるなしで考えること自体無理がある。

 人間が生まれるというのは生物学的に受精したという以外に事実は存在しないし、その結果生まれただけで生存しうる。それ以上の意味付けは必要がなく、意味や価値が無くてもご飯は食べれるし、仕事もできるし、遊ぶこともできる。だから価値など無くていいし、価値がないと考えたほうが余計なプレッシャーを掛けなくて済むからメンタルには良い。実際そういったことを手放せた人ほど悟りを開いて、人生を好転させている。

 人生で大切なのは害にならないことであって、価値があるかどうかではない。無価値でも構わないというスタンスをベースにして、何か叶えたいことがあった時に自分が成長することで積み上げていけばいいのだ。価値に関係なく、人生は自分で作れるというのをまずは知ろう!

2025年4月15日火曜日

確認、賛同を「共感」と勘違いする人が多い件

 最近、精神科医療にしても社会福祉にしても「共感」という単語が多用されている。しかし文脈を考えると、明らかに共感とは違うものを指していると気付くケースがよく見られる。つまり共感という単語の意味をよくわかっておらず、取り違えているのだ。これではコミュニケーションの齟齬が生まれてしまい、新たなトラブルの火種となりかねない。そこで今回はこの共感という単語における勘違いについて解説する。

「共感」とは

 まずは共感の本当の意味を知らないと話にならないので記しておくと、「他人の考えや感情に対して、立場や生き方の違う人が同じように感じること。同感。」(旺文社国語辞典)ということである。

「共感」の問題点

 ここで問題となるのは、「同じように感じる」の部分。ここが非常に曲者で、ここの解釈が全ての問題の発火点になっている。さらにこの問題は三種類存在することも、意味を取り違える切っ掛けとなっている。

①単語の意味を何となくでしか知らないケース

 そもそも多くの人は、単語の意味を正確に把握することなく何となくで覚えて、使っていることが多い。単語を覚えるのにいちいち辞書を引くのは面倒なので、日常会話の中で使われた際に推測し、こんなもんだろうとしていることが大半だ。

 なので、推測がズレていれば当然間違って使うことになるし、何なら周囲の人が間違って使っていたら自分も間違って覚えることになる。

②今現在同じように感じようとしているか問題

 意識の部分においても問題点は潜んでいる。お世辞、口裏合わせ、建前、その場しのぎのケースだ。このケースでは口では共感してることを装っているが、内心は全く別のことを思っているわけで、明らかに同じようには感じていない。

 だがこのケースであっても共感という単語を用いている人が散見される。何なら医療福祉の現場ほど見られるかもしれない。患者や障害者が激高して癇癪を起したり、反対に消沈して無気力になることを防いだりする際の一時しのぎとして発生しやすい。

③そもそも人間の能力的に同じ感覚を得るのは可能なのか問題

 全ての人間は他人と同じ人生を歩むことはできないし、双子であっても寸分違いなく同じ経験をすることはできないので、同じ話を聞いても解釈や想像するものに必ず差異が生じてしまう。このベースがある以上、同じように感じるのは不可能であるにもかかわらず、共感と言われても誰もできやしない。仮にできたとしても、他人の頭の中を覗くことはできないから、合っているかどうか確認ができない。

実際に勘違いしているケース

 では実際にどのような状況でこの共感の誤用が見られるのか見ていく。

①医療福祉の場で言う「君はそう思ったんだね」の返答

 これを共感という医師や福祉支援者が多いが、間違いなく誤用である。その証拠にこの後に続く内容が、「でも、それでは上手くいかないよ」「それはわかるけど、相手には相手の思うところがあるからね」というように同意をしていないし、反論が待っているからである。つまり、腹の中では「そうじゃないんだけどな・・・」という思いがあるので、同じようには感じていないことになる。

