2025年6月28日土曜日

レベルを合わせるなら高いほうか?低いほうか?

 しばらく前に活動家や福祉系のチャンネルで、レベルを合わせるなら低いほうにという主張を聞いた。能力の低い人はどんなに頑張っても高いほうに合わせられないから、高い人が低い人へ合わせるべきだという理屈だった。この話がちょっと面白そうなので、今回は双方のメリット/デメリットについて挙げていき、どちらの方が社会全体として将来性があるのか考える。


能力の低い人へ合わせた場合


 まずはお題にある能力の低い人へ合わせた場合を考える。

メリットデメリット社会全体への
影響
勉強落ちこぼれない高等教育の機会損失×
能力・学力均一化全体として下がる×
会話・説明低層の理解がやや増す説明に余計な時間を消費×
語彙メリット無し語彙が減り理解度が低下×
人材代わりがきく人は増有能な人は減×
スキル学習時間減・省労力スキル低下を招く×
イノベーションメリット無し起こせなくなる×
仕事の高度化楽できる落ちこぼれる×
市場競争避けられる勝てない・業績低下×
技術開発メリット無し低迷する×
経済力均一化全体的に下がる×
収入横並びみんな貧しくなる×
転職メリット無し難しくなる×
税収均等な税率税収総額減×

 このようにメリットに関しては能力の低い人への個人的なものやメンツに終始しているのに対して、デメリットは社会全体や将来性に対して影響が出ることがわかる。

 そもそも社会全体がレベルアップをするのは能力の高い人がリードして活躍するおかげなので、低い人に合わせてしまうとそこに時間と手間を取られ足を引っ張られてしまい、誰もリードできなくなってしまう。そこへのダメージは社会全体に及ぶので、その損失は能力の低い人の比ではない。

 つまり低い人に合わせるべきというのは、低い人の能力のみしかスポットを当てておらず、社会全体へのデメリットを無視した主張であることがわかる。


能力の高い人を活躍させるために、負担を減らすことで利益を最大化


 いつの時代も社会全体を活性化させるのも、それを引っ張るのも、能力の高い人である。この人達の社会への影響力が大きいだけに、活躍する機会や時間を奪うのは社会全体の損失になりかねない。そのために彼らには持てる時間と労力を最大限に使ってもらわなくてはならないので、低層ほど負担を強いらないよう配慮する必要がある。

 それどころか高いほうへ合わせるのは全体のレベルの底上げにつながるので、誰に対してもメリットはある。

 低いほうこそ高いほうへ合わせないと、将来はないのだ!



2025年6月27日金曜日

複数の選択肢から自分でわざわざ選んだ以上、責任は自分にある

 人生というのは無限の選択の連続である。その選択は大きいものだけとは限らず、自分では気づかないが日々の小さいものも無数にある。小さいからこれくら大丈夫だろうとか、その後には影響しないだろうとか考えがちだが、人生の良し悪しを左右するのはそんな小さな選択が決め手となることが多々ある。

 そしてそれが些細なことであったり、習慣化していたりすると、紛れもなく自分で選択していても気づかないことが多い。それどころか習慣化してしまっている上に、他責思考を持っていると環境要因にしてしまって人生の選択を誤っていると認識されず、転落の人生を歩む人も少なくない。中には家庭環境が悪かったから、障害があるから、社会が悪いから、政治が悪いから、こういう運命だから仕方なかったんだという人もいるだろう。

 だが実際には自分の選択次第で変えられるものは無限にあるし、自分でできるものもまた無限にある。もっと言えば、今までの人生一切選んだことがないという人は絶対にいない。何を飲むのか、何にお金を使うのか、誰と付き合うのか、勉強するのか、どんな仕事をするのかというのは誰しも経験しているし、普段から選択しているものである。そしてその選択は自分自身が行っている。このことから、自分で運命を変える機会はいくらでもあるし、その多くは小さなもので、自分でもできたものばかりだ。

 ゆえに自分でした選択は、自分の責任に他ならない。である以上、他人のせいにできないし、自分の責任を全うしなくてはならない。そしてこれが自分の人生を自分に取り返すということであり、自分軸で生きるということである。

 他人や環境のせいにするのは他人へ依存しているので、自分の人生に他人を介入させており、他人に翻弄されることになる。加えて他人の責任を押し付けられるのは誰しも嫌なことなので、他人はあなたの責任を決して取ってはくれず、自分の思い通りにはならない。なので自由が利くのは自分自身だけである。もし自由になりたい、少しでも増しな人生にしたいというなら、自分の選択にキチンと自分で責任を取らないと始まらない。




