2025年8月30日土曜日

逃げの一手だけでは、必ず行き詰まる

 よくリベラルの人達が、「辛い時は逃げてもいいんだよ」とか、「逃げなきゃいけない場合だってあるんだ」とかいうのを見聞きする。そうといえばそうなんだけれども、実際には本当に逃げたほうがいい人は言っていない気がする。むしろ人生の節目節目でいつも逃げの一手しかしてこなかった人が、自分の失敗や選択ミスを認めたくないばかりに言っているのが多いのではないか。

 正直な話、逃げてばかりで上手くいくほど人生容易ではない。学べないこと、失うこと、身につかないこと、得られないことのほうが圧倒的に多く、どんどん平均との差が開いてしまう。しかも、それを自分が選んだのに社会が悪い、政治が悪いと言って自分を省みないから、いつまでも自分の過ちに気づかず、余計に取り残されてしまう。

 そこで、なぜ逃げるのが良くないのか?逃げるとどんな悪影響があるのか見ていこう。


 生きる術が身につかない


 逃げるといういうことは自分ではやらないということなので、知識や知恵を学んだり、経験やスキルを積み重ねることができない。なので、できない、できなかった、という失敗の実績だけが積み重なるので、どんどん自分は無能であるという確証のみが高まってしまう(実際には試してもいないので、無能かどうかわからないのだが)。

 リベラルの連中は逃げるのは良いこととして喧伝しているが、実際は目標を達していないから本人にとっては挫折・リタイアであり、自信の喪失とより深い精神の落ち込みをもたらしてしまっている。結局のところ、逃げるというのは一時しのぎをしているだけで、メリットは何もない。逃げの一手だけだと、どんどん自分から自分で生きる力を奪っているわけで、上手くいかないのは当然の成り行きである。


 精神力で何とかしようというのが土台無理


 そもそもなぜ逃げるかというと、そのほうがメリットが大きいからだ。傷つかなくて済む、自分で責任をとらなくて済む、損失を被らなくて済む、恐怖を感じなくて済む、他人の顔色をうかがわなくて済む、面倒なことをしなくて済む、失敗をしなくて済む、恥ずかしい思いをしなくて済むなどなど、逃げるというのは心理的なメリットがかなりある。

 しかもこのメリットは極めて強力で、大きな誘惑となる。これを精神力で乗り切るのはどんな人間でも不可能である。目の前にこれを越えるくらいのうま味のある餌を持ってきたとしても無理だろう。というのも、人間の習性としてメリットよりもデメリットの方を2倍大きく見積もるという無意識の心理が本能的に働くことがわかっているからだ。


 所詮人間は物理的に退路を断たないと本腰を入れられない


 だからといって逃げの一手を続けるのは愚策である。また元の生活に逆戻りしてしまうから。なんとか打開策を見出したいものである。

 実は、こういう状況下においても人生をうまく乗り切り、解決へと導いている人がいる。そういう人が採る手段が、物理的に退路を断つという手段だ。身近な例でいえば、枕元にスマホを持っていかないとか、目覚まし時計は布団から離れたところに置くとかだ。この手法をを用いて、生活や勉強、仕事でも実践するのだ。スマホがメンタルに悪いのならタイマーを仕掛けるとか、仕事で一定のレベルに達してから進退を考えるとか、実践的な方法を取ったほうが腰を上げざるをえない状況にできるだろう。

 後は逃げることに物凄いペナルティーや負荷をかけるのも効果的だ。先ほども言った通り人間はデメリットを大きく見積もる習性があるので、デメリットのあることをやろうとはしない。逃げたら損するとわかっていたら、逃げるよりも立ち向かったほうがマシとなるので逃げづらくなる。例えば逃げたら筋トレとか1万円没収(没収先を慈善団体にするとなお良い)とか、やり方はたくさんあるだろう。

 とにかく精神論で何とかしようとするのは精神疾患抱えている人には尚のこと期待できないので、物理的な手を用いる他はないだろう。



                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            

2025年8月26日火曜日

困ってから動くので詰む!普段、危機感もって動いてるかが運命の分かれ目

 生活困窮者や精神障害者なんかを見ていて、「急に身内に災難が発生して」「勢いで仕事を辞めてしまって」「突然精神障害を発症して」など、突発的に不幸が起こってしまったがゆえに、なす術なくなってしまったと発言する人が多い。こんなことが起こるとは予想だにせず、運悪く詰んでしまったと。

 しかし、こういった人たちの普段の行動や発言を見ていくと、いくつかおかしな点や矛盾点に気づく。突発的な不幸はきっかけに過ぎず、生活困窮の本当の原因はもっと根源的なところにあるのではないか?精神障害についても本人が気づいていないだけで、本当はもっと前から予兆があったのではないか?となると果たして本当に、自分の力では一つも防げなかったのか?その点を丸裸にしたい。


 人生は必ずしも計画通りにはいかないもの


 まず当たり前の話をするが、人生とは自分のであれ他人のであれ、大抵計画通りにはいかない。必ずイレギュラーやミスが発生するもので、全て計画通りにいっている人など一人もいないのは誰もがわかるだろう。困難なことやハイレベルなことに挑んでいる人ほど、これを嫌というほど痛感しているのではないだろうか?

