2025年6月25日水曜日

自分が思ったら差別という考えの危険性

 極左や極端なリベラル層から時々発せられる台詞に、「自分が差別と思ったら差別」というのがある。朝田理論ともいわれる思考パターンなのだが、要約すると差別かどうかの判断基準は受け手個人にのみ起因するので、自分が差別と思ったら全て差別としてよろしいということだ。

 だが、多くの人もわかると思うが、その思考には重大な問題が潜んでいる。ここではその問題点について追及する。


問題点① 冤罪を容認することになる


 「自分が差別と思ったら差別」という基準でいった場合、自分が差別であると受け取ったら全て差別としてよいということになるので、それが例え事実誤認や人違い、精神疾患からくる幻覚妄想など、自分に誤りがあり事実無根の場合であっても、本人は被害感覚があるので差別と判定してよいということになる。

 それどころか、自分が思ったかどうかという主観一点のみを判断基準としてしまうと、腹の内は誰にも見えないだけに、相手を陥れるために簡単に悪用することができてしまう。これは冤罪に他ならず、決して認めていい行為ではない。実際、群馬県草津町においてセクハラを行ったとして草津町長を訴えるという事件があったが、容疑者の町長が事実無根であることを証明し、訴えた町議による虚偽であったことが判明した。

 このように
「自分が差別と思ったら差別」というのは、言いがかりや名誉棄損に用いることができるため、倫理上はっきり間違っている。


問題点② 差別かどうかは個人が勝手に判断する権限はない


 この朝田理論を持ち出す人は、個人の独断で差別のレッテルを貼る人が非常に多い。しかし、差別かどうかを判定するために法廷という場がちゃんと用意されており、法廷がある以上法律に則って判断しなくてはならないので、個人が独断で判断するのは違法である。

 なので、「自分が差別と思ったら差別」という理屈は日本の法律上認められておらず、必ず法廷を通して判断を仰がなくてはならない。


問題点③ 名誉棄損で自分のほうが有罪になる場合がある


 上記の①②にあたる場合、差別のレッテルを貼られた方は名誉を毀損されているので、当然報復措置として名誉回復の訴えを起こすことになるでしょう。事前に冤罪であるとの判決が出ていれば、間違いなく自分には名誉棄損で有罪判決が出るので、損害賠償をしなくてはならなくなる。より悪質な場合は執行猶予付きではあるものの実刑判決も出て、前科もついてしまう危険性もある。


問題点④ そもそも失礼極まりない


 そもそもの話、自分個人の基準で独断で相手に対して差別だなどと言うこと自体、失礼極まりないことだ。差別のレッテルを貼る行為は、相手の地位や名誉、人格をおとしめる効果があるし、それ自体が攻撃になりうるのでやって良い行為ではない。

 それだけではなく、周りで見聞きしている不特定多数の人間もそれを見ていい気分ではないので、褒められた考えではない。


問題点⑤ 独善的な人間になって精神の成長が止まり、敵も増える


 人によっては自分にとって耳の痛い話も差別と受け取ってしまう人もいるので、そういう人に「自分が差別と思ったら差別」を許してしまうとイエスマンの話しか聞かなくなり、他人の忠告やアドバイスを無視してしまう。

 それでは精神の成長が止まってしまい、社会性が身につかず、自分思い通りにいかなかった時の対処ができず、大人げない態度に出てしまいかねない。そうなると周囲は面倒なので距離を置くどころか、④のこともあって自ら敵を量産することになる。

 さらに問題なのは、そこで本人はより一層被害者ポジションに入り込んでしまい、負のスパイラルに陥ってしまうことだ。そうなると社会との摩擦や軋轢、亀裂はより深いものとなり、修復不可能になってしまう。それでは誰にとっても得はなく、不幸にしかならない。



 それにしても、


原因① 謙虚さが無い


 とかくこの手の人は、態度が横柄である。所見では腰が低かったとしても、ふとしたことからボロが出て、自分が王様かのような振る舞いを見せる。

 何でも自分の思い通りに人を操りたがり、少しでも気に入らないことがあれば食ってかかる。そこには正常な対人関係など存在せず、支配と服従の関係しかない。だからこそポジションを強く意識する人格が形成される。


原因② 素直じゃない


 原因①があって、素直になることができない。素直になるのは無意識に相手への服従と感じるので、屈辱感と恥ずかしさが込み上げ、強烈な抵抗感が生まれるからだ。この感情自体は誰しも持っているもので特段おかしくはないが、大人になるにつれて人間関係保持のためにこれに抗って沈静化させていく。

 しかし原因①があると落差が大きくなるので、より屈辱感と羞恥心が増大し折れることへの恐怖心のほうが勝ってしまう。結果素直になれず、いわゆる嫌なヤツになってしまう。


原因③ 間違いを認めず、謝るのが怖い


 そして今度は原因②が元となって、謝ること、間違いを認めることに極度の嫌悪感や恐怖心を抱くようになる。そんな姿や行動を無様だと思い込んでしまい、抵抗感を増幅してしまう。結果めでたく謝ったら死ぬ病発症となる。


原因④ 自分に間違いはないことにしたい


 さらに原因③から逃れるために、自分は間違っていないと言い張ろうとする。その際はなりふり構っていられないので、手段を選ぶことが無く、悪事であっても躊躇なくやってしまう。より嫌なヤツを強化することになる。


原因⑤ 自分を守ることに無駄に必死過ぎて、盲目になっている


 結局こういう人は自分を守ることに、必要以上に必死になりすぎるのである。過剰に防衛的になると常にファイティングポーズをとらなくてはならなくなり、結果いつも恐怖心にさいなまれ、とげとげした人間になってしまう。

 そうなるともはや盲目になって周りが見えなくなり、声も聞こえなくなる。せっかくの忠告も入ってこないし、なぜ周りから浮いて孤立しているのかも客観的に捉えられなくなる。それゆえ主観のみの世界、自分の感情のみのでのジャッジしかできなくなり、独善的で身勝手な自分が誕生する。


最大の原因 現実のショボい自分を受け入れられない


 そもそもの根本原因をいうと、現実のショボい自分を受け入れられないことにある。高い理想化された自分を描きすぎていて、そことのギャップが激しすぎるがゆえに現実の自分を否定せざるをえなくなるのだ。

 だが本当は人間なんて所詮動物に過ぎず、誰しもがショボいのは当たり前である。当たり前ということはちゃんと人並みの地位にはいるので心配ないのだが、本人はより崇高なのが人並みだと勘違いしているので、ショボいのを受け入れられない。

 だからこれを否定しようと必死になって悪あがきしてしまい、かえって自分の品位を落としてしまい自分の不甲斐なさを体感せざるをえなくなる。そしてまた自己否定をすることになり、無限ループにおちいってしまう。

 自分の人生を少しでも良いものにしたかったら、ショボい自分を認めないことには始まらない。というか、ショボくていいんだ!

2025年6月18日水曜日

生きずらいと言う人は、物事への捉え方が間違っている

 ここ近年、メンタル関連の話となると、「生きづらい」というワードを見聞きすることが多くなった。しかも、かつては特定の障害や機能不全家庭の問題を抱えていて、生活するのが困難な状況におちいっているケースに用いられていたが、ここ最近は自分にとって都合の悪いことや面倒なこと、誰もが経験する乗り越えなければならないハードルにまで言う人が増えた。

 お陰で生きずらいというワードがカジュアル化してしまい、やらなければならないことを避けるための恰好の言い訳に使われ、陳腐なものに感じるようになってしまった。

 ただそうやって何でも生きづらい生きづらいばかり言っているだけでは何も変わらないし、それを人に吐露して聞いてもらって慰めてもらっても一時の気休めにしかならず、一人になった時にはまた元に戻り、悲観に終始するだけである。大体こういうタイプの人は不幸だという割に前へ進む気が一切なく、常にこのサイクルを繰り返しているだけで、いつまで経っても進展がない。

 挙句の果てには社会が悪い、政治が悪い、会社が悪いと、他者批判ばかりするようになってしまう。私からすれば、そんな巨大コミュニティを批判できるほど大それたことをあなたは成し遂げてきたのかと言いたくなるのだが、本人はそんなこと考えもせず、本気で環境や境遇が悪いと思い込んでいる。