2025年6月25日水曜日

自分が思ったら差別という考えの危険性

 極左や極端なリベラル層から時々発せられる台詞に、「自分が差別と思ったら差別」というのがある。朝田理論ともいわれる思考パターンなのだが、要約すると差別かどうかの判断基準は受け手個人にのみ起因するので、自分が差別と思ったら全て差別としてよろしいということだ。

 だが、多くの人もわかると思うが、その思考には重大な問題が潜んでいる。ここではその問題点について追及する。


問題点① 冤罪を容認することになる


 「自分が差別と思ったら差別」という基準でいった場合、自分が差別であると受け取ったら全て差別としてよいということになるので、それが例え事実誤認や人違い、精神疾患からくる幻覚妄想など、自分に誤りがあり事実無根の場合であっても、本人は被害感覚があるので差別と判定してよいということになる。

 それどころか、自分が思ったかどうかという主観一点のみを判断基準としてしまうと、腹の内は誰にも見えないだけに、相手を陥れるために簡単に悪用することができてしまう。これは冤罪に他ならず、決して認めていい行為ではない。実際、群馬県草津町においてセクハラを行ったとして草津町長を訴えるという事件があったが、容疑者の町長が事実無根であることを証明し、訴えた町議による虚偽であったことが判明した。

 このように
「自分が差別と思ったら差別」というのは、言いがかりや名誉棄損に用いることができるため、倫理上はっきり間違っている。


問題点② 差別かどうかは個人が勝手に判断する権限はない


 この朝田理論を持ち出す人は、個人の独断で差別のレッテルを貼る人が非常に多い。しかし、差別かどうかを判定するために法廷という場がちゃんと用意されており、法廷がある以上法律に則って判断しなくてはならないので、個人が独断で判断するのは違法である。

 なので、「自分が差別と思ったら差別」という理屈は日本の法律上認められておらず、必ず法廷を通して判断を仰がなくてはならない。


問題点③ 名誉棄損で自分のほうが有罪になる場合がある


 上記の①②にあたる場合、差別のレッテルを貼られた方は名誉を毀損されているので、当然報復措置として名誉回復の訴えを起こすことになるでしょう。事前に冤罪であるとの判決が出ていれば、間違いなく自分には名誉棄損で有罪判決が出るので、損害賠償をしなくてはならなくなる。より悪質な場合は執行猶予付きではあるものの実刑判決も出て、前科もついてしまう危険性もある。


問題点④ そもそも失礼極まりない


 そもそもの話、自分個人の基準で独断で相手に対して差別だなどと言うこと自体、失礼極まりないことだ。差別のレッテルを貼る行為は、相手の地位や名誉、人格をおとしめる効果があるし、それ自体が攻撃になりうるのでやって良い行為ではない。

 それだけではなく、周りで見聞きしている不特定多数の人間もそれを見ていい気分ではないので、褒められた考えではない。


問題点⑤ 独善的な人間になって精神の成長が止まり、敵も増える


 人によっては自分にとって耳の痛い話も差別と受け取ってしまう人もいるので、そういう人に「自分が差別と思ったら差別」を許してしまうとイエスマンの話しか聞かなくなり、他人の忠告やアドバイスを無視してしまう。

 それでは精神の成長が止まってしまい、社会性が身につかず、自分思い通りにいかなかった時の対処ができず、大人げない態度に出てしまいかねない。そうなると周囲は面倒なので距離を置くどころか、④のこともあって自ら敵を量産することになる。

 さらに問題なのは、そこで本人はより一層被害者ポジションに入り込んでしまい、負のスパイラルに陥ってしまうことだ。そうなると社会との摩擦や軋轢、亀裂はより深いものとなり、修復不可能になってしまう。それでは誰にとっても得はなく、不幸にしかならない。



 それにしても、


原因① 謙虚さが無い


 とかくこの手の人は、態度が横柄である。所見では腰が低かったとしても、ふとしたことからボロが出て、自分が王様かのような振る舞いを見せる。

 何でも自分の思い通りに人を操りたがり、少しでも気に入らないことがあれば食ってかかる。そこには正常な対人関係など存在せず、支配と服従の関係しかない。だからこそポジションを強く意識する人格が形成される。


