2025年9月27日土曜日

富裕層で親の代から裕福だったのは、意外と50%しかいない

 実は大変意外なことだが、現富裕層で親の代から裕福だった人は50%しかいないらしい。よく巷では親ガチャだことの、裕福な人間はすでに生まれた時から家が豊かだったというのがまことしやかに言われているが、実は当てはまる人は半分しかなく、生まれで決まる訳ではないということが証明されてしまった。(出典:ポルシェの営業マンになる方法 富裕層ビジネスのターゲットとなる親リッチとは

 ということは、いくら親や祖父母がお金持ちだったとしても、半数はそこから陥落している。反対にその空席を埋めるべく、そこからのし上がっていった人も同数いるということに他ならない。つまり、金持ちの家に生まれようが否かにかかわらず、どちらに転ぶか確率は半々で自分次第であるということだ。

 よって、人生は親ガチャで決まるというのは全く裏付けのない完全なるデマで、何でもあきらめの早い人や怠惰な人が望まぬ結果になったことを正当化するために、言い訳しているということに他ならない。


 できない理由を並べると自分の動きを止める


 人間、能力がないからできないと考えがちだが、実際にはできないと思っているがゆえに本当にできないよう振る舞ってしまうという現象が起こる。それは脳が労力を避けるためにそう仕向けているのだが、本能や生物学的習性として働いているので、自分にはその認識がなく気付かない。なので、このループにはまると全てのことに対して億劫になるので一切行動を起こさなくなり、自分の人生や成長を止めてしまう。

 だからこそ、親ガチャのせいにしても何も好転しないし、その考えを捨てないことには始まらない。統計で見ても親リッチと自分の人生に相関性がないのだから、それを理由にするのは親への責任転嫁でしかないし、何より自分自身をだましていることに他ならない。幸福になりたい、収入が欲しいというのであるなら、生まれではなく自分が何をしたらいいのかにフォーカスしよう!

2025年9月26日金曜日

普段から自分が上下で人をジャッジしているから、無関係なことまで差別に見える

 ここ近年、左翼を中心にして言いがかりでしかない差別非難が過熱している。それも尋常ではないくらいヒステリックに、自分の感情をコントロールできなくなるくらい猛り狂ったような非難だ。その様子を見て、あまりの狂気ぶりに一般の人がドン引きするどころか、同じカテゴリーの人ですら同類と思われたくないと毛嫌いしている程だ。

 そんなことをすれば増々自ら敵を作って孤立無援になるのは明らかなのに、彼らは盲目になっているのでそれでも止めようとはしない。むしろ、お仲間だけで固まって変に結束力を強め、より閉鎖的になろうとしている。その行為は、傍から見てあまりに奇異で、正気の沙汰ではない。

 そこでここでは、彼らの深層にあるものを探っていく。


 人は興味のないものには目くじらを立てない


 人間、興味のないことには無反応になるものだ。関心のないことにはどうでもよいと思うので、どっちの結果になっても構わないからだ。だから、興味のないことにはわざわざ目くじらを立てない。


 どんなものも差別に見えるということは、いつも上下で考えているということ


 反対に目くじらを立てているということは、差別に興味関心があるということになる。そして、自分も普段から上下で人をジャッジするのが習慣になっており、その前提に立っているということだ。

 つまりどれも差別に見えるということは、どんなものにも上下が存在すると思っているわけで、その人は普段から人間関係を上下で判断していることがわかる。このことから、本人に差別意識があると言える。


 差別なんぞ人間ごときが簡単に判断していいものではない


 そもそもの話、ことあるごとに差別だと言って他人を攻撃するのも、自分個人の解釈で勝手にジャッジし、相手の人格を否定しているので無礼である。そんな無礼なことをするという点においても、言っている本人のほうが差別意識を持っていることの何よりの証だ。

 大体人間は神様ではないので人間関係の見極めなんぞ簡単にはできないし、裁判官ですら迷うものだ。それに司法にしか判断する権限が無いので、一個人に差別か否か判定する権限はないので越権行為でこれは法にも反する。それだけやってはならないことを侵している以上、差別を叫ぶ側のほうが差別をしているのだ。