 だが、実際にはそこに逃げ込んでいるというのが正しいだろう。ハッキリ言うが、そんなことをしていても自分の人生には一片の変化もないので良くならない。むしろ落ちこぼれていくだけで、事態は悪化の一途をたどる。そして、その選択をしているのは社会ではなく、紛れもなく自分自身に他ならない。

 なので、どうしてこういう思考におちいるのか。そして、いかにしてこの不幸のサイクルから抜け出すか、考察する。


そもそも物事の捉え方が間違っている


 何かにつけ生きづらいと言う人は、物事の捉え方にいくつか共通した傾向がある。それが典型的なドツボにはまるパターンであることが多いのだが、知識や経験、推理力の欠如から本人は気づいていないどころか、それが正攻法だと信じてしまっている。

 だが、ちゃんと結果を出せている人やメンタルヘルスの職種に就いている人からすると、明らかに上手くいかないとわかるパターンは存在する。そんな生きづらいという人にありがちなパターンを紹介する。


① 予測や目標に期待値や不確定要素を入れ、都合のいいケースを前提とする


 これ結構やりがちだと思う。例えば、宝くじの一等があたったらとか、あの人が助けてくれたらとか、不安材料が無くなったらとか、自分にとって都合のいいことを列挙して、それが全て叶うのを前提にしたり、絶対視したりするなどだ。全て自分に都合よく順風満帆にことが運ぶパーフェクトな状況なんてのは、万に一つも無いのに。

 ちょっと計算すればわかるが、大概のことは二択なので確率は大体50%だろう(概算の話なので細かいことは省く)。分岐点が二か所だったら、パーフェクトの確立は25%になります。三か所だったら12.5%、四カ所だったら6.25%・・・。このように自分に都合よく全て上手くいく確率はどんどん低くなり、限りなく0%に近づく。

 なので、パーフェクトに行くことはまずないし、必ず思い通りにいかないことは出てくる。しかし、パーフェクトを前提にしているから、対策をとっていない。結果行き詰まってしまい、上手くいかない事例がどんどん増え、自己評価が下がり続け、貧することになる。


② 表面的なこと(肩書、所属、人物など)にこだわって、内容の確認や計算をしない


 もしかしたら本人は気づいていないかもしれないが、何かの確認や論拠として肩書きや所属、人物に基準を置いているタイプの人がいる。これも上手くいかないという人がやる、典型的なパターンだ。例えば、○○大学の○○教授が言っていたとか、○○省の官僚がとか、有名な○○さんが断言してたとかだ。

 これがなぜ生きずらくなるかというと、内容の検証をしていないからだ。いくら立派な肩書きを持っていようと、有名な会社や役所に所属していようと、相手も所詮人間なので専門外の部分や思慮が及んでいない部分が存在する。ケアレスミスをしていることもあるだろうし、知識が豊富ではあるものの机上の空論である場合も考えうる。それゆえにつじつまが合っていなかったり、論理的に成り立っていなかったりする場合も多々ある。

 しかし、肩書きや所属、人物を論拠にするとその人に対する先入観や雰囲気というテーマとは無関係のところで判断してしまうため、内容の検証がなされないまま鵜呑みにしてしまう。加えて内容そのものを聞いていないので知識も深まらず、騙されやすくなってしまう。

 結果こういう人は、「こういってたのに、騙された」だの、「アイツを信じてたのに、全然言った通りになってない」だのと騒ぐことになる。


③ うまい話や詐欺に引っかかりやすくなったり、甘い誘惑に負けやすくなったりする


 先の①②が原因で起こるさらなる副産物として、うまい話や詐欺に引っかかりやすいという傾向が見られる。というのも、こういう話は自分にとって理想的で、リスクや負担がなく欲しいものが最大限手に入ることを装うからだ。これは生きづらいと言う人の価値観であるノーリスク・ハイリターンに合致するため、魅力的かつ安全に見えてしまう。

 しかも、誰が言ったか、どの団体が証明したかというところに判断基準を置いていて、内容の整合性を自分で検証しないもしくは最初からあきらめているから、簡単に信じてしまう。

 しかし、そんなうまい話はない。というのも、そういうものは収支バランスがとれておらず採算が合っていなかったり、未来予測において確率論的に100%なものは無いため断言はできないはずなのに相手は断言していたりと、嘘や矛盾が含まれているからだ。もしあったら、みんなやって、みんな得して、ウィンウィンになっているはずである。


④ 困難や都合の悪い時の考え方が悲観的→思考停止


 人間生きていると無数に困難や壁が立ちはだかる。この時にそれをどう捉えるかでその後の展開は変わるのだが、生きづらいと言う人はこの時の物事の捉え方に不得手さが目立つ。自分は頭が悪いからわからないとか、不器用だから自分にはできないとかならまだかわいいが、周りが悪い、社会が悪い、政治が悪いとかまでいくと申し訳ないが痛い人である。

 現実では困難がその後の人生の糧になることが多々あるし、壁を乗り越えないと得られないものも多数ある。資格、スキル、学力、経歴、信用、資産、障害の克服、実績など枚挙にいとまがない。これらのものは勉強やトレーニングが必要だったり、長年かかったりするものばかりだが、生きづらいと言う人はそれをネガティブに捉えて、邪魔なもの無駄なもの出来ないものと判断してあきらめたり、切り捨てたりする。

 それだけならまだしも、人生にいいことなんて何もないと考え、生ける屍になる者すらいる。そうやって悲観的になり、思考も行動止めてしまう。それは自分で生きづらくしていると言える。


⑤ 興味を持てるかどうかではなく、柄に合うかどうかで捉えがち


 この手の人は自分に対してネガティブなイメージを描いており、その上そのイメージ通りに振る舞おうとする。そのため、アカデミックな物事やインテリジェンスな世界は自分の柄に合わないと思っている節があり、周りが快く迎え入れようと思っても避けてしまう。自分が浮いていないかが最大の関心事なので、ネガティブな自分像を持っている人からしたらどこへ行っても場違いな感じがしてならないし、そのことで頭がいっぱいで興味関心に割くリソースがないのだろう。


⑥ 失敗続きなのに、自分の感覚を絶対視する


 そうやって好ましくない判断や失敗続きの行動をとり続けているにもかかわらず、それを改善すべく軌道修正することにはしつこく反発する。失敗を認めてネガティブな感情に襲われるのが怖いのもあるだろうし、敗北感を抱きたくないのもあるだろう。

 とかくこの手の人は感情のウエイトが大きすぎるのと、ネガティブな感情の受け流し方が上手くないため、それを感じたくないために自分を絶対視してしまう。その結果、より失敗が大きくなり、さらなる大きな挫折になってしまうのも生きづらさにつながるだろう。


生きやすくなる秘訣は?結構自分次第でどうにでもなる


 ならどうすればいいか?簡単に言えばこの逆をやればいいということだが、もう少しちゃんと言うと、

①予測や目標に不確定要素は入れない。むしろ最悪を想定し、あらかじめ対策をとる。
②誰が言ったかではなく、つじつまが合うか、抜け落ちがないか内容で判断する。
③上手い話はないということを、いい加減受け入れる。それは誘惑だと気づけ。
④困難は悪いものとは限らない。むしろそれを乗り越えたところにご褒美がある。
⑤柄に合うか気にしてもメリットはない。むしろ興味があるか、必要かのほうが大切。
⑥失敗続きの状態で判断しても同じ結果になる。素直に相手のアドバイスに従う。

ということになる。もっと簡単に言えば、背伸びをせず、困難から逃げるのを止め、素直になることである。

 すべてを一気にできるようになるのは難しいので、一つ一つ習慣化して無意識にでもできるようになると、生きづらさが段階的に減っていき辛さが無くなるだろう。



2025年6月13日金曜日

精神障害者は真面目?