原因② 素直じゃない


 原因①があって、素直になることができない。素直になるのは無意識に相手への服従と感じるので、屈辱感と恥ずかしさが込み上げ、強烈な抵抗感が生まれるからだ。この感情自体は誰しも持っているもので特段おかしくはないが、大人になるにつれて人間関係保持のためにこれに抗って沈静化させていく。

 しかし原因①があると落差が大きくなるので、より屈辱感と羞恥心が増大し折れることへの恐怖心のほうが勝ってしまう。結果素直になれず、いわゆる嫌なヤツになってしまう。


原因③ 間違いを認めず、謝るのが怖い


 そして今度は原因②が元となって、謝ること、間違いを認めることに極度の嫌悪感や恐怖心を抱くようになる。そんな姿や行動を無様だと思い込んでしまい、抵抗感を増幅してしまう。結果めでたく謝ったら死ぬ病発症となる。


原因④ 自分に間違いはないことにしたい


 さらに原因③から逃れるために、自分は間違っていないと言い張ろうとする。その際はなりふり構っていられないので、手段を選ぶことが無く、悪事であっても躊躇なくやってしまう。より嫌なヤツを強化することになる。


原因⑤ 自分を守ることに無駄に必死過ぎて、盲目になっている


 結局こういう人は自分を守ることに、必要以上に必死になりすぎるのである。過剰に防衛的になると常にファイティングポーズをとらなくてはならなくなり、結果いつも恐怖心にさいなまれ、とげとげした人間になってしまう。

 そうなるともはや盲目になって周りが見えなくなり、声も聞こえなくなる。せっかくの忠告も入ってこないし、なぜ周りから浮いて孤立しているのかも客観的に捉えられなくなる。それゆえ主観のみの世界、自分の感情のみのでのジャッジしかできなくなり、独善的で身勝手な自分が誕生する。


最大の原因 現実のショボい自分を受け入れられない


 そもそもの根本原因をいうと、現実のショボい自分を受け入れられないことにある。高い理想化された自分を描きすぎていて、そことのギャップが激しすぎるがゆえに現実の自分を否定せざるをえなくなるのだ。

 だが本当は人間なんて所詮動物に過ぎず、誰しもがショボいのは当たり前である。当たり前ということはちゃんと人並みの地位にはいるので心配ないのだが、本人はより崇高なのが人並みだと勘違いしているので、ショボいのを受け入れられない。

 だからこれを否定しようと必死になって悪あがきしてしまい、かえって自分の品位を落としてしまい自分の不甲斐なさを体感せざるをえなくなる。そしてまた自己否定をすることになり、無限ループにおちいってしまう。

 自分の人生を少しでも良いものにしたかったら、ショボい自分を認めないことには始まらない。というか、ショボくていいんだ!




2025年6月18日水曜日

生きずらいと言う人は、物事への捉え方が間違っている

 ここ近年、メンタル関連の話となると、「生きづらい」というワードを見聞きすることが多くなった。しかも、かつては特定の障害や機能不全家庭の問題を抱えていて、生活するのが困難な状況におちいっているケースに用いられていたが、ここ最近は自分にとって都合の悪いことや面倒なこと、誰もが経験する乗り越えなければならないハードルにまで言う人が増えた。

 お陰で生きずらいというワードがカジュアル化してしまい、やらなければならないことを避けるための恰好の言い訳に使われ、陳腐なものに感じるようになってしまった。

 ただそうやって何でも生きづらい生きづらいばかり言っているだけでは何も変わらないし、それを人に吐露して聞いてもらって慰めてもらっても一時の気休めにしかならず、一人になった時にはまた元に戻り、悲観に終始するだけである。大体こういうタイプの人は不幸だという割に前へ進む気が一切なく、常にこのサイクルを繰り返しているだけで、いつまで経っても進展がない。

 挙句の果てには社会が悪い、政治が悪い、会社が悪いと、他者批判ばかりするようになってしまう。私からすれば、そんな巨大コミュニティを批判できるほど大それたことをあなたは成し遂げてきたのかと言いたくなるのだが、本人はそんなこと考えもせず、本気で環境や境遇が悪いと思い込んでいる。

 だが、実際にはそこに逃げ込んでいるというのが正しいだろう。ハッキリ言うが、そんなことをしていても自分の人生には一片の変化もないので良くならない。むしろ落ちこぼれていくだけで、事態は悪化の一途をたどる。そして、その選択をしているのは社会ではなく、紛れもなく自分自身に他ならない。