 ただし、「君はそう思った」という事実は受け止めているので、この場合は事実「確認」をしているというのが正しい。

②SNSや友人からの「いいね」

 この「いいね」も共感と勘違いしやすいケースだ。というのも、相手が自分のことをどれだけ把握しているかわからないし、何より相手は相手の尺度で判断してるからだ。それは自分の尺度とは異なるので、見ているもの想像しているものも異なっており、同じ感覚とはとても言えない。

 このケースの場合は話の趣旨に「賛同」しているのであって、同じ感覚を得ているわけではないから共感と言うのは誤用である。

言葉を間違って使うと、存在しないものに期待が生じ人生が詰む

 大体ここ近年、共感と言う単語を乱用し過ぎていて、相対的に価値が下がっている。しかも単純思考の人間は単語の本来の意味を考えずただ流行に乗ろうとするので、誤用に気付かずに鵜呑みにしてしまう。結果現実的には矛盾を含んでいて存在しないものに期待してしまい、ダブルバインドにおちいって身動きが取れなくなるか、永遠に無い物探しをしてしまいざま様なものを棒に振る。

 それは青い鳥症候群の始まりであり、これで人間関係や仕事でトラブルを生じさせたり、精神疾患におちいったりする人が如何に多いことか。多くの人が「共感」という言葉の本質を理解しておらず、存在しないことに気付いていない。そこには他人への幻想と依存も含まれていて危険な要素が満載だ。それを望み続ける限り、人生が詰んでしまうのは避けられない。人生を好転させたいなら、共感を手放し自分で自分を満足させる方法を見出さなければならない。

2025年4月4日金曜日

恐れ守りに入ると行き詰まる

 ここのところ現状に不満があり社会に対して文句を言いながらも、自分に対しては何もしない人々が多いと感じる。例えば年金なんかは支給額が少なく、それだけでは生活費が足りないのが何十年も前からわかっているのに、何もしていない人がどれだけ多いことか。それを政府のせいだとか政治家のせいだといったところでお金が増えるわけではないので、ただの負け犬の遠吠えにしかならないし、だったらその足りない分をどうやって穴埋めしようか手を打てばいいのにそれはしない。数多くの人が同様の失敗を無数にしているのに、なぜそれを反面教師として行動しないのか。

遠くの損益を過小評価する性質

 年金を納め始めるのが20歳前後で通常65歳で受給し始めるので、その間が約40年ある。40年もあると、人間はかなり先の話だと考えやすい。それどころか10年でも先の話と考える人も少なくないだろう。この先の話という感覚は人間の危機感を鈍らせ、先延ばしを誘発させやすい。そのためまだ大丈夫、どうにかなるだろうと現状維持へ流れてしまう。これは遠くの損益はイメージしにくいために過小評価してしまう人間の性質から来ている。

 この性質に流されると直近になるまで危機に鈍感で、気づい時にはタイムオーバーで手遅れになってしまう。これが今の多くのお年寄りや労働者に起こっていることなのだが、時すでに遅しな上、そんな前の選択が今の状況を作ったと思っていない、もしくは思いたくないから政府や政治家のせいにしているのが本質だろう。

お年寄りがやらずに後悔していること

 お年寄りが若い内にやらずに後悔していることを色々なアンケートで目にするが、その中で必ず見かけるのが「もっと挑戦すればよかった」というものだ。勉強すればよかった、投資をすればよかった、独立開業すればよかったなどなど・・・。私からすればやればいいじゃんと思うだけなのだが、日本人の口からよく聞かれるのが「そういう時代じゃなかった」「親の権限が強かった」「みんながそうしてたから」という台詞だ。従わずに挑戦すればいいんでないの?自分の人生は自分にしか決定権はないので他人がどう言おうが関係ないと思うのだけど、口をそろえてこれを持ち出す。さも、私の責任ではないと言いたげに。

 でも実際は本人もわかっていて、だからこそ出たのが「もっと挑戦すればよかった」なのだ。結局失敗への恐れからどうしても人間は守りの姿勢を取りがちで、危険回避のために周りと歩調を合わせてしまう。歩調を合わせた結末は周囲を見ると
イメージしやすく、大外れしてなさそうだからと安心できるので、心理的安全の本能に従って選択してしまうのだ。