 よく精神科やカウンセリングの業界で、精神障害者には真面目な人が多いと言う人がいる。最近はこの言説が独り歩きして、自分を正当化するのに使う人もいる。

 だが実際に精神科へ通っている、もしくは何らかの診断を受けているという人を見ると、社会的に問題のある発言をしたり、自己本位な考えをしていたりするのをよく見る。そのせいで人から嫌われて孤立している、度々対人トラブルを起こして騒動になる、生活がすさんで引きこもっているなんてことを見聞きすることが少なくない。

 はたして精神障害者が真面目とは本当なのだろうか?それにしては実態が真逆ではないか。ならば真実を解き明かしたい。


精神科における診断基準とは


 内科で扱う疾患、例えばインフルエンザとか麻疹などの感染症では、検体を採取して検査機器にかけて特定の印が現れるかどうかで判定する。外科の場合は、骨が折れているかどうかレントゲン写真やMRI画像に写っているかで判定される。このように一般的な診療科の場合、問診やだけに頼らず、検査や目視などの物理もしくは数値を判定基準とする。

 それはなぜかというと、一つに患者がわかるのは症状のみで、原因まで自分ではわからないから。二つ目に同じような症状を表す疾患や怪我が複数存在しているので、問診だけでは特定できないから。三つ目に研究によって原因を突き止められるようになり(いわゆるエビデンスが存在する)、それを視覚的に判別できる検査方法を編み出したから。

 なので、内科や外科などの一般的な診療科の診断は、大抵原因に対して診断を下す。だからインフルエンザも麻疹も骨折も神経断裂も原因を表しているし、反対に発熱、咳、痛み、外傷などは症状なので、この症状に診断を下すことはシステム上ない。

 しかし精神科においてはそうではない。脳の研究がほとんど進んでおらず、症状の原因が脳のどこにあるのか全く特定できていないため、検査法すらないから問診だけに頼るしかない。
もっというと、患者の発言や思考、行動パターンを分類して疾患名をつけたので、要は症状に対して診断を下しているのだ。

 なのでよく精神障害者で、これができないのは発達障害が原因だとか、気分障害があるから落ち込みやすいという言い方をする人がよくいるが、発達障害も気分障害も症状であって原因は未解明なので言語的におかしいとわかる。


精神障害は過剰な行為に対して診断を下す


 ただ何をもって障害とするのかだが、これは約2%に入るくらい症状(極端または異常な思考、発言、行動)や社会との乖離、摩擦が強いかで決まる。というか、その比率になるように精神医学界が設定している。

 そこには社会的に問題ある行為に及ぶケースも含まれるし、その場合はより症状が重いとして診断が下りやすくなる。


性格と症状とを明確には分けられない


 そしてこういう精神の話となると性格も問われるが、正直性格がどうであろうと異常があれば診断されるのが精神科である。性格と症状を明確に分ける手段がないし、支障があれば診断を下すのがセオリーだからだ。なので、極端だったり、問題があったりするれば、性格から来ていたとしても診断されうるし、診断された時点で精神障害者である。


トラブルになっているから精神障害と診断される


 ここで一旦、逆説を考えてみる。真面目で異常がない人だったら、診断は下りるだろうか?真面目だったら人間関係に恵まれるし、極端な考えにはならないし、問題は起こさない。これは問題ない状態なので、精神障害とはならない。

 そもそも問題やトラブルが起こっているから診断されるので、診断されているということは何らかの問題があるということだ。素直になれない、好き嫌いが激しい、強烈な執着がある、承認欲求が強い、融通が利かない、自分本位、計画性がない、感情をコントロールしない、協調性がない、ルールや指示を守らない、ご都合主義、目先の損得に惑わされる、ゼロ百思考、忍耐力がない、他者依存、他責思考などなど精神障害によく見られる傾向を挙げればキリがないが、およそ真面目とは真逆の社会的に問題視される要素ばかりである。

 これらの要素を持っていながら真面目とはとても言えず、むしろその有無を加味して診断を下しているので、少なくとも当てはまる≒精神障害傾向ありと判断される。なので当てはまるものが無ければ無いほど健常および定型発達という判断になるので、健常者、定型発達のほうが真面目であると言える。


対人トラブルを起こしやすい精神障害


 精神障害の中には、双極性障害、統合失調症、素行障害、反社会性パーソナリティ障害など、他人に対して何らかの行為に及ぶものもある。しかもこれらは他の障害と併存していることもしばしばあり、寛解率も他のと比べると低いのも難しいところである。

 それどころか受診率が低い、否認してしまうという問題もあり、なかなか医療に結び付けられていない問題もある。

 その他、極端な行為に及ぶ者もおり、ここまで行くと確実に健常者として扱えず、障害者の診断になってしまう。


未診断=健常者とは限らない


 診断されていないから健常というふうに考える人もよく見るが、そもそも精神科を受診していない人がほとんどなので、確認をとっていないだけで潜在的には精神障害者であるケースも存在しうる。というか、このケースの方が実際には多いのではないかと思われる。


精神障害=真面目はどこから来たか


 となると、精神障害者は真面目という言説はどこから来たのかというのが気になるところだ。考えられるところは、こんなところだろう。


① 精神障害者のメンツ・防衛機制から


 まず可能性が高いのは、精神障害者が自身のメンツを守るために防衛機制が働いて、叫んでいるケースだ。特に精神障害者は自身のメンツやイメージ悪化に対して非常に敏感で、反論したがる人が多い。加えて支援者がそれに同調し発信するため、ロビー活動などによって拡散される。

 さらにそのためなら手段を選ばない人も一部いるため、周囲を委縮させて反論できなくさせ、言論統制を図って流布するケースも見られなくない。


② 語彙・ボキャブラリーの不足および誤用


 日常生活において語彙の不足や誤用は頻繁に発生するので、この件においても起こっても何ら不思議はない。しかも精神障害者だけでなく、医師自身も人間である以上、気付かずに起こしていることも少なくない。

 実際、精神障害において真面目と言われる要素は、むしろ鵜呑み、直情的、形式的、一義的、頑固、意固地、一面的、表面的、馬鹿正直、向こう見ずな面を持っており、社会的に褒められる要素はあまりない。それからすると真面目という言葉の本意からはずれており、誤用であると言える。


まとめ


 以上のことから、真面目で素行がよく社会適応できているなら、社会的に問題がないので健常者である。そこから外れれば外れるほど障害者として診断される。よって精神障害者は真面目とは言えず、むしろその逆で問題があるからこそ精神障害者として診断されている。ゆえに精神障害者は真面目だというのは嘘であるというのが真実だ。



2025年6月10日火曜日

あなたのいう差別、本当は嫉妬では?

 世の中には、何かにつけ差別と言いたがる人がいる。特に自分が持っていないものを他人に見つけたり、他人との格差を感じたりした時に差別だと言う。人間みんな境遇、生き様、選択が違うので差異があるのは当たり前なのに、それがどうも認められなくて差別のせいにし勝手に憤慨する。

 そもそも自分個人の価値観と裁量で相手に向かって差別だというのは、価値観の押し付けであると同時に、相手の名誉や信用を不当に貶める行為でしかなく、一個人が独断で判断していいことではない。それどころか司法にしか判断の権限を認められていないので、法廷の場で尚且つ裁判官であることが条件であり、個人が勝手に差別だと言って相手を罵るのは越権行為であると同時に、法律違反にもなりうる。

 にもかかわらず、何かにつけ他人との違いに差別と言って攻撃するのは尋常の精神ではなく、これに執着するのは何か特殊な深層心理があると考えられる。今回はこのことについて、深く見ていく。


そもそも違うのが人間


 その前に大事な前提として、誰一人として同じ人間はいないということだ。例えDNAが同一である一卵性双生児であったとしても、髪型、シワ、老化の進度、指紋など、どこかしら身体に一致しない部分は生じてしまうし、学校のテストの点数や仕事場での配属、家事育児のタイミングなど生活面でも一致しない所は出てきてしまう。それだけ同一の人間というのは存在しないのだから差異があるのは当然で、それを操作しようなどというのは不可能である。


差異を認めたくない人=他人より損したくない人


 にもかかわらず、その差異を認めたくないという人がいる。常に他人と比較して少しでも劣っていたり、取り分が少なかったりするとすぐ差別に結びつけてしまう。本当は陰で相手はトレーニングを積んでいたり、遊ぶ時間を削って勉強をしていたりしているからこそ差異が生まれているのに、そんなところは見向きもせず、結果だけを見てズルいと言う。