 なので、どうしてこういう思考におちいるのか。そして、いかにしてこの不幸のサイクルから抜け出すか、考察する。


そもそも物事の捉え方が間違っている


 何かにつけ生きづらいと言う人は、物事の捉え方にいくつか共通した傾向がある。それが典型的なドツボにはまるパターンであることが多いのだが、知識や経験、推理力の欠如から本人は気づいていないどころか、それが正攻法だと信じてしまっている。

 だが、ちゃんと結果を出せている人やメンタルヘルスの職種に就いている人からすると、明らかに上手くいかないとわかるパターンは存在する。そんな生きづらいという人にありがちなパターンを紹介する。


① 予測や目標に期待値や不確定要素を入れ、都合のいいケースを前提とする


 これ結構やりがちだと思う。例えば、宝くじの一等があたったらとか、あの人が助けてくれたらとか、不安材料が無くなったらとか、自分にとって都合のいいことを列挙して、それが全て叶うのを前提にしたり、絶対視したりするなどだ。全て自分に都合よく順風満帆にことが運ぶパーフェクトな状況なんてのは、万に一つも無いのに。

 ちょっと計算すればわかるが、大概のことは二択なので確率は大体50%だろう(概算の話なので細かいことは省く)。分岐点が二か所だったら、パーフェクトの確立は25%になります。三か所だったら12.5%、四カ所だったら6.25%・・・。このように自分に都合よく全て上手くいく確率はどんどん低くなり、限りなく0%に近づく。

 なので、パーフェクトに行くことはまずないし、必ず思い通りにいかないことは出てくる。しかし、パーフェクトを前提にしているから、対策をとっていない。結果行き詰まってしまい、上手くいかない事例がどんどん増え、自己評価が下がり続け、貧することになる。


② 表面的なこと(肩書、所属、人物など)にこだわって、内容の確認や計算をしない


 もしかしたら本人は気づいていないかもしれないが、何かの確認や論拠として肩書きや所属、人物に基準を置いているタイプの人がいる。これも上手くいかないという人がやる、典型的なパターンだ。例えば、○○大学の○○教授が言っていたとか、○○省の官僚がとか、有名な○○さんが断言してたとかだ。

 これがなぜ生きずらくなるかというと、内容の検証をしていないからだ。いくら立派な肩書きを持っていようと、有名な会社や役所に所属していようと、相手も所詮人間なので専門外の部分や思慮が及んでいない部分が存在する。ケアレスミスをしていることもあるだろうし、知識が豊富ではあるものの机上の空論である場合も考えうる。それゆえにつじつまが合っていなかったり、論理的に成り立っていなかったりする場合も多々ある。

 しかし、肩書きや所属、人物を論拠にするとその人に対する先入観や雰囲気というテーマとは無関係のところで判断してしまうため、内容の検証がなされないまま鵜呑みにしてしまう。加えて内容そのものを聞いていないので知識も深まらず、騙されやすくなってしまう。

 結果こういう人は、「こういってたのに、騙された」だの、「アイツを信じてたのに、全然言った通りになってない」だのと騒ぐことになる。


③ うまい話や詐欺に引っかかりやすくなったり、甘い誘惑に負けやすくなったりする


 先の①②が原因で起こるさらなる副産物として、うまい話や詐欺に引っかかりやすいという傾向が見られる。というのも、こういう話は自分にとって理想的で、リスクや負担がなく欲しいものが最大限手に入ることを装うからだ。これは生きづらいと言う人の価値観であるノーリスク・ハイリターンに合致するため、魅力的かつ安全に見えてしまう。

 しかも、誰が言ったか、どの団体が証明したかというところに判断基準を置いていて、内容の整合性を自分で検証しないもしくは最初からあきらめているから、簡単に信じてしまう。

 しかし、そんなうまい話はない。というのも、そういうものは収支バランスがとれておらず採算が合っていなかったり、未来予測において確率論的に100%なものは無いため断言はできないはずなのに相手は断言していたりと、嘘や矛盾が含まれているからだ。もしあったら、みんなやって、みんな得して、ウィンウィンになっているはずである。