 なので、突発的に予想外のことが起こるなんてのはそもそも当たり前の話であるし、誰の身にも起こっているのでここが運命の分かれ道になっているわけではない。では、何が成否を分けているのか?それはイレギュラーへの向き合い方ではなかろうか。

 実は成功者と困窮者では、決定的にこのイレギュラーへの向き合い方が違う。成功者は、イレギュラーは必ずあるものとわきまえているから、初めからイレギュラー有りきで計画を立てる。時間も資金も余裕を持たせ、いざとなったら困らないように事前に出来うる準備をしておく。だから、スタートも早い。

 反対に困窮者は、普段イレギュラーのことなど考えもしない。今の満足にしか目がいってないから、誘惑に負けて時間もお金も体力も使い果たしてしまう。なので、イレギュラーが発生しても余裕がないから切り抜ける手段がなく、窮地におちいって詰むしかなくなる。明らかに目測が甘いのだが、困窮者は普段の対策の重要さがわかってないし、関連性づけする能力が弱いので
(本当は事前に回避する手段がたくさんあっても)運が悪かったという認識にしかならない。


 困窮者に決定的に足りないものは、普段の危機感


 そもそも、人間いざ窮地におちいった際にできることというのは、結構限られているものである。パニックになって頭も働きずらくなるので、そんなときに全ての作業をやるのは土台無理である。だからこそ、成功者は前もってやる、先んじてやるというのを心得ているので、いざとなっても余裕があるので困らない。

 しかし、困窮者はいざとなったらやればいいと高をくくっている。そして、いざ窮地におちいった時に全てをこなさなくてはならなくなるから、キャパオーバーになって詰んでしまう。明らかに自分の落ち度である。

 さらに問題なのは、困窮者は責任の所在を間違うので対人トラブルも同時に起こす。こういう時に自己責任論の話がよく持ち上がるが、ここでいう自己責任論は事前準備を怠ったことを差している。

 しかし、困窮者はイレギュラーが発生したことに対する責任の有無しか連想しないので(普段から心の視野狭窄でその場しか見ていないのもある)、自分には責任がないと誤認する。結果、無責任、責任放棄の常習となり、対処の杜撰さも相まって人から信用を失い、孤立していく。これは自業自得でしかない。

 こうなってしまうのは、ひとえに普段から「危機感」がない、もしくは弱いことにある。そもそも人間は遠い未来の危機より、近くの利益のほうが大きく認識する習性がある。そのため誘惑が起こり、流されやすくなってしまう。

 困窮者の場合は、境界知能や発達障害、自閉スペクトラムなどを抱えている人が多いため、よりこの明暗が極端になりがちで、誘惑のほうが勝りやすい。先延ばし癖があるのもこのためで、余裕を持つ、前もってやるというのを苦手とする人が多い。だから、いつでも場当たり、その場しのぎになってしまい、手段が限られて詰んでしまう。


 普段から「危機感」を意識しよう!


 なので、こういった人こそ普段からどれだけ「危機感」を持てるか、意識できるかが将来の分かれ目となる。自分のヤバさに気づき、「危機感」を普段から意識的に大きく見積もる習慣をつけることが、今のどん底の人生から抜け出す第一歩となる。




2025年8月24日日曜日

失われた30年の真の正体

 バブル崩壊後、日本は長く低迷した時代が続いている。これを差して失われた30年とよく揶揄されている。その矛先として政治家や財務省、官僚、自民党、大企業、富裕層などへ怒りが向けられているが、これはほとんど衝動的にターゲットとしているだけで、まずメカニズムを紐解くという面倒くさいことして出た結論ではないだろう。となると、これは単なる当てつけにしかなっておらず、これら人々を攻撃するのはとんだ的外れで、自分には何のメリットもない無駄な行為になってしまいかなねない。

 そこで、本当にこれら上流階級のせいなのか、実際に上流階級だけで社会を操ることができるのか、庶民は世の中の情勢と関係ないのか、民衆の影響力はそんなに小さいものなのか、検証してみる。


 上流階級は庶民の御用聞き


 多くの人は上流階級というと、お金持ちとか権力者というイメージを持っているだろう。そして、これらの力を駆使して世の中を半ば強引に動かして、自分の意のままに操っていると思っていることだろう。陰謀論にはまっている人にありがちな発想だが、果たして本当にそうだろうか?

 例えば政治行政はシステム上、有権者や市民からの陳情や要望を吸い上げることによって初めて仕事が発生する。企業や富裕層なら必ず顧客がいるわけで、その顧客のニーズを汲むことで利益が発生する。つまり、政治行政もビジネスも御用聞きなわけで、彼ら自身に意思はなく、背後に彼らを動かしている人がいてそのニーズに応えているだけなのだ。

 そして、そのニーズを上げているのは、実は庶民自身に他ならない。年金では生活費が足りないというので、生活保護を転用するのを求めたのは庶民だし、資金力に見合わないくらい医療費の保険適用を求めたのも庶民だ。企業に安売りを求めたのも庶民だし、低価格・無料を良心的だとして祭り上げたのも庶民だ。所詮、上流階級は庶民の操り人形に過ぎない。


 人間は根本的に怠惰


 ここでちゃんとわかっておかなくてはならないのが、人間の本質についてだ。それは、「怠惰」であること。誰しもできれば面倒なことはしたくないし、手間やコストもかけたくない。自分の自由時間を失いたくないし、楽して得をしたいと思っている。

 多くの人は先のことよりの今のことにしか関心がないから、目先の利益しか考えていない。長期計画で老後の資金を工面しようなどという人は奇特だし、行政が保護してくれるなら自分は何もやらないというほうへ気持ちが流れてしまいがちだ。だから、どうしても行政や政治、企業努力への期待が大きくなるし、それが誘惑となって頼ろうとしてしまう。