 しかもこういう人は自分が生まれつきリードしていることに関しては、相手の実力不足だと言い放って切り捨てる。

 結局、こういう人は自分が損することに敏感で、その嫉妬心から受け入れられないのだ。だからチャレンジや努力も面倒だし、プレッシャーがかかって損した気になるので、やろうとしない。そしてそれに対する自己弁護として、「差別」「自分は恵まれなかった」という言葉をすぐ持ち出したがる。


人のことを言う前に、人間性を身につけるのが先


 自分はそれだけ人間的に成長できておらず未熟なままなのに、他人のことを差別だと言って罵ったり、非難したりするのは、どの口が言ってるんだという話だ。相手は多くの苦労と経験を積んで大人の道を二歩も三歩も先を進んでいるというのに。その差が開いているのは自分が己を磨くのを怠ったからで、決してそれを相手のせいにしてはならない。

 それどころか差別だを言って罵るのは、相手をおとしめる行為で悪逆非道に他ならない。人間は嫉妬に駆られるとこういうところが見えなくなるし、そうなったが最後精神のコントロールを失って衝動の権化になってしまう。

 そうならないためにも常に自分を戒める必要があるし、人のことを言う前に自分自身の人間性を高めることのほうが何より重要である。



2025年5月13日火曜日

左派と右派の対照表

 最近、左派と右派の対立が大きくなってきているが、そもそも両者は何が違うのか。漠然としたイメージだとわかりずらいと思うので、主な「傾向」を分析し表にしてみた。


左派右派
政治・経済
スタンスリベラル保守
経済の主義共産主義資本主義
政治の主義社会主義民主主義
思想の主義理想主義現実主義
異論への対応異論を認めず異論も自由に
理想の政府大きい政府小さい政府
最重要政策福祉経済
異論認めないあるのは当然
排他対象異なる主義主張秩序を乱す人
権利強く欲する
無条件で得られる
資格やリテラシーが必要
義務とセット
最適化個別最適全体最適
採算度外視身の丈に合わせる
目標設定実数度外視実数の最大化
目的のブレ手段の目的化を起こす目的がブレない
ダブスタ頻発矛盾を嫌う
アカデミー
テクノロジーうとい得意
理科学うとい得意
知識欲低い高い
勉強苦手得意
リテラシー情弱インテリ
論拠思ったかどうかエビデンス
興味の幅狭い広い
分析苦手得意
性格
マインド固定成長
態度感情的理性的
思考パターン先入観論理的
不都合に対して嫌悪・悲観的課題・対策を練る
忍耐力ない強い
義理軽薄堅い
メンタル不安定安定
柔軟性ないある
誘惑簡単に負ける対策をとる
精神の成熟度幼い大人
他人を見てレッテルを貼る分析する
本心臆病平常
欲求欲深い質素
思考力浅い深い
欲望のディテール完璧主義未完成でもよい
大きく見せるが本当は小さい小さいように見えて内心は大きい
陰謀論信じる信じない
ウソウソも方便ウソが嫌い
話の筋嫌い通す
人間に対する価値観素晴らしいもの不完全
フォーカスシングルフォーカスマルチ
メンツ・体面重要どうでもいい
他人への興味ないある
物事の捉え方ネガティブフラット
判断軸
優先基準安心・楽・省力合理性・成功率重視
判断間違う的確
決断力優柔不断ある
他者の介在独断了解を取り付け
目標設定短期的長期的
視野目先広い
判断基準損得勘定秩序
妥協できずに固執できる
スピリチュアル信じやすい信じてない
社会性
責任感ないある
責任の所在他責・多罰自己責任
協調性低い高い
ルール・約束破る守る
一般社会常識知らない身につける
基本姿勢防衛・威嚇温和
対人関係受け身使い分ける
議論苦手得意
コミュニティでの姿勢閉鎖的・支配的ある程度は放任
自己変容自己変容を嫌うから
他人を変えようとする
自身で柔軟に対応
獲得手法タダでもらう・奪うギブアンドテイク
タイプテイカーマッチャ―
視点主観しかない俯瞰的
TPO考えない合わせる
自他境界ないある
自他の優先度自己都合重視調和重視
将来シミュレーション後先考えられない重視
シミュレーション精度よく外す的中率高い
悪評の取り扱い隠蔽改善につなげる
集団つるみたがる一匹狼
因果関係理解できないすぐ理解
自分の世界観自分しかいない他人やコミュニティがある
周囲視野に入らない視野に入れる
仕事
労働意欲嫌々高い
仕事とプライベート不明確クッキリ分ける
仕事のスタイル好み重視効率重視
仕事の価値観楽しさ成果主義
評価軸過程重視結果重視
仕事内容選り好みする選ばない
積極性消極的積極的
応用力あまりないある
対応後手先手
取り組みサボる何としてでもやる
苦手・嫌いな仕事避けるあるのは当然
準備しない前もってやる
スピード遅い速い
スキル高めないアップさせる
向上心低い高い
面倒ごと匙を投げるコツコツと継続
利益への観念少ないリスク<利益の最大化応分のリスク=利益の等価交換
結果大きいリスク>少ない利益一定のリスク<利益の増加
昇進・評価低いままアップする
ストイック自分に甘いストイック
アドバイス拒否活用
些細なこといちいち気にして止まる進行優先で気にしてられない
判断基準経験知恵
仕事のし方我流を通す工夫する
生活・収入
生活スタンス依存自立
貧富貧困層が多い安定収入
収入に対する観念もらうもの稼ぐもの
行動パターン衝動的計画的
手間面倒くさがるまめ
消費浪費無駄づかいしない
家計綱渡り堅実
貯蓄ほぼない貯蓄・運用
自己管理しないちゃんとする
生活スタイル不健康健康的
時間不規則・守れない規則的・守る
生活保護取得者多い少ない
将来悲観するだけ前もって対策

 こうして表にすると、左派は人として痛いと思われるタイプが多い。それは受け入れられるどころか、むしろ警戒される。

 まだまだありそうだが、随時加筆する。



2025年5月10日土曜日

MMTは日本にとって命取り

 ここ近年、MMT(Modern Monetary Theory 現代貨幣理論)を押す人々が多く目につく。これを押しているのは、福祉拡充や生活保障など大きな政府を求める左派の人に多い。たとえ一人一人のコストは高くなかったとしても、福祉や生活保障は庶民を対象とするため人数が多く、合算するととてつもない金額になってしまう。当然、どうやって多額の資金を工面するかという問題が出てくるので、その策としてMMTを主張するのだ。

 しかし普通に考えたら、そんな上手い話あるか?と疑問に思うだろう。そこで今回は、MMTの中身と実体、成否について解説する。


MMTとは何か


 そこでMMTとは何かを知らないと始まらないので、これについてまずは説明する。これは現代とは名が付いているものの、それほど新しい概念ではない。前からあったと言えばあった。それが、近年また掘り起こされたというのが経緯だ。

 で、その中身だが、これは政策ではなく債券をどう解釈するかという楽観的予測のようなものだ。つまりこれ自体が何か対策になるというものではなく、むしろ現状維持をするための方便と捉えるのが正しい。

 詳しく説明すると、MMTの理屈では日本のような国の場合、国立印刷局や造幣局があるのだから、国債の返済に税金を充てるのではなく、新たに発行(印刷・製造)した貨幣で返済すればいくらでも無限に借金できるし、財政破綻も起きないという理論だ。そう、財政破綻は起きないという楽観的な推察を説明しているだけで、何か新たに政策を実施するという話ではないのだ。

 これをちょっと小難しく熱を込めて力説するので、マネーリテラシーのない将来を考えない怠惰な庶民がまんまと引っかかってしまって、もっと国債を発行することを安易に支持してしまっている。


MMTの問題点


 ではこのMMTにおいて、問題点や見逃している点はないのだろうか?実はこれが、山ほどある。一つ一つ見ていこう。


①実体経済が伴わない


 MMTの場合、お金を増やす方法が造幣局での貨幣の製造なので、市場経済から生み出されたものではない。さらにそのお金を国債の返済に充てるのだから、そのお金は市場には流れない。