 しかし実際はそんなに人生は容易ではなく、予想に反してシビアだった。生活費が足りない、養育費が足りない、医療介護費が足りないなどの事態に見舞われ、挑戦して収入を増やしていればという後悔の念にさいなまれている。

恐れの感情に従うことこそ最大の損失

 正直失敗はリカバリーすることで対処できるので、いくらでも対処挽回できる。しかし恐怖から何もしない、挑戦しないというのはアクションがないので勇気以外に対処しようがないし、何も生まないため100%損失しか出さない。それどころか恐怖心に囚われるのは思考力の低下やそれによる判断力の低下を招くので、衝動的になったり下策な行動をとったりして、対人関係も含めてより悪い結果を招くこともわかっている。こうなっては人生が行き詰まってしまう。

 だったらいっそのこと挑戦したほうがやらぬ恐怖や後悔を感じなくて済むし、失敗させまいとガムシャラになるので自ずと結果もついてきて精神の安定までもが得られる可能がある。恐怖心を抱くのは本能なので仕方がないが、それに従って守りに入るのは選択ミスであり、新たな恐怖の始まりであることを納得しないといけない。恐怖心から抜け出せるのは挑戦だけなのだ。

南米の旺盛な実行力

 あまり知られていないが、実は最も挑戦心が強いのは南米だそうだ。起業する人の割合が非常に高く、スキルアップのための学習意欲も高い傾向にある。その背景にはラテン気質で楽天的なのと、発展途上で経済が盤石ではない上に社会保障も十分ではないため、自分で稼がないとどうにもならない事情もあるだろう。とはいえその実行力は大いに手本にしたいところだ。

 それに引き替え日本は下手に経済基盤と社会保障があるため、挑戦するほうがデメリットに感じられやすく、意義を見出しずらい。しかし物価高と少子高齢化している以上、今までのような生活は維持できない。なので自分で収入源を確保しなければ、生活苦は必至である。そのためにも収入確保するべく、いざ挑戦を!

2025年4月1日火曜日

社会運動・リベラルがいつも失敗する理由

 ここ近年SNSやニュース、評論などを見ていて、DEI、LGBT、WOKE、BLMなど、様々なリベラル派社会運動が後退・縮小・撤廃を余儀なくさせられている。全ての人を受け入れるという大層なお題目に反して、多くの人から反目され、退場させられてしまっている。なぜこのような運動は、ことごとく拒絶されたり頓挫したりして失敗に終わるのだろうか?こうも同様に失敗するということは、何か共通する理由があるのだろう。

リベラル運動の建前

 失敗理由を探る前に、ここ近年のリベラル運動とはどういうものか、概要を説明する。多様性(diversity)、公平性(equity)、包括性(inclusion)の理念の下、性的マイノリティや異人種、異宗教などを一つのコミュニティで共存させるのを理想とする考えで、非常に理想主義的で、「こうでなければならない」とか「こうあるべきだ」というべき思考や完璧主義の性格が強い。

 ただここ最近はこの中の公平性の部分が平等性(equality)に置き換わっていることが多い。特にこれまでは機会の平等に視点を置いていたのが、結果の平等を欲するようになった。これにより、建前と活動実態に乖離が生じていることが否めない。

失敗する理由

 ではここから失敗する理由について挙げていく。ここには彼らならではの失敗理由が多く含まれるので注目だ。

①なんでも「限界」があるということがわかっていない

 その一つがお金と人員の計算ができないことだ。正確には、彼らの願望は採算を一切度外視しているということ。国民だけでなく移民や外国人にも手厚い福祉を望んでいたり、どのようなマイノリティにも懇切丁寧なサポートを要求している。そのためには無限にお金と人員確保が必要となるが、いずれも有限であり遅かれ早かれ尽きてしまう。