 数の論理で庶民には勝てない


 しかし、多くのサービスは一部の人間の要望だけでは通らない。少なくとも、まとまった数の人から要望がないと実現しない。それは、世の中多数決で決まるからだ。そして、数の論理から言ったら上流階級など極少数なので、庶民の票には勝てない。なので、庶民の要望ほど通りやすいことがわかる。

 自分はそんな要望出した覚えはないという人もいるだろうが、それはあなたとは別の多数派グループの庶民が出しているからだ。

 さらに一人当たりのコストは低くとも、とかく人数が多いので合算すると相当なものになる。数百人が食うのと、数百万人、数千万人が食い尽くすのでは、額が半端なく違う。どうしたって庶民の方が圧倒的に影響は大きい。


 庶民の要望を聞いた結果の失われた30年


 このことからわかる通り、表面上は政治や富裕層が今の世の中を操っているように見える、もしくは操っていると思いたいのだろうが、数の論理で多数派には勝てないから庶民の言いなりにならざるをえない。なので、庶民の要望を聞いてきた結果が今であるということなのだ。このことから、失われた30年になったのは、将来を考えないアホな庶民のいうことを聞いてきたからに他ならない。

 大体、自分の面倒もまともに見れない、将来のことも考えていないような庶民のいうことを聞いていて上手くいくはずがない。各々自分勝手にまとまりなく無制限に要望を訴えるのだから、採算が合わず破綻するのは当然である。締めるところを締めず蛇口の栓を緩めたままでいたら、そこにおんぶにだっこしようとするのが人間の性なので、自ら重い腰を上げようなんて人は現れない。

 そのやる気のなさ、危機感の無さが失われた30年を作ったのだ。




2025年8月19日火曜日

「~たら、~れば」の考えをもつから落ちこぼれる

 よく「他の人がやってくれたら」とか、「社会が変われば」みたいに、前提として「たられば」の話をする人がいる。しかも、この「たられば」を言う人の前提は、最悪の事態を想定するのではなく、最良を期待したものという特徴がある。

 こういった人を見ていると、風采の上がらない人が実に多い。人生が思い通りにいかないとか、不遇を買っているとか、何かと愚痴をこぼして自分は不幸だという思いに駆られている傾向が強い。


 たらればが上手くいかない理由


 なぜたらればを言うと、不幸な運命を歩むことになるのだろうか?なぜたらればは、何も得られなくなるのだろうか?なぜたらればの思考を持つと、失敗が増える一方になってしまうのだろうか?


 ① 腰が重くなり、決断できなくなる

 たらればというのは、言ってしまえば「条件つき」の決断だ。つまり、この条件がそろったらいいのにという考えが前提としてある。裏を返せば、条件がそろわなかったら決断しないし、行動に移さないということ。その分、腰が重くなるからスタートしようとせず、初っ端から出遅れることになる。

 しかもこれがエスカレートすると、やらない理由探しをするようになり、たらればを増やすことになる。これにより、もっと決断が遠のくことになる。


 ② 他人への依存が高まり、自立できなくなる

 たらればの考えの下、他人が何とかしてくれるのを前提としていては、いつまで経っても自分で生きるスキルが身につかない。そうなると、自立した生活ができなくなってしまう。

 しかし、他人はロボットや奴隷ではないので、常に自分の思い通りに動いてくれるということはない。条件がピッタリそろうことは確率0%なので、たらればを言っている内は永久に自立できない。


 ③ 経験や成功体験を積めず、自尊心が育たない

 行動に移さなかったり、他人にやってもらってばかりだったりすることで、自分の力で手にしたものがわずかになってしまう。そのせいで、自信もって自分でできるといえるものが限られてしまう。

 それは自ら自分の可能性を狭めており、自分で自分のことを無能であるとレッテルを貼ることになる。これによって自尊心を自ら下げ、精神障害や無気力な状態へ落とすことになる。


 ④ 自分で自分の人生を作る力がつかない

 とにかく決断しない、やらないとなると、いつまで経っても生きるため、自己実現するためのノウハウやスキルが身につかない。自分で生きる力が無いから他人に頼らなくてはならなくなるし、他人に期待しないわけにはいかなくなる。

 そうなると、他人にばかりやらせて自分では何もしないわけだから、他人は不満を蓄積させていつかは爆発する。その結果、人間関係が終了して自分は詰んでしまう。


 ⑤ 他責、責任転嫁が激しくなって、社会を敵に回すようになる

 さらに一番厄介なのは、他責や責任転嫁が増えることだ。たらればは他人に期待する行為なので、他人が自分の思い通りに動いてくれないと他責することになる。しかもそれが本来自分でやらなくてはならないことだと、責任転嫁することになる。

 しかし、他人は自分の思い通りには動いてくれないので、他人のせいにしている限り何も変わらない。それどころか、他人に刃を向けるので確実に対人関係は悪化する。そこで自分のしたことに気付けない人だと、社会を敵視するようになり、孤立を深める。


 生き残る人の考え方


 では、落ちこぼれることなく着実に生き残る人は、どんな考え方を持つのだろうか?