 結果、何の経済波及効果ももたらさないので、市民生活に好循環は生まれず、停滞の一途をこのまま辿るだけである。


②通貨の信用が下がり、国際取引で使用できなくなる


 経済活動によって生み出されたお金ではなく、ただ製造しただけで流通させたとなれば、日本円に経済実態が伴わないことになるので、世界三大通貨と言われるほどの高い信用と価値を一気に失う。

 そうなれば、価値のない円建てで決済するのは危険だと市場は判断するので、おのずと円の使用は敬遠され、国際取引で用いられなくなる。結果、国際市場での円の流通量は減ってしまう。


③円の国際的信用が落ちることで輸出業が打撃を受ける


 そして、日本円の国際的信用が落ちることで一番打撃を受けるのが、日本の主要産業である輸出製造業だ。トヨタ、ホンダ、任天堂、日立、川崎重工業など、海外にも販路を持つ主要企業が決算する際に、円に換金するのをためらわざるをえなくなり、ひいてはこれらの企業の経済活動の足を引っ張ることになる。

 そうなれば、業績にも多大に影響を及ぼし、さらなる不景気と大幅な税収減少を引き起こすのは馬鹿でもわかるはずだ。


④税収減少を補てんするために、さらに増税+国債発行


 税収が減るとなると、その足りない分をどうにかして補てんしないと社会システムを維持できない。そのためには、さらなる増税なり新たな国債発行なりしなくてはならない。増税すれば市民生活が危ぶまれるし、国債発行だと悪循環におちいる。


国債の発行数が増えるので信用格付が落ち、金利が上がる


 結局MMTは、今まで通り大量に国債を発行しましょうという話なので、発行数は増える一方である。上記のことも考えると、むしろそのペースは増加することも考えうる。

 そうなると格付会社はその点を査定するので、ただでさえ下げ止まりしない日本国債のランクがさらに下がることになる。ランクが下がった分、信用を失うので国債の買い手がつかなくなり、投資家の気を引くためにさらに金利を上げざるをえなくなる。

 金利を上げるとその分、利子の支払いが増えるので何の行政サービスにもつながらないただの支出も増えることになり、財政を圧迫することにつながる。


⑥BBBランクを下回ると、買い手がまずつかない


 今現在日本国債の信用格付は、海外の格付会社の場合AAもしくはA+で、G7中イタリアに次いで低い水準にまで達している。金融市場において債権の信用格付はBBBまでが安全とされているが、A+まできているとなるとAの次はいよいよBBBなので、これはもはや危険水域でしかない。

 そしてBBBを下回ると、市場のルールとして投資対象として不適格との判定がなされるので、国債の買い手がつかなくなる。結果、国債を発行しても現金化できず、国家予算に組み込めないということになる。


⑦遂には債務不履行(デフォルト)を起こし、全ての行政サービスが停止する


 この行く末だが、国債を発行しても現金化できない以上、資金がショートするので、返済ができなくなる。つまり、債務不履行いわゆるデフォルトになるのだ。

 そうなると大変で、債権者からの取り立てによって借金の返済を最優先にしなくてはならなくなるので、多くの行政サービスに配分していた予算をカットせざるをえない。当然予算カットされるからサービスを維持できず、停止や廃止を余儀なくされる。いわゆる緊縮財政を義務付けられるのだ。


⑧最後、世界経済まで混乱させて世界中のお金が消える


 まだあるのかと思うだろうが、最後の話をする。日本ほどの人口と経済規模を持つ国がデフォルトを起こせば、世界経済にも大打撃を与えるのは想像に難くない。以前ギリシャ危機があったが、あの時にも相当世界経済は混乱し、記録的な株価下落も発生して多くのお金が消失した。G7でもなく、日本より人口も、経済規模も、国家予算も小さい国であるにもかかわらずだ。

 これがほぼ全ての数値で上回る日本でデフォルトが発生したらどうなるだろうか。少なくとも世界において、ギリシャ危機以上の経済損失を招くことは間違いない。そうなると、世界における日本のポジションは失墜し、先進国としての扱いもされず、失われた30年どころの話ではなくなるだろう。


結論:MMTは空想で、高福祉の大きい政府は自滅する


 こうして見るとわかる通り、MMTは一時的に逃げ切れる人が一部だけ生まれはするが、遠からず自滅の道を歩むだけなのだ。とある試算によると、日本は今のペースで行ったら10年後にはデフォルトするとの結果が出ており、もはや新たな借金を作れる国ではないのだ。

 すでに日本でも夕張市がデフォルトを起こしているし、海外を見てもギリシャ危機によって世界経済に大打撃を与えた。これは他人事ではないし、いい加減先延ばしするわけにはいかない喫緊の課題である。

 だからこそ国民一丸となって、経費削減に励み、政府および公費に頼らない自立した生活と収入を早急に作らなければならない。

 手厚い福祉など、言語道断である!




国のお金を食い潰しているのは、政治家、官僚、政党以上に、国民自身

 血税を食い潰すことに対する矛先として政治家、官僚、政党へ向かうというのは、昔からよく見られる。政治資金や報酬、政党助成金として持っていかれていると。もちろん、国家予算の中にそれらの支出が含まれていて帳簿にも記載されているから、支払われていること自体はは事実だ。

 しかしよく考えると、日本の人口1億2300万人に対して政治家や官僚の人数、政党の数を考えると、あまりに微々たるもので、0.1%にも満たない。官僚の年収は2300万円だそうで確かに庶民の10倍ももらっているが、それでも人数分合算したとしても日本の借金の総額1323兆円には遠く足元にも及ばない。

 この1323兆円というとんでもない額をそんな少数の人だけで作るのは、まず不可能である。というか、使いきれない。ということは、この天文学的な額の借金を作ったのは政治家、官僚、政党だというのは素人考えで、明らかに的外れである。この主張に矛盾がある以上、それは間違いである。

 ではこの多額の借金を作った真犯人は誰なのか?

 が問題なのだが、1323兆円を達成しうる条件をピックアップすると見えてくるだろう。

①大人数である
②大票田
③不可侵の立場
④長期間一定の頻度と金額で受け取れる
⑤公費で受けられる行政サービスの額が大きい

といったところだが、この条件をすべて満たすのは誰かというと、

 高齢者

である。

①については、2024年9月15日現在65歳以上の人口は3625万人で総人口の29.3%を占め過去最多。2042年まで増える予想。
②については、その人口ゆえに大票田で政治家も無視できない。
③高齢者福祉はセンシティブな一面を持つので迂闊に批判できないことと、有権者における最大のグループであるので不可侵。
④払った以上の年金を受給。年金受給額が少ない高齢者は、不足分を生活保護で一生補てん。
⑤医療費はほとんどの高齢者が1割ないし2割負担。透析治療者は実質1割以下に。生活保護受給者は医療費全額公費負担。その他、公共交通や公共施設での割引などのサービスもある自治体も。

 これだけ支出が多かったら、それは借金が増えるわなとなる。

 ここに一般庶民への医療福祉にかかるお金もプラスされるわけだが、庶民は最多数な上に、年収600万円以下の人は納税額よりも受け取るサービスの額のほうが高いので、合算するととんでもない額の赤字となる。

 実際、国家予算の4割が社会保障に使われているし、国民の内9割は庶民なので、高齢者や庶民にかかる医療介護福祉の合計金額は相当なものになる。
このことからわかる通り、1323兆円もの借金を作ったのは、高齢者を中心とした庶民以外にありえないのである。

 なので、庶民に応分の負担を強いらざるをえない。なので各自自分の家計を早急に見直し、キャリアアップや副収入を作らないと生活がもっと立ち行かなくなる。自立しない人に将来はない。



2025年5月9日金曜日

患者に好まれる医者は言いなりになる人で、良い医者ではない

 精神科の分野では特にあるあるだが、ドクターショッピングといって、よく自分の気に入る医者に出会えるまで病院を転々と変え、渡り歩く人がいる。主治医が定まらないし、その度に仕切り直しをしなくてはならないし、治療方針が一貫しなくて継続できないし、その間には精神疾患がどんどん悪化するしで、良い事は何もないのだが、どうしても一定数こういう人は生じてしまう。