 殊、福祉に関しては膨大なお金がかかる。しかも福祉は製造業でもなければ金融業でもなく逆に消費しか生まない分野なので、お金が減る一方で循環しないから経済は縮小して、余計に資金繰りが悪化する。そこに無制限にお金を要求していてはいくらお金があっても足らず、いつかはショートして破綻せざるを得ない。

 特にここ近年の日本は少子高齢化で年々人員確保が困難になるのは必至である。どんなに給与を上げたとしても、求職者自体が減っていくのだから人員は枯渇する。彼らの言う通りのサービスを提供しようものなら職場のブラック化をせざるを得なくなり、退職ドミノが発生して(既に起こっている業種もある)人員面での需要と供給のバランスが崩壊してしまい、むしろ見殺しになる人が増えてしまう。

 つまり彼らの望むことは、無限にお金と人が生まれる非現実的な世界でないと成り立たないので、努力に関係なく最初から実現不可能なのだ。

②多様性によるカオス化とジレンマ

 彼らの重要な主義の一つに多様性があるが、正確には「全て」を内包しようとしている。この「全て」というのが曲者で、人となりを考慮せず無制限に加えているから内実は玉石混交である。その中には決して褒められたものではない人物を含んでおり、評判を落とす原因になっている。

 しかも主義に反するためそれらの人を切り捨てることができず、むしろ重点的に保護すべしとしている。それならそれできっちり処断して監督してくれなければ困るのだが、弱者を盾にされると事なかれ主義に逃げて、腫れ物に触る対応をし、断罪できず野放しにしてしまう。その他大勢からしたら、はなはだ迷惑且つ無責任でしかない。

③主義の押し付け

 本来主義にしてもポリシーにしても、自分個人の問題なので他人には関係なく、自分の中だけに留めておくものなのだが、彼らはこれを他人にも押し付ける。他人も自分とお内容に考えて従ってほしい、そうしてくれないと不安だからと。

 ここに彼らの矛盾があって、主義というのは自分がどうありたいか問うものなので、自分の価値観の問題であって他人は無関係で必要ないのに、勝手に介在させてしまって勝手に不安になっている。さらに危害が及ばない限り他人がどうしようと他人の勝手にもかかわらず、不安解消のためだけに他人の思考や行動をコントロールしようとしていて、他人の自由を奪っている。

 これは相手からしたら束縛でしかなく嫌悪するのは当然だし、リベラルが主張する個人の自由とは真逆の行為だ。内容如何にかかわらず、そのような押し付ける態度や行動をとられたら、人は離れたくなるものだ。

④テイカー気質

 彼らの主張の共通点として、何かの要求に終始しているというのが挙げられる。つまり常に受け身で、もらうことばかり考えていて、お返しがない。ギブアンドテイクが成り立たないテイカー(クレクレ星人とも言うが)であるということだ。しかしそんな関係は平等・公平を欠くので、いつか相手から断たれる。当然あげてばかりの人からしたら損でしかないので、自分を守るために手を切らざるを得ないからだ。

⑤耳の痛い話から逃げる

 中にはそんな彼らに対して忠告する人もいるだろうが、まず耳を貸さない。彼らにとって耳の痛い話だからだ。そこに耳を傾けることは自分の過ちを認めたり、嫌いな自分像を見たりする必要があるので未熟な彼らにとって恐怖でしかなく、受け入れがたいからだ。

 すると周囲の人は彼らの不誠実な態度に幻滅するから、善意ある人まで呆れさせて離れていってしまう。

失敗の否認→責任転嫁→嫌われる

 その結果社会的孤立がどんどん加速し、望んだ方向とは真逆に進んでしまい、ついには
失敗する。しかし前述の耳の痛い話から背ける気質があるので、それも認めようとしない。なので彼らはどこにやり場を求めるかと言ったら、またしても他人や社会や政治なのだ。つまり責任転嫁を永遠に繰り返すのだ。

 多くの人はそうだろうが、責任転嫁されたら腹が立つ。当然彼らのファンになるどころか敵とみなすだろう。こうやって彼らはまた今日も懲りずに失敗から逃げ、嫌う人を順調に自分の手で増やしていくのだ。