 ① 決断をするのに条件をつけない。
 ② 条件がそろわなくても、まずスタートする。
 ③ 他人を当てにしない、不確定要素は加味しない。
 ④ 数回やっただけで見切りをつけない。数をこなすことを重視。
 ⑤ 自分の人生は自分で作らないと自分のものにならないと理解している。
 ⑥ 自分に落ち度はないか、自分で工夫できる部分はなかったか考える。

という特徴がある。ベースとして悩むのが無駄だと考えており、やってみないと何とも言えないからとりあえずスタートしてみるというスタンスだ。先延ばしが一番の損になるとわかっており、さっさと決断しないといけないという危機感を持っている。それゆえに決断を鈍らせるのが嫌なので、感情に囚われたくないという姿勢も見受けられる。


 できるか否かではなく、将来困るか困らないかで考える


 こういう言説の際によく出てくるものとして、できるできないの話がある。これは全くの見当違いの話で、方法が確立しているものに関しては誰がやっても同じ結果が出ることが判明しているので、才能や能力、運、環境は関係ない。やったかやらないか、方法が合っているか否かで成果が決まるのである。成果が出ていないということは、そもそもやってもいないか、間違っているのに直さないかなのだ。

 それよりも、やらずにいると必ず報いを受ける。その時になって困るのは自分である。しかも、困ってから重い腰を上げても時すでに遅しで、挽回できない。たらればが実現することは万に一つもないので、サッサと見切りをつけて将来自分が困らないように何かを始めることが生き残る唯一の秘訣である。




2025年8月13日水曜日

努力しても実らない人は、努力するところを間違えている

 よく巷で、「努力してきたのに何も得られなかった」とか、「俺だって努力してきたんだよ。努力してないって言うな!」といった台詞をよく目にする。「努力したからって、必ずしも目が出るわけではないんだよ!」というのもあるだろう。こういった努力を否定する人たちをつぶさに見ていくと、面白いことに共通点が浮かび上がってくる。それは・・・

 「努力するところを間違えている」

という点だ。どうもこの手の人は導入の時点で、何でも思いつきで手当たり次第に努力しても結果が出ると勘違いしている。下手すると、勘だけを頼りに物事に取り組んでも結果が出ると、安易に判断している。正直、

 そんなわけあるかい!

 それだったら全ての人が億万長者になっていないと、おかしいではないか。結局、この手の人の問題点は努力する能力がないのではなくて、取捨選択をする能力に欠けているのだ。別の言い方をすると。努力の量や質ではなく、努力の方向を間違えているのだ。

 例えば、社会保障と財政逼迫の問題で、間違う人は一生懸命財政破綻しない理屈(それも決まってMMTや通貨発行権の話ばかり)を探してしまう。そんなのは金融全体から見たらほんの一部分のシステムでしかないし、現実世界で実証されていないから憶測の域を出ないので絶対そうなるとは言えないし、何よりその通り行ったからといってそのお金が自分にまで分配されるという約束は誰もしていないのに、ひたすらこの分野だけ聞きかじって知った風な口を利く。自分のお金は一切増えないのに。

 自分の生活や収入の保障が目的なのに、小利口になるだけで自分の生活の足しにならないことに貴重な時間を使ってしまうのは、目的適っていないので時間の無駄使いあり、完全に努力の方向を間違っている。その間にも物価上昇が続き、永遠に自分の生活は苦しくなる一方で、その努力は失敗にしかならない。この場合の正解は、自分の収入を増やす方法を見つけてチャレンジすることだ。

 もっとシンプルで身近な例を挙げると、勉強でいったら英会話のレッスンのために英単語帳を見て覚えるとか(発音記号通りにネイティブは発音するわけではないので、リスニングには全く役立たないから)、会社で評価されるために1人でたくさんの業務を抱えるとか(体力や健康に限界があるので、業務の量にも限度があるから)もよくありがちだ。こういった成果の出ない努力を重ねている時点で、方向を間違えているのだ。

 さらにこういったことに時間を使ってしまうと、成果の出ることに使う時間が無くなってしまうという、更なる悪影響も生じる。しかもその成果の出ることに時間を使っていないことで、他人から努力していない、行動していない、チャレンジしていないと見られてしまうのだ。これはせっかく努力ができるのにその能力を適切に使えていないので、実にもったいない。

 このことから、この手の人の欠点は何かというと、

 最終目的を見失うこと

である。これをいつもやっているから、無駄な努力で終わって結果に結びつかないのだ。これを防ぐために、定期的にそもそもの目的は何だったか立ち返る必要がある。そのために必要となるのが、

 自分のやることを疑う癖をつける

ことだ。そしてその判断基準として重要なのが、

 間違いがないかではなく、実りがあるかどうか

である。これを間違うと方向がくるってしまい、せっかくの努力が水の泡になってしまう。なので、常日頃から自分のやることに疑いの目を持ち、それがやるだけの成果が得られるのかを検討する癖をつけることが生存に欠かせないのだ。




2025年8月11日月曜日

社会で取り残されるのは、自己変革しないから

 いつの時代にも取り残される人がいる。もしかしたら9割がこの部類かも知れない。この取り残される人とは根本的にどういう人かを知ることによって、自分がそうならないようにするための切っ掛けになるので読んでほしい。

 では言わせてもらう。取り残される人とは、

 「変わらない人」

だ。自己変革をしない人と言い換えてもいい。

 頑固な人、優柔不断な人、臆病な人、保身的な人。何でも、変わらない人は取り残される。当たり前といえば当たり前だが、ほとんどの人は思い当たる節があるのではないだろうか?そしてこれの傾向が強ければ強いほど、落ちこぼれる度合いも大きくなる。