 こういう人はなぜドクターショッピングをしてしまうのか。それは、

 自分にとって常に都合のいい対応をしてほしいから

 そしてそれを叶えるためには、必然的にこういう医者を選ぶことになる。それは、

 自分の言いなりになる人

である。別の言い方をするとイエスマンで、自分の要望を何でも思い通りに聞いてくれて、逆らわない人である。確かにこの手の人は患者にとって安心安全を提供してくれるので、楽ではある。

 だが、言いなりになる医者は一見自分の言うことを聞いてくれる理解者のように思えるが、決して良い医者ではない。では、なぜ良くないかを説明する。


①素人である患者に権限を明け渡す


 治療について法律上、権限を持つのは唯一医者である。例え患者でも、ここに立ち入ることは認められていない。それは医学的知識の有無を試験によって公的に証明されているのが医者だけで、だからこそ医者にしか信用がないからである。

 にもかかわらず言いなりになるということは、実質的に患者へ権限を明け渡すこととなり、法律上医者にしか認められていない決定を無資格者が行うという違法行為と立場の逆転につながる。


②治療にならない


 さらに素人であるがゆえに、患者の求めが医学的に正しくなかったり、節度を越えていたりすることも多々あり、患者のためにならないのも問題である。制止しなければならない所でも黙認したり、患者にとって良くない結果を招くとわかっていても止めなかったりすることで、事態を悪化させうるので危険である。


③精神的成長がない


 疾患や障害を克服するためには、精神的成長が欠かせない。年齢を積み重ねるにしたがって自立していかないと生活できないし、社会の中で立ち回るのに適した処世術が必要になるからだ。それらは勝手には身につかないので、心構えやトレーニングが必要である。

 しかも人生は常に山あり谷ありで良いことばかりではなく、楽なほうを選ぶと手にできないもの、苦難を経ないと手に入らないものが必ずある。だからこそ自分にとって痛いことも受け入れていかないと思い描く方向へ進んでいかないので、自分の人生が上手くいかなくなり八方塞がりになる。

 しかし自分が苦しまない楽で安心できる居心地いい、いわゆる言いなりになる医者を好んでいると、必ず乗り越えなくてはならない自分の課題から目を逸らすことができてしまうので、課題解決が先延ばしになり精神的成長が遅れてしまう。それは社会との認知の差が拡大して生活を困難にするばかりか、疾患や障害の固着を招き治療不可能になったり、症状がさらに悪化して隔離せざるを得なくなる。

 そんな医者はむしろ火に油を注いでいるので、患者にとっても家族にとっても、まして社会にとっても害悪でしかない。


良薬は口に苦しの通り、良い医者ほど厳しい一面を持つ


 昔の人はよく言ったもので、「良薬は口に苦し」の通り甘く優しいものが必ずしも良いとは限らない。むしろ苦く苦しいものでも良いことなら受け入れないと改善しない。それがわかっているからこそ、良い医者ほど厳しい一面を持つ。

 例えば胃痛を起こしている患者に胃薬(大抵苦みがある)を飲ませなかったら、胃痛が治まらないばかりか胃炎から胃潰瘍に発展し病状が悪化してしまうだろう。下手したら入院、手術も必要になる場合もある。ならば胃薬の苦みを我慢しないといけない。

 このように解決を図ろうと思えば、何か他の苦しみと引き換えにしないと手に入らない。精神の患者にはどんな苦しみも受け入れたくない、苦労をしないで欲しいものを手に入れたいというダブルバインドやる人が非常に多い。でもそんな矛盾した都合のいいものは論理的に成立しないので、この世に永久に存在しないし、作り出せない。なので、必然的に選択肢は、

 A 厳しさを受け入れて自分を改め、目的を果たす
 B 楽を得る代わりに目的をあきらめ、取り残される

の二択になる。

 Cの楽しながら目的を果たし、しかも取り残されないは間違ってもない。人間は元来怠惰なもので、そんな甘い条件だと簡単に挫折するからだ。しかも知識も経験もスキルも不十分で、実践で役に立たない。だからこそ上手くいっている人ほど、あえて厳しさの方を選ぶのだ。

 結論、自分にとって優しいだけの言いなりになる医者を選んではいけない。厳しいことも言える医者こそ実績があるし、名医である。



2025年5月6日火曜日

権利=タダという意味ではない

 よく左翼的価値観を持っている人は、権利はただで手に入るもので、平等の観点からそうあるべきと主張する。大人としての良識を持つ成熟した人からしたら、あまりに単純で無責任で安易な思慮の浅い幼い考え方だというのがわかるのだが、左翼は学習とシミュレーション能力が弱いせいか権利の意味とそれが持つ責任がわからないようだ。

 そこでここでは、権利について詳しく説明する。


権利とは何か?


 大体、何かにつけ権利、権利と叫ぶくせに、権利の意味がわからないというのはおかしな話だ。明らかに自分の利害という一側面だけでしか捉えていないし、自分視点、つまり主観しか頭にないという点で人格形成における未成熟さを露わにしている。あまりに視野と見識が狭く、閉鎖的で利己的である。

 まず前提として、権利とは社会や人間関係の中でしか生まれない概念である。なぜなら自分一人の世界なら権利を主張する必要がないからで、自分や仲間の利害だけでは権利は成り立たない。異なる利害を持つその他大勢との兼ね合いや、社会全体の効率や採算など様々な調整が必要になるので、一人の人間や一つのグループのみの価値観だけで決めていいものでは決してない。

 さらに、権利という語彙上の意味としては、

①権勢と利益。
②【法】一定の利益を主張し、受けることを法律が一定の資格者に認めた力。
③ある事をしてよい、またはしなくてよいという資格。↔義務
(参照:旺文社国語辞典改定新版)

とある。


②【法】一定の利益を主張し、受けることを法律が一定の資格者に認めた力。


 まず重要なのが、②である。【法】とある通り、法律上の規定があるということだ。なので、これを踏み越える行為や主張はしてはならないことを意味する。

 さらに、一定という言葉が2回も使われている通り、無制限ではなく、制約や限度があるということが明記されている。

 そして資格者とある。つまり、社会との関係から誰でもいいというわけではなく、ちゃんと必要なルールを理解し、それに即した行動をとれると認められた人でないといけないと規定している。そしてルールを問われる際には責任をとれるかどうかも問われるので、自分の利害を求めるだけではだめで、伴って発生したトラブルに対して責任を果せるかどうかも義務付けている。


③ある事をしてよい、またはしなくてよいという資格。↔義務


 もう一つ考えなくてはならないのは、③の末尾にある「資格。↔義務」の部分である。↔の記号は対義語を表しているので、義務とは反対の意味を持つことを示している。

 ということは、義務と引き換えであることを意味しており、資格を喪失した場合は義務を果たさなくてはならない。

 つまり、

権利はタダではなくて、権利=ルール+責任⇔義務と引き換え


 である。


なぜ左翼は権利=タダと考えてしまうのか?