④ 困難や都合の悪い時の考え方が悲観的→思考停止


 人間生きていると無数に困難や壁が立ちはだかる。この時にそれをどう捉えるかでその後の展開は変わるのだが、生きづらいと言う人はこの時の物事の捉え方に不得手さが目立つ。自分は頭が悪いからわからないとか、不器用だから自分にはできないとかならまだかわいいが、周りが悪い、社会が悪い、政治が悪いとかまでいくと申し訳ないが痛い人である。

 現実では困難がその後の人生の糧になることが多々あるし、壁を乗り越えないと得られないものも多数ある。資格、スキル、学力、経歴、信用、資産、障害の克服、実績など枚挙にいとまがない。これらのものは勉強やトレーニングが必要だったり、長年かかったりするものばかりだが、生きづらいと言う人はそれをネガティブに捉えて、邪魔なもの無駄なもの出来ないものと判断してあきらめたり、切り捨てたりする。

 それだけならまだしも、人生にいいことなんて何もないと考え、生ける屍になる者すらいる。そうやって悲観的になり、思考も行動止めてしまう。それは自分で生きづらくしていると言える。


⑤ 興味を持てるかどうかではなく、柄に合うかどうかで捉えがち


 この手の人は自分に対してネガティブなイメージを描いており、その上そのイメージ通りに振る舞おうとする。そのため、アカデミックな物事やインテリジェンスな世界は自分の柄に合わないと思っている節があり、周りが快く迎え入れようと思っても避けてしまう。自分が浮いていないかが最大の関心事なので、ネガティブな自分像を持っている人からしたらどこへ行っても場違いな感じがしてならないし、そのことで頭がいっぱいで興味関心に割くリソースがないのだろう。


⑥ 失敗続きなのに、自分の感覚を絶対視する


 そうやって好ましくない判断や失敗続きの行動をとり続けているにもかかわらず、それを改善すべく軌道修正することにはしつこく反発する。失敗を認めてネガティブな感情に襲われるのが怖いのもあるだろうし、敗北感を抱きたくないのもあるだろう。

 とかくこの手の人は感情のウエイトが大きすぎるのと、ネガティブな感情の受け流し方が上手くないため、それを感じたくないために自分を絶対視してしまう。その結果、より失敗が大きくなり、さらなる大きな挫折になってしまうのも生きづらさにつながるだろう。


生きやすくなる秘訣は?結構自分次第でどうにでもなる


 ならどうすればいいか?簡単に言えばこの逆をやればいいということだが、もう少しちゃんと言うと、

①予測や目標に不確定要素は入れない。むしろ最悪を想定し、あらかじめ対策をとる。
②誰が言ったかではなく、つじつまが合うか、抜け落ちがないか内容で判断する。
③上手い話はないということを、いい加減受け入れる。それは誘惑だと気づけ。
④困難は悪いものとは限らない。むしろそれを乗り越えたところにご褒美がある。
⑤柄に合うか気にしてもメリットはない。むしろ興味があるか、必要かのほうが大切。
⑥失敗続きの状態で判断しても同じ結果になる。素直に相手のアドバイスに従う。

ということになる。もっと簡単に言えば、背伸びをせず、困難から逃げるのを止め、素直になることである。

 すべてを一気にできるようになるのは難しいので、一つ一つ習慣化して無意識にでもできるようになると、生きづらさが段階的に減っていき辛さが無くなるだろう。



2025年6月13日金曜日

精神障害者は真面目?

 よく精神科やカウンセリングの業界で、精神障害者には真面目な人が多いと言う人がいる。最近はこの言説が独り歩きして、自分を正当化するのに使う人もいる。

 だが実際に精神科へ通っている、もしくは何らかの診断を受けているという人を見ると、社会的に問題のある発言をしたり、自己本位な考えをしていたりするのをよく見る。そのせいで人から嫌われて孤立している、度々対人トラブルを起こして騒動になる、生活がすさんで引きこもっているなんてことを見聞きすることが少なくない。

 はたして精神障害者が真面目とは本当なのだろうか?それにしては実態が真逆ではないか。ならば真実を解き明かしたい。


精神科における診断基準とは


 内科で扱う疾患、例えばインフルエンザとか麻疹などの感染症では、検体を採取して検査機器にかけて特定の印が現れるかどうかで判定する。外科の場合は、骨が折れているかどうかレントゲン写真やMRI画像に写っているかで判定される。このように一般的な診療科の場合、問診やだけに頼らず、検査や目視などの物理もしくは数値を判定基準とする。