 ここで考えてほしいのが、こんなにわかり切っているのに、なぜそれでも多くの人が変わらない選択をしてしまうのかだ。それは・・・

 「脳の働き」

に、従順になっているからだ。別の言い方をすると、

 「現状維持バイアス」

だ。人間は基本的に、予測のつかないことに不安を感じ、予測できることに安心感を持つ。変化は予測がつかないので不安を感じるが、現状維持は予測しやすいので(それが的確とは限らないが)安心感を生みやすい。だから、自然と変わらない方が無難であるように思ってしまうのだ。

 さらに、人間の脳はフル稼働をすることを避けようとする性質がある。疲れてストレスが溜まることを防ぐためだ。そのために、サボりたいという欲求を感じさせて、サボらせたり、手を抜かせたり、飽きさせたりする。この脳の性質にどう立ち向かうかで運命が決まってしまうので、現状維持への誘惑が芽生えたら脳が邪魔しようとしていると考えていい。

 この脳の特性を理解して変われる自分になれば、取り残されることはなくなるだろう。

2025年8月10日日曜日

これからの時代は収入源を複数持つことが生存戦略

 物価上昇、税率、社会保険料の増加などによって、実質賃金や手取りが少ないという昨今。そんな中で、老後の生活まで見越して収入を得るハードルがどんどん高まっています。正直年金に関しても少子高齢化に伴って支給額のほうが上回ってしまっているから、このままでは破綻するでしょう。

 かといって生活保護に頼ろうとすると、税金から支給されることから受給者が増えれば増えるほど予算が足りなくなるので、さらなる増税につながってしまう。しかも、増税も無限にできるわけではないから、結局保護費に制限を設けざるをえなくなるものと思われます。

 となれば、自分の生活費を削るしかなくなるわけで、それを受け入れるのはなかなか困難だと思います。

 こうなると解決策としては、収入減を作るしかない。しかも、高齢になると体の自由も利きづらくなるので、できれば不労収入が望ましい。そこで、老後の生活資金確保に役立つ収入源をピックアップしてみます。これを若い内に作っておけば、老後どころか今の生活も楽になるのでおススメです。


 ① インデックス投資


 今現在、一番無難な方法と言われているのが、このインデックス投資です。複数の投資先を一つにパッケージにまとめたものを投資信託(投信)と言うのですが、これを株式市場内で売買しているものをETF(上場投資信託)と呼びます。このETFの中で、東証株価指数やナスダック総合指数などのインデックスに連動して値動きするものに投資するのが、インデックス投資です。

 複数の銘柄が一つのパッケージになっているので、値動きが相殺されて大きなアップダウンをしにくく、安定しているのが特徴です。以前はオールカントリー(オルカン・全世界株)と呼ばれる最も広くカバーしたものが安パイだとして持てはやされていましたが、最近は米国株系なんかが将来性があるとして人気が移ってきているような気がします。

 しかも、値上がり益だけでなく分配金も入ってくるので、その分収益を上げやすいのがメリットです。


 ② 純金積立


 これは以前、テレビCMで盛んに宣伝されていましたが、これも不労収入にできます。株価の値動きとは相反関係を持つことがあるため、リスクヘッジとして併用する人もいます。

 現物投資なので分配金や配当金はなく、値上がり益でしか儲けることはできませんが、現物であることの安心感と、ここ最近のハイテク需要の増加に伴う金の使用量増加が値上がりに拍車をかけているので、安パイな投資先ではあります。


 ③ 家賃収入


 昔からある不労収入の代表例です。ただ難点なのは、初期投資の額が大きすぎて庶民には手を出しづらいのと、手を出したとしてもその資金を回収して収益が出るようになるには子供の代になるというのがあります。

 それを解消するために、共同出資をするファンド型の不動産投資サービスが現在は登場しています。ただ、借り手が見つからないと収益が上げられないので、個人的にはおススメできません。


 ④ ネットビジネス


 コンテンツ販売系のネットビジネスは不労収入にできます。スモールビジネスとして展開するのにも向いていて、コツコツやれる人であればチャンスがあるかもしれません。ダウンロードをもって手続きするので、売買においてはお客さんのほうが手間を負担してくれます。なので、コンテンツをそろえてしまえば、あまりやることも無くなります。

 決め手はどれだけ多くコンテンツを早期に用意できるかです。最低でも500、できれば1000は欲しいところです。


 これらを複数併用することで、まとまった金額にする


 ただ、これらの中から一つ大当たりさせるのは至難の業です。なので、採るべき手段は、それぞれスモールビジネスとして展開して、複数持つという戦略です。そうすることで大当たりはなくても、まとまった金額になります。難易度もぐっと下がるので、成功させやすくなります。

 しかも複数収入源を持つことで、一つが頓挫しても他でカバーすることが可能となり、リスクヘッジにもなります。これが将来の生存戦略ではないでしょうか?