 ここで疑問になるのが、なぜ左翼は権利をタダで手に入れるものと考えてしまうかだ。そこで確認しないといけないのが、支持層だ。

 左翼の支持層は主に、障害者、不法滞在者、生活保護受給者、LGBTなどのいわゆるマイノリティとされている人々、その中でも特に極端な思考を持っている人が中心だ。この極端な考え方をする性質があるため、シングルフォーカスの特性が出てしまい自分の利害しか目が行かないという現象を引き起こしてしまう。

 さらにこれらの人々は、同時に精神疾患や神経発達の遅れ(いわゆる発達障害)を抱えていることも多いことが知られている。

 それゆえに考え方が幼く、年相応ではない(精神科において、発達障害者は実年齢に対し精神の成熟度が2/3~1/2程度と目している)ため、大人としての考え方やモラルが身についておらず、自己中心的な発言や行動、態度に出やすい。これは自他の境界線が大人になっても出来上がっていないのと、他者視点を持てないことによって他人の権利や利害を侵害していることに興味がなく、わからないからである。

 これによって他者との関わりがあって初めて成り立つルールやモラルというものにも関心も理解もなく、自分の利害しか目に入らないから、「権利=タダ」という世間一般の社会倫理から逸脱した思考を持ってしまう。

 彼らが手にするべきは権利ではなく、

 年相応の社会規範である



2025年5月3日土曜日

「経験が全て」は頭打ちになる

 世の中には他人のアドバイスを一切受け付けず、一向に我流や経験しか重んじない人がいる。好ましくない結果や損失を招いていても、頑なに方法を変えようとせず、さらに事態を悪化させてしまう。それは本人にとっても決して望ましいことではないはずなのに、それでも必死に我流を通そうとする。

 そんな態度では当然人が離れるから、どんどん協力や支援が得られなくなる。あまりの融通の利かなさに最後には孤立して、万事休するのがオチだ。

 大体、我流にしても経験にしても、様々な限界があることに本人は気づいていない、もしくはそれすら受け入れようとしない。なぜ経験のみに頼ると限界を迎えるのか?それによってどんな弊害が起こるのかを紹介する。

①時間がかかり、経験できることの数に限界がある

 当たり前のことだが、人間は永遠には生きられない。必ず寿命があるし、それどころか年を取ると体にガタが来るから、もっと早い段階でリタイアをせざるを得なくなる。20歳前後で社会へ出て、60代で引退するところを見ると、経験を積める期間は半世紀もない。

 しかも、経験して身をもって確認し、そこから何のためらいもなく自然にできるようになるまでには、かなりの時間と労力がかかる。これを毎回やっていたら、一生のうちにマスターできることなんて指折り数えきれるほどしかない。

②選択肢や手段が限られて、臨機応変にできなくなる

 ①の理由で、当然できることが少なくなってしまうので、いかなる場面でも自分が採れる選択肢や手段が限られてしまい、臨機応変に動けなくなる。そりゃそうだ、引き出しが少なすぎて、事態に相応しい解決手段を持っていないのだから。

 人生において常に必要となるのが臨機応変さなのだが、そのためには引き出しが多くないと対処する術を見つけることができないから、ゲームオーバーになってしまう。

③経験は所詮過去にしか基づいていないので、未経験の事態に対処できない

 経験というのは「過去」に自分が体験したことなので、経験を判断基準にするとなると、過去に自分が体験したことと同じ物事にしか対処できないということになる。

 ということは、未経験の事態に関しては手段を持たないから、何もできずに終わることを意味し、その結果損失を被ってしまう。

勉強をし、アドバイスを受け入れる器がある人が上手くいく

 実際に人と上手くやれたり、仕事で実績を残せたり、試験の成績がよかったりする人は、ちゃんと勉強して他人から知識を吸収しているし、アドバイスも素直に聞くから他人からの受けが良く贔屓してもらいやすい。

 さらに、回り道をしないで済むから効率が良く、早く大量にいろいろなことを身につけることができるから、選択肢が多くなって引き出しが増える。その結果、臨機応変さもおのずと出てくるし、できることも増えるから未来を狭めなくて済む。

 経験のみにしがみつかないで、他人の知恵を借りることがいかに人生で重要か、再考できたら未来が開けるだろう。



患者や当事者は所詮専門家ではないし、真実を言わない

 日本において、患者の家族だったり、福祉に関わる初心者だっただりする人が、話を伺う相手としてよく他の患者や家族を選ぶ。本人に聞くのが一番だろう、当事者が一番知っているはずだという考えからの選択だと思うが、ちょっと立ち止まって考えて欲しい。本当に本人だった詳しいのだろうか?果たして本当に、当事者は包み隠さず洗いざらい話しているだろうか?そこに矛盾はないだろうか?

患者や当事者も医者ではないから素人考え

 まず前提の話として、患者や当事者家族に専門知識はない。それは当然である。なぜならほとんどの人は、「専門医」の認定はおろか「医師免許」すら持っていないから。それゆえに彼らの考えは主観や感覚、憶測が中心で、的を射ない素人考えにしかならない。

 もっと言えば、自分は何がわかってないのかすら自分で解明できていないからこそ障害とされているわけだから、本人だってわかりませんと答えるか、当てずっぽうで答えるかにしかならない。ゆえに、こっちが欲しい適切な情報を提供することはできないので参考にならないどころか、間違ったことやデマを伝えられてしまう危険性のほうが圧倒的に高い。

 そもそも医学的な知識を踏まえているという確証はないし、それに納得できているかもわからないし、専門知識を学習するだけの能力を持っているとも限らない。つまり、地雷の要素が山ほどあるのだ。場合によっては、医者とは真逆のことを言う可能性もあるので、話を聞く相手としては適切ではない。

患者や当事者であるがゆえに利害がある

 この利害という点についても見逃せないだろう。医師であれば本人でも家族でもない第三者なので、自分の人生やメンツ、プライド、体裁に係わらないから、どんな知識や情報でも提供することに抵抗がない。

 しかし、こと患者や家族となれば話は別である。メンツ、プライド、体裁、利害に直接係わるので、自分の都合の悪いことは話さなかったり、嘘をついたり、話を逸らしたりする。人間には回避行動と言って自分が不利になる行為を避けようとする習性があるので、都合の悪いことまで素直に話す人は稀である。

 それゆえに患者や当事者、家族は、最も真実を語らない部類の人間といえる。彼らにとって真実を語るのは、危険極まりないことだからだ。

深刻な問題ほど綺麗事では語れない

 だが本当のところ、精神疾患や発達障害、知能のような複雑で深刻な問題については、綺麗事で語れないことのほうが圧倒的に多い。「個性」で片付くものでもないし、「みんな違って、みんないい」と言うならなんで生活や仕事に支障があるのかって話にもなる。もっと言うなら改善しないで生活できるなら、障害とは言わないし。

 そういう活動家や自助グループがよく使う聞こえのいい当たり障りのないキャッチフレーズは、問題から目を逸らすわ、具体性がなくて実際にどうしたらいいという問いの答えになってないし、気休めにしかならないしで、実用的ではない。障害者にも才能があるだの、できることを伸ばしていこうだの、というのもよくセリフだが、それだけで済むんだったらとっくに社会に溶け込んでいるはずだ。

 実際にはトラブルメーカーとなりうる部分が人よりも多いからこういう状態になっているわけで、そこをいかに制御するかも考えないと社会ではどうしてもやっていけない。歯の浮くことばかり言う人は心理的安全性を与えてくれるが、そういう人は相手にショックを与えまいとして耳の痛いことを言うのを避けるために、一番大事なことを教えてくれないので要注意である。

そもそも医学に関係することは医師と研究者にしか決定権がない

 そしてこれはそもそも論の話になるが、医学に関係する物事は医師にしか決定権がないということについても知っておかなくてはならない。というのも、医師法という法律があって、医師以外の人が断定することを固く禁じている。これは患者であってもそうで、だからこそ患者や当事者も勝手な憶測や医科学に乗っ取らない主観のみの物言いというのも推奨されない。

 特に障害受容ができていないと医師の判断に反したことを言うので、うっかり当事者の話だからといって聞いて信じてしまうとキケンである。

矛盾や論理の破綻がないかを疑うことが大事

 なので本当に情報が欲しいと思ったら、患者、当事者や家族に話を聞いてはならない。所詮素人だし、利害に応じて話を変えてしまったり、医師や研究者の指導に従っておらず勝手なことをやっている場合が多々あるからだ。

 さらにその話が真実かどうか見極めるには、綺麗事ばかり言っていないかと、矛盾や論理の破綻がないかで判断できる。つまり消去法で判断するのだ。なぜ消去法かというと、真実かどうかを判断するのは難しいからだ。高度な実験を伴うエビデンスが必要だったり、人間誰でも主観が混ざって完全に客観的な判断をくだすことができなかったりするからだ。