 それはなぜかというと、一つに患者がわかるのは症状のみで、原因まで自分ではわからないから。二つ目に同じような症状を表す疾患や怪我が複数存在しているので、問診だけでは特定できないから。三つ目に研究によって原因を突き止められるようになり(いわゆるエビデンスが存在する)、それを視覚的に判別できる検査方法を編み出したから。

 なので、内科や外科などの一般的な診療科の診断は、大抵原因に対して診断を下す。だからインフルエンザも麻疹も骨折も神経断裂も原因を表しているし、反対に発熱、咳、痛み、外傷などは症状なので、この症状に診断を下すことはシステム上ない。

 しかし精神科においてはそうではない。脳の研究がほとんど進んでおらず、症状の原因が脳のどこにあるのか全く特定できていないため、検査法すらないから問診だけに頼るしかない。
もっというと、患者の発言や思考、行動パターンを分類して疾患名をつけたので、要は症状に対して診断を下しているのだ。

 なのでよく精神障害者で、これができないのは発達障害が原因だとか、気分障害があるから落ち込みやすいという言い方をする人がよくいるが、発達障害も気分障害も症状であって原因は未解明なので言語的におかしいとわかる。


精神障害は過剰な行為に対して診断を下す


 ただ何をもって障害とするのかだが、これは約2%に入るくらい症状(極端または異常な思考、発言、行動)や社会との乖離、摩擦が強いかで決まる。というか、その比率になるように精神医学界が設定している。

 そこには社会的に問題ある行為に及ぶケースも含まれるし、その場合はより症状が重いとして診断が下りやすくなる。


性格と症状とを明確には分けられない


 そしてこういう精神の話となると性格も問われるが、正直性格がどうであろうと異常があれば診断されるのが精神科である。性格と症状を明確に分ける手段がないし、支障があれば診断を下すのがセオリーだからだ。なので、極端だったり、問題があったりするれば、性格から来ていたとしても診断されうるし、診断された時点で精神障害者である。


トラブルになっているから精神障害と診断される


 ここで一旦、逆説を考えてみる。真面目で異常がない人だったら、診断は下りるだろうか?真面目だったら人間関係に恵まれるし、極端な考えにはならないし、問題は起こさない。これは問題ない状態なので、精神障害とはならない。

 そもそも問題やトラブルが起こっているから診断されるので、診断されているということは何らかの問題があるということだ。素直になれない、好き嫌いが激しい、強烈な執着がある、承認欲求が強い、融通が利かない、自分本位、計画性がない、感情をコントロールしない、協調性がない、ルールや指示を守らない、ご都合主義、目先の損得に惑わされる、ゼロ百思考、忍耐力がない、他者依存、他責思考などなど精神障害によく見られる傾向を挙げればキリがないが、およそ真面目とは真逆の社会的に問題視される要素ばかりである。

 これらの要素を持っていながら真面目とはとても言えず、むしろその有無を加味して診断を下しているので、少なくとも当てはまる≒精神障害傾向ありと判断される。なので当てはまるものが無ければ無いほど健常および定型発達という判断になるので、健常者、定型発達のほうが真面目であると言える。


対人トラブルを起こしやすい精神障害


 精神障害の中には、双極性障害、統合失調症、素行障害、反社会性パーソナリティ障害など、他人に対して何らかの行為に及ぶものもある。しかもこれらは他の障害と併存していることもしばしばあり、寛解率も他のと比べると低いのも難しいところである。

 それどころか受診率が低い、否認してしまうという問題もあり、なかなか医療に結び付けられていない問題もある。

 その他、極端な行為に及ぶ者もおり、ここまで行くと確実に健常者として扱えず、障害者の診断になってしまう。


未診断=健常者とは限らない


 診断されていないから健常というふうに考える人もよく見るが、そもそも精神科を受診していない人がほとんどなので、確認をとっていないだけで潜在的には精神障害者であるケースも存在しうる。というか、このケースの方が実際には多いのではないかと思われる。


精神障害=真面目はどこから来たか


 となると、精神障害者は真面目という言説はどこから来たのかというのが気になるところだ。考えられるところは、こんなところだろう。


① 精神障害者のメンツ・防衛機制から


 まず可能性が高いのは、精神障害者が自身のメンツを守るために防衛機制が働いて、叫んでいるケースだ。特に精神障害者は自身のメンツやイメージ悪化に対して非常に敏感で、反論したがる人が多い。加えて支援者がそれに同調し発信するため、ロビー活動などによって拡散される。