2025年8月9日土曜日

尊重は強要するのではなく、自分がするもの

 最近、左派陣営やLGBTQ活動家がしきりに他人へ尊重を要求する。面白いことに尊重を叫べば叫ぶほど嫌われていくどころか、自分の矛盾を突かれてダブスタが露見してしまっている。その結果、いつまで経っても自分の思惑通りにことが進まず、苛立ちから周囲へ当たり散らすようになり、余計に尊重とは真逆の方向に突き進んでしまっている。

 しかも、その結果が自分の間違いに起因しているというのを認めたがらないから、他責しかせず加害してしまい、余計に周囲との軋轢を増やしてどんどん孤立してしまっている。実に愚かとしか言いようがない。

 そもそも左派の連中は大きな間違いを犯している。それは、

 「尊重を他人へ強要すること」

だ。これがどうして間違いなのか左派は全く理解できていないから、間違ったまま突っ走り続けて墓穴を掘る結果になってしまっている。それは2025年の衆院選での開票結果を見れば明らかだ。

 まず一つは、強要という手段をお願いする側がしているというところだ。強要するというのは受けから目線の態度であるが、お願いする側である左派が上からものを言うというのは当たり前の話だが失礼である。あまりに横柄だし、お願いする側がとっていいたいどではないので、周囲が嫌悪感を抱くのは当前のことである。

 もう一つ良くない点は、明らかに他人からしたら心象悪いというのが理解できていないところだ。左派の傾向として思考パターンが主観的、感情的、自閉的で、対人スキルや論理的推論を苦手とする人が多い。これは支持者に障害者を多く含むもしくは取り込んできたため、発達障害や精神障害の有病率が高いからだ。この手の人々は客観視点の理解と習得ができておらず、常に主観でしか(つまり自分視点、自分都合)考えられない。だから、相手の反応を予測することができず、相手に受け入れてもらいやすいよう振る舞うという発想自体がないので、一方的な物言いに終始してしまう。

 しかし、相手からしたら気分のいいものではないから、主張の良し悪しにかかわらず拒絶されるのは当然の結果だ。

 そして何より悪いのは、「尊重は強要するものではなく、自分がするもの」というのがわかっていない点だ。尊重を相手に強要しても、その強要という行為が攻撃性をはらみ敵意を感じるので、決して応じてはくれない。これは悪手でしかない。

 しかし、自分のほうが尊重する、厳密にはお願いする側が最初に相手を尊重するほうはどうだろうか?礼儀に叶っているし、自分のほうから態度を軟化させたことになるので、相手は嫌悪感を抱くどころか好感を持つので、話を聞いてもらうハードルが下がることになる。

 しかも、自分から譲歩しているので、返報性の定理から相手は気を使わせたことに負い目を感じる。ゆえに、こちらの要求を飲むことで50%50%の関係を作ろうとする心理が働くので、快く応じてもらえることが多くなる。

 なので、何か自分の要求を通したいなら、自分のほうが相手を尊重しなければ上手くいかないのだ。

 だからこそ、「尊重は自分がするもの」なのだ。




2025年8月8日金曜日

賢者は最悪に備え想定の範囲内に収める、愚者は最良を夢見て備えず最悪になって絶望する

 私はここで何かと人間は2パターンに分かれるという話をよくしているが、結局根本の違いはここなのではないかというところを今回は突き詰めていく。それは、将来やこれから取り組もうとしていることについてどう見積もっているかだ。ここは結構両極端に出るところで、得られる結果も天と地の差になってしまう。


 愚者は最良を夢見る


 まず愚者から見ていくが、愚者は何かと最も上手くいった場合を想定する傾向にある。少ない労力で、誰からも批判されず、運よく、都合のいいタイミングで、最大の利益を獲得することを望む。傍から見たら、そんな都合のいい話普通あるわけないだろとツッコみたくなるだろうが、いざ自分が当事者になると意外にこれを期待する。

 だが当然のことながら、期待通りにいかない部分が必ず出てくるわけだが、当人はそんなこと想定していないから対策をとっておらず、詰んでしまう。結果、当人としては完璧だったはずの計画が倒れ、立ち行かなくなって頓挫することになる。

 さらに問題なのが、当人としては完璧な計画(周りからしたら杜撰でしかないのだが)を立てたつもりでいるから、自分に間違いがあるとは思っておらず認めたがらない。だから、原因は自分以外にあると考えてしまい、反省なく自己改善に至れない。それゆえ、同じ過ちを繰り返し、挫折の連続になり、ついには自分は何もできないと自己卑下におちいって、人生すらも棒に振ってしまう。


 愚者の間違いは何か?


 ではどこが間違っているのだろうか?一番の根本原因は、「利益の最大化」を狙っているという点だ。

 利益の最大化を達成しようとすると、手間やコストは損失という判断にならざるをえない。なので、少しでも楽したいという衝動に駆られる。そして、楽した分だけ対策が疎かになり、想定外が増え、対処ができず、損失を招いてしまう。

 しかも、より大きな利益を望むとその分だけ成功確率は下がりリスクが高くなるので、大失敗につながりやすい。そこへ無策で挑むと当然リカバリーできず、損失はより大きいものになる。結果、自ら最悪の事態を引き起こして絶望してしまうのだ。


 賢者ほど自分の無能さと運の無さを熟知している


 では反対に賢者はどうなのだろうか?実は以外にも、賢い人ほど自分の能力の限界や無能さをわきまえている。強運など引き寄せる力もないことを重々知っているので、己の勘や運、能力など端から信じていない。だから何事も用心して対策を立て、とかく安全策をとろうとする。

 だから賢者は利益の最大化なんぞ望まないし、そんなものは最初からないものと考えている。その前提だから、ある程度の損失は織り込み済みだし、あらかじめ想定しているから対策も立てるのが当然と思っている。なので、上手くいかない事態におちいっても、あらかじめ立てておいた対策を使うことでリカバリーし、再び進行することができる。