 これに対して、嘘や綺麗事、デマ、勘違いを見破るのは簡単である。相手の矛盾点や論理の破綻があれば証明できるからだ。

 患者や当事者から話を聞きたいというのは、自分の中の決めつけ、固定観念であるし、単なる自己満足でしかなく、本人のためではないということに気付かねばならない。

正しい知識は、免許を持っている人か科学者に聞くしかない

 結局のところ医学が関わる以上、余程のインテリでない限り、素人ごときが医学に即したまともな情報や知識を提供することはない。それは患者や当事者も例外ではなく、当人だからと言って正しいという証拠にはならない。

 むしろ障害であるがゆえ、利害が絡むゆえ、所詮素人であるがゆえ、医学に乗っ取らない間違った情報を伝える可能性のほうが大である。ちゃんと知識を得たいのなら、

 ①医師、研究者を頼ること
 ②患者や当事者の話を聞きたがるのは、自己満足であると心得ること
 ③情報に矛盾や論理の破綻がないか確認すること

を守ることが必須である。



2025年4月29日火曜日

すねかじり根性の国民

 ここのところ、よく年金が少ないから金をくれ、高額医療を受けたいから金をくれ、障害者だから金をくれ、仕事できないから金をくれ、資産運用やる気がないから金をくれ、年寄でデジタル化に消極的だから金をかけろなど、実にたくさんの理由で多くの人が公金を欲しがる姿を見る。

 私からしたら、「他人のお金なのに、よくもまあこんなにたかるもんだ」「こんなに多くの人がたかったら、限りあるお金が尽きるのがわからないのだろうか?」と思うのだが、これらの人はそんなのお構いなしだ。

 実は所得に関係なく、年老いて死ぬまでの生活資金を自分で工面するのは経済的にそんなに難しいことではない。それどころか方法論も確立していて、その通りにやればまず失敗も避けることができる。

 にもかかわらず、多くの国民がそこには目もくれず、公金のみを当てにし浪費している。その姿はまるで芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のようだ。

 ではなぜこの人達のように、人間はこういった情けない行為をしてしまうのだろうか?その謎について紐解いていく。

細かい無駄使いが多く無計画

 前提としてお金に余裕があれば、他人にたかる必要はない。逆にお金をくれということは、貯蓄がないというのを自分で暴露しているわけだ。

 で、お金が貯まらない理由でありがちなのが、単価の安い無駄使いが多いというもの。タバコ、お酒、ギャンブルはあるあるで、菓子、自販機の飲料、服、おもちゃ、外食、ビニール傘、買い食い、グッズ代もあるし、最近だとネトゲの課金、スパチャ、投げ銭のようなネット系の出費もある。これが一つだけならまだしも、気付かぬうちに複数やっていることがしばしばなため、お金が貯まらない。

 そしてなぜこういった出費に気付かないかというと、お金の使い方に計画性が無く、衝動的に物を買ったり、課金したりしているからだ。つまり、お金の使い方に制限やルールを決めていないのです。そうなると出費に対してルーズになり、細かい無駄使いほど気付かなくなってしまうのだ。

依存的なマインド

 この手の人達は、自分の面倒は行政が見るべきと考えている。子供の頃は親が面倒を見てくれていたが、そこから親離れし自立して自分で生活基盤を整えるのではなく、親から行政へ依存相手を変えることで子供時代のマインドを引きずってしまう。

 漠然と誰かが何とかしてくれるだろうというバイアスにはまっていて、将来について具体的かつ真剣に考えておらず、漫然としているからどうしても財布の紐もゆるくなりがちで、先述の無駄な出費も増えてしまう。

ネガティブなものから目を逸らす

 それどころか将来のことを考えてネガティブになるのを嫌がって、見ないようにすらする。そしてそこから逃げるべく行政に泣きつくのだが、さすがに行政だって全員は救えない。行政へ救いを求めるのは泥船である。

 もちろんネガティブなことを考えるのはストレスを感じるし、億劫ではある。しかしこれは自分の将来にとって大事なことで、やらなくていいことではない。そこに目を向けた人はきちんと整えてられているので、できないことではない。ネガティブなことから目を逸らすのは、将来の生活の放棄である。

自分本位で、全体を見ていない

 基本、この手の人は全体を俯瞰してみることがない。自分以外に同じように行政を当てにしている人はいるのか、それが人口のほとんどだったらどうなのか、それを合計したらいくらになるのか、自分の考えは本当に成り立つのか、という視点がまずない。自分にお金がない→行政が建て替えろ、という自分都合の枠内だけで考えてしまっている。

 行政だって金のなる木ではないし、無限にお金を持っているわけではない。さらに言うと、振り分けねばならない先は多岐にわたり、教育、育児、医療介護、インフラ、産業育成、科学学術、技術開発、外交、防災、国防、通信、公安など、例を挙げればキリがない。なので国民の生活費まで面倒を見るなど、普通に考えてあまりに経費が膨大になりすぎて不可能である。このことがわからないというのが実におかしい。

要は甘く見るな、自立しろということ

 結論、安定した生活を送るのはそんなに簡単ではないということだ。人生は常にサバイバルで甘い考えに囚われると、途端に立ち行かなくかる。そのためにも用心と事前準備が必要だし、それは一日二日でできるものではないから、計画的に少しずつコツコツ貯えるしかない。

 他人は自分の思い通りにはならないので、本当に頼れるのは自分しかいない。よって甘さを捨て、自立するのが一番確実で、安全策である。そのために、いかに目先の誘惑に惑わされないよう対策を練るか、自分でできることを増やすか、自分の取り分ではなく皆のことも考えられるか、自分改革が今求められている。



2025年4月22日火曜日

失敗する人=耳の痛い話や不都合な真実を受けつけない人

 世の中には失敗を繰り返す人がいる。転職を繰り返したり、精神疾患の再発を繰り返したり、友達関係が長続きしなかったり、ギャンブル・お酒・たばこ・薬物・ODを止められなかったりなどなど・・・。酷い人だと、夜逃げを繰り返したり、浪費を繰り返して貧困におちいったり、素行が悪くて人々から見放されたりして、自ら身を落として荒んだ人生になってしまう人も少なくない。

逃げ癖のある人が失敗を繰り返す

 こういった人の傾向や共通点はいくつかあるが、その一つに耳の痛い話や不都合な真実など自分にとってネガティブなことを、嫌だという感情だけで拒否してしまうという点が挙げられる。具体的には、本人には必要な厳しいアドバイスや忠告であったり、変えようのない科学的エビデンスのある事実であったり、自分が犯した罪や責任であったり。

 人間、堕落せず、日陰者にならず、自立した大人になる上で欠かせないハードルが必ずいくつか現れ、そのハードルは苦しかったり恥ずかしかったり面倒だったりと楽ではなく厳しいのもだが、失敗を繰り返してしまう人は自分にかかる労力や恥や厳しさから逃避することを選んでしまう

 その癖欲求は人一倍あるので、楽だが確率がほぼ0%の手段or手っ取り早いが悪どい手段or計計画性のない刹那的な浪費に手を染めてしまう。

逃げた分に応じて不幸が待っている

 それで実際に得をしているかというと、そうはなっていない。その場の恐怖やストレス、プレッシャーからは逃れられはしたが、その代償を大きく受けている。貯えが無くて生活苦におちいり食事すらままならなくなっていたり、信用を失い誰からも見放されて孤独死していたり、警察のお世話になり精神科へ措置入院させられ出られなくなったりする人までいる。

「良薬は口に苦し」と「上手い話には裏がある」

 結局、社会へ出て無事に生活しようと思ったら、耳の痛い話は聞けるようにならないといけないのだ。いつまでもイヤイヤ期の幼児と同じ状態をいい大人が続けるのは見ていて痛いし、周囲から呆れられて距離を置かれるだけだ。

 昔の人は良くいったもので、「良薬は口に苦し」の通り自分のためになることというのは、苦痛を伴うものである。だがその苦痛は乗り越えれば消える一時的なもので、避ければ避けるほど永続的に苦痛が大きくなる。反対に上手い話や都合のいい話など存在せず、その代償は一生ものになることが多い。

 だからこそ素直に人のアドバイスや忠告を聞く器の大きさを持たなければならないし、不都合な真実をもみ消すようなことはしてはならない。むしろそこから自己改善のヒントを得て、人として成長するのがあるべき姿だ。