 さらにそのためなら手段を選ばない人も一部いるため、周囲を委縮させて反論できなくさせ、言論統制を図って流布するケースも見られなくない。


② 語彙・ボキャブラリーの不足および誤用


 日常生活において語彙の不足や誤用は頻繁に発生するので、この件においても起こっても何ら不思議はない。しかも精神障害者だけでなく、医師自身も人間である以上、気付かずに起こしていることも少なくない。

 実際、精神障害において真面目と言われる要素は、むしろ鵜呑み、直情的、形式的、一義的、頑固、意固地、一面的、表面的、馬鹿正直、向こう見ずな面を持っており、社会的に褒められる要素はあまりない。それからすると真面目という言葉の本意からはずれており、誤用であると言える。


まとめ


 以上のことから、真面目で素行がよく社会適応できているなら、社会的に問題がないので健常者である。そこから外れれば外れるほど障害者として診断される。よって精神障害者は真面目とは言えず、むしろその逆で問題があるからこそ精神障害者として診断されている。ゆえに精神障害者は真面目だというのは嘘であるというのが真実だ。



2025年6月10日火曜日

あなたのいう差別、本当は嫉妬では?

 世の中には、何かにつけ差別と言いたがる人がいる。特に自分が持っていないものを他人に見つけたり、他人との格差を感じたりした時に差別だと言う。人間みんな境遇、生き様、選択が違うので差異があるのは当たり前なのに、それがどうも認められなくて差別のせいにし勝手に憤慨する。

 そもそも自分個人の価値観と裁量で相手に向かって差別だというのは、価値観の押し付けであると同時に、相手の名誉や信用を不当に貶める行為でしかなく、一個人が独断で判断していいことではない。それどころか司法にしか判断の権限を認められていないので、法廷の場で尚且つ裁判官であることが条件であり、個人が勝手に差別だと言って相手を罵るのは越権行為であると同時に、法律違反にもなりうる。

 にもかかわらず、何かにつけ他人との違いに差別と言って攻撃するのは尋常の精神ではなく、これに執着するのは何か特殊な深層心理があると考えられる。今回はこのことについて、深く見ていく。


そもそも違うのが人間


 その前に大事な前提として、誰一人として同じ人間はいないということだ。例えDNAが同一である一卵性双生児であったとしても、髪型、シワ、老化の進度、指紋など、どこかしら身体に一致しない部分は生じてしまうし、学校のテストの点数や仕事場での配属、家事育児のタイミングなど生活面でも一致しない所は出てきてしまう。それだけ同一の人間というのは存在しないのだから差異があるのは当然で、それを操作しようなどというのは不可能である。


差異を認めたくない人=他人より損したくない人


 にもかかわらず、その差異を認めたくないという人がいる。常に他人と比較して少しでも劣っていたり、取り分が少なかったりするとすぐ差別に結びつけてしまう。本当は陰で相手はトレーニングを積んでいたり、遊ぶ時間を削って勉強をしていたりしているからこそ差異が生まれているのに、そんなところは見向きもせず、結果だけを見てズルいと言う。

 しかもこういう人は自分が生まれつきリードしていることに関しては、相手の実力不足だと言い放って切り捨てる。

 結局、こういう人は自分が損することに敏感で、その嫉妬心から受け入れられないのだ。だからチャレンジや努力も面倒だし、プレッシャーがかかって損した気になるので、やろうとしない。そしてそれに対する自己弁護として、「差別」「自分は恵まれなかった」という言葉をすぐ持ち出したがる。


人のことを言う前に、人間性を身につけるのが先


 自分はそれだけ人間的に成長できておらず未熟なままなのに、他人のことを差別だと言って罵ったり、非難したりするのは、どの口が言ってるんだという話だ。相手は多くの苦労と経験を積んで大人の道を二歩も三歩も先を進んでいるというのに。その差が開いているのは自分が己を磨くのを怠ったからで、決してそれを相手のせいにしてはならない。

 それどころか差別だを言って罵るのは、相手をおとしめる行為で悪逆非道に他ならない。人間は嫉妬に駆られるとこういうところが見えなくなるし、そうなったが最後精神のコントロールを失って衝動の権化になってしまう。

 そうならないためにも常に自分を戒める必要があるし、人のことを言う前に自分自身の人間性を高めることのほうが何より重要である。