 勘、運、能力をあてにしないこと


 なので、最悪の事態を避けないのなら、勘、運、能力など、不確定要素を盛り込んではならない。それよりも、最悪の事態をシミュレーションし、前もって対策を練ることが後になって効果を表す。災害対策などもそうだが、被害が最少のケースなんぞ想定しないだろう。

 人生においても一緒で、最良のケースよりも最悪のケースを想定しておいた方が、無駄は生まれるかもしれないが、困ることはなくなるだろう。労を惜しまず、最悪に備えることこそが人生を好転させる秘訣である。




2025年8月3日日曜日

メンタルを病む人ほど普通を気にする

 メンタルの疾患や障害を持っている人の発言で、「普通は~と言われた」とか「普通になろうと頑張ってきた」とか「普通の人生を歩みたい」とかというのをしばしば見かける。公の場所では「一人一人の個性を認めよう」とか、「本当の自分」とか、「自分らしさ」とか言っておきながら、実社会では普通を気にしていて、普通にこだわり、普通になりたがり、普通の枠に入りたがろうとする。

 大体人間というものは、本音と建前を持っている。公の場では誰しも自分を取り繕うものだから、本音は言わず建前やいい格好しいをしてしまう。だから、そこでの発言は本音ではなく、カムフラージュするための仮面でしかない。だから本当は個性など出したくないし、自分らしさなどよくわからないし、むしろ控えたいとすら感じているだろう。むしろふとした時や負の感情を伴った時に出た「普通になりたい」「普通がいい」が、本音なのだろう。

 そもそも障害を持っていること自体普通から逸脱しており、かなり特殊な状態である。彼らにとってはそんな特殊な状況のほうがデフォルトになっているので、特性の強い今のほうが日常過ぎてもううんざりなのかもしれない。そんな人にとって「普通」は、高嶺の花に見えてしまうだろう。

 ただ中には薬や心理療法の力で障害を低減させた人が、世間一般の「普通」を体験してあまりのつまらなさとドラマ性の無さに辟易して、障害の有る状態へ戻りたがるケースもあるという。「普通」であるがゆえに没個性的になるのは必然でわかり切っているのだが、どうも障害者はデメリットを考慮できずいいとこしか目に入らないから、「普通」に対するイメージが都合のいい幻想におちいりがちだ。

 その結果、彼らの思う「普通」も世間一般の「普通」とはかけ離れたものになり、ズレた行動として現れ、「普通」になれないジレンマが再燃する。

 結局、「普通」を追いかけること自体が無意味で、自分にとって何ももたらさないのだ。それよりも「普通でない」自分をどう扱うかのほうが重要だ。「普通でない」自分の取説を作り、それを愚直にこなすほうが生産的である。なぜなら、「普通」には実体がないのだから。


2025年8月2日土曜日

勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし。

 人生の教訓として私が大切にしている言葉として、「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし。」というのがある。これは野球ファンなら知っている人が多いだろうが、野村克也氏の言葉である。

 野村克也氏といえば、現役時代には南海ホークスの捕手・強打者として活躍し、引退後はヤクルトスワローズの監督としてID野球を武器に捕手の古田敦也氏を育て優勝に導き、楽天イーグルスへ移籍後も田中将大投手を育てた名手として知られる。まあ、沙知代夫人との掛け合いやボヤキでも有名になり、バラエティー番組でも引っ張りだこだったが、選手としても監督としても実績を作っただけに確信めいたものがあったのだろう。

 そんな勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし。」という言葉だが、これは野球に限らず、仕事、人間関係、メンタル、家計、勉強、生活など、恐らく全てのことに言えるのではないだろうか。


 仕事や商売では


 例えば、販売業なんかでもたまにバズって特定の商品がバカ売れすることがあるが、そういうのはなかなか売れた原因を特定するのは難しく、偶然のケースも多々見られる。徐々に売り上げを伸ばした場合でも、複数のアプローチをしているせいでどれが売り上げに貢献しているのかは判然とせず、結果的に複数のアプローチの相乗効果という漠然とした論拠のない結論に終わることが多い(しかも、その結論が正しいとは証明されていないので、違っていることが結構ある)。

 これに対し売れない原因を特定するのは可能である。例えば、商品の互換形式を書いてないとか、従来品との比較がないとか、そもそも商品知識がないとか、ITに消極的とか、具体的に列挙することができる。

 さらに、具体的に列挙することで精神論ではない現実的かつ具体的な施策を打つことができるため、結果に結びつきやすく、施策前後のデータも取れるので、成果を数字で追うこともできる。




 健康やメンタルの面では


 健康やメンタルなんかもそうだ。健康な時というのは、誰も何も要因なんぞ考えもせず、のんきに暮らしているだろう。ふと考えたとしても、結果的にアレが健康につながっているのかもなと結果論で推測しているだけで、本当のところどうなのか特定しようがない。

 反対に病気の時やメンタルが悪化した時は、まず要因を特定できる。夜更かししている、SNSばかり見ている、食事に気を使っていない、生活のサイクルが不規則、薄着だった、人ごみの多いところへ行った、偏った認知をしている、無いものねだり(ダブルバインド)をしている・・・などなど、特定の具体的な行動に起因するからだ。

 そこをちゃんと決断して、止めないといけないものは止める、直さなければならないものは直すことで、健康やメンタルの安定を取り戻すことができる。


 成功より、同じ失敗をしないことが大事


 このことから、成功を目指すのは雲をつかむようなものなので、何をしてよいのか誰にもわからない。それよりも、同じ失敗をしないようにするのは確実にできる。失敗を減らせばその分損失が減るので、相対的に得する割合が増え、結果的に成功したのと同じ状態になる。

 しかも、成功には特定の要因はないので再現性がないからノウハウに結びつかず、一時の栄華で終わってしまうが、失敗を修正するのはノウハウやスキルに結びつくので再現性があり、永続的に好循環を生み出すことができる。

 ゆえに失敗した原因を特定し修正する能力を身につけることが、人生最大の秘訣と言えよう。


#精神 #メンタル #仕事 #ビジネス #投資 #野球





2025年8月1日金曜日

成功者と落伍者 ー 明暗の差は?

 世の中には、上手く社会の中でやっている人とトラブルが絶えない人、成功している人と落ちこぼれている人、好かれている人と嫌われている人など、明暗の分かれた二つのタイプの人がいる。この両者には、どういった差があるのだろうか?そして、明暗がどうしてついてしまうのだろうか?


 両者の考え方・マインドの違い


 さて両者の違いだが、そもそもベースとなる考え方、いわゆるマインドに明確な違いがある。結構正反対の関係になっているので、表にしてみる。


成功者落伍者
性格
自主的・自発的
行動
受動的・追随的
意欲的・積極的
チャレンジ
消極的・回避的
計画的
人生設計
衝動的
安定型
精神
激情型or不安型
幅広い・好奇心旺盛
興味
狭い・興味が薄い
複雑なもの
好み
単純なもの
フラット
マインド
極端なポジティブorネガティブ
しない
嫉妬
する
自立的
自立性
依存的
受容
アドバイス
拒否
あまりしない
期待
過剰にする
適切・肯定的
自己評価
低い・卑下
少ない
こだわり
多い
柔軟
融通
頑固
続く・地道
根気
飽き性
一旦考える
誘惑
すぐ負ける
頭脳
深い
思考力
浅い
論理的
思考パターン
好き嫌い
多角的・客観的
視点
自閉的・主観的
未来志向
志向性
今のことしか視野にない
重視
科学への信頼
信じない
入れない
不確定要素
入れる
現実論
論派
理想論
する・好き
勉強
しない・嫌い
仕事
高い・自責
責任感
低い・他責
主体的・精力的
取り組み姿勢
嫌々・渋々
高い
労働意欲
低い
臨機応変
対処・対策
ワンパターン
少ない・こだわらない
求職条件
多い・こだわる
頭脳労働
好みの職種
単純労働
挑戦的
スタンス
守備的
何もしないこと
恐れの対象
失敗を恐れる
前もってやる
面倒ごと
先延ばしする
総合的
判断の基準
自分の経験しか信じない
金銭
稼ぐ・運用する
お金を得る方法
恵んでもらう・たかる
几帳面
管理
杜撰
投資
使う目的
消費
節約・計画的
買い物
派手・衝動的
とる
リスク
とらない

 ざっとこんな感じで挙げてみた。まだまだあるだろうがキリがないので、この辺にしておく。


 総合すると


 さてこれを見てどんなことに気付くだろうか。総合すると成功者は現実的に将来を考えてキチンと「自己管理」をしているのに対して、落伍者は今にしか目がなく衝動と回避行動に終始していることから「感情優位」なのがわかる。

 ただ、これだけ様々な面で差が出てしまうと貧富や精神年齢の差が大きくなるのも当然だろう。しかも、それを自分の判断で行っているのだから、自分に「100%」責任はないとは決して言えない。自分で選択できたり変えられたりできた部分が皆無ではないし、その点に関してちゃんと自分で改善していれば違った結果になっていたわけだから、きちんと取り組んでいかなくては明るい未来はない。


 では何をどうすればいいのか


 改善が必要なのはわかった。なら、何をすればいいんだということだが、大局的なことをいうとたくさんの経験を積んでできることを増やしていくことだ。

 そうなると、上手くいかない人に限って極端な行動に出がちなので、あれもこれもと欲張って手を出して、結局どれも中途半端になって経験にならないという結果におちいりやすい。しかも、発達障害などを持っている人も結構いるだろうから、尚のことそれは上手くいかないだろう。

 なので、必ず心得ておかなければならないのが、「千里の道も一歩より」だ。つまり、一つずつやるということだ。地道過ぎて飽きてしまうという人が多いだろうが、そうしないと身につかない。

 それに、これには目的がある。それは、

 習慣化だ!

 習慣化してしまうと、最善の方法を意識せずできるようになるので、負担が少なくなってストレスもたまりにくくなる。脳や精神にも余裕が生まれるので安定するし、余裕がある分だけ他のことにも取り組むことができるようになるので、経験やスキルを積み重ねることができるようになる。

 そうやってできることが増えてくれば自信がついて自己肯定もできるようになるので、随分と生きやすくなるだろう。そうすればさらに新たなことにも目を向けられるようになるから、人生が楽しく豊かになるはずだ。

 そのためにも、何か改善しようと思ったら一つに絞ったほうがいい。そうすればハードルも下がるし、負担も小さいから達成しやすくなるだろう。自然にできるようになったら次へ移るを繰り返せば、気付いた時にはいろいろなことがすでにできるようになっているだろうし、より大きなことにも取り組めるようになっているはずだ。

 なので、一つずつ習慣化していくことが成功と改善の秘訣としてやってみよう。