 よって、差別を連呼する人間ほど差別をしている大罪人であることを自覚せねばならない。




2025年9月23日火曜日

アドバイスに従えない人の2つの理由

 人間なかなか他人のアドバイスには、容易に従えないものだ。ただ、相手のこともあるから、大抵の人は多少試みてはみるだろう。

 しかし世の中には、全く従いたくないという人もいる。とにかくアドバイスを反射的に跳ね除けてしまい、一切受け付けないという態度を何に対してもとる人がいる。アドバイスが自分にとって有益であったり、自己改善を迫られていたりしていても、頑なに拒否をする。

 その理由は大きく分けて2通りあると考えられる。


 恐怖心から尻込みしてできない


 まあ、よくありがちなのは尻込みしてしまうパターンだろう。自分を変える時や新しいことを始める時というのは、恐怖心が先立つものだ。先が読めない分リスクマネジメントもできないから、失敗する可能性が出てきてしまう。これは本能からくる防衛反応にも関係するので、仕方ない部分がある。

 ただ、このケースはいろいろなシチュエーションを経験し、その度に工夫をしていけば引き出しが増えるので段々と落ち着いてきて、アドバイスをすんなり受け入れられるようになる可能性はあるから希望は持てる。


 相手の言った通りの結果になるのが「癪」


 問題はもう一つのほうだ。それは、相手の言った通りになったら「癪」なので、やりたくないというパターンだ。こう考える人は、

 相手の言った通りの結果になったら
   ▼
 自分のほうが間違い
   ▼
 自分の負け
   ▼
 屈辱を味わいたくない
   ▼
 アドバイスを避ける

という思考パターンを持っている。このタイプは羞恥心や敵対心を強く持っているため、自分の間違いが証明される事態は恥と捉えるので、絶対に避ける。だから素直に聞くことができないのだ。


 今の感情は、未来の自分を邪魔している


 ただ、今感じている感情に囚われるのは、自分にとって利益にならない。行動を抑制するのでチャレンジや改善につながらない。結果、周りは時の経過とともに変化しているのに、自分だけが変わらず成長しないまま老いてしまう。そのいきつく先は、孤立に他ならない。それは自分で自分の未来を反故にしているようなもので、あまりに愚かだ。

 アドバイスを聞いてやってみるのも、未来のためには必要なプロセスだ。癪だからやらないという判断はあまりに幼稚だし、自分の選択を相手の判断に委ねてしまっているし、何より相手はもちろんのこと自分に対しても不誠実である。ちゃんとアドバイスは聞けるようになりたいものだ。




2025年9月21日日曜日

成功は運というより○○

 ここ最近、人生の良し悪しは「運」でしかないという言説をよく見聞きする。親ガチャ、知能、学力、貧富、当落、成否など、全て運で決まるものばかりで、自分の意思で決められるものはないという主張だ。もっと言うと、運は自分では操れない以上、努力しても意味がない。努力しても叶うとは限らないから、無駄で効率が悪いというふうに考えている。

 だが、こういった主張をする人はいくつか誤認をしている。その誤認を信じているために判断を間違えて失敗を繰り返し、よりこの考えに傾倒して負の無限ループにはまってしまっている。

 そこでここでは、本当に運だけで決まるのか、運は変えられないのか、努力は効果がないのかを検証する。


 人生は運が全てなのか?


 まずは全ては運「だけ」で決まるのかということだが、社会的なものに100%はないし、人間には意思があるので、運だけというのはありえない。その証拠に運だけで決まるのなら、何も決断せず、何も行動せず、何も努力しなくても、運を持っている人ならただ待っているだけで何でも手に入るということになる。そんな人いるか、それで生活できるかといったら不可能なので、運だけで決まるというのはありえない。

 このことから、運だけでなく、己の行動によって運命が変わることがわかる。実際、富裕層と呼ばれる人で親がそもそもお金持ちだった割合は約50%しかいないとのこと。残りの半数は裸一貫から資産を作ったわけで、決して親ガチャで貧富が決まるわけではない。裏を返せば、富裕層の子の半数は没落しているということでもあるので、貧富に関しては個人の行動次第であると断言できる。


 運は不変なのか?


 二つ目に運は変えることができないのかということだが、変えられるものは全くないというのは当然言えない。

 例を挙げよう。ネットコンテンツ販売のビジネスを立ち上げたとする。コンテンツ一つだけだったら、ダウンロードされる確率は当然低い。仮に0.1%だとして、もし1000個作ったら確率はその1000個分だから合計で100%になり、何かしら1個は必ず売れることになる。よって確率は人為的に変更できるので、運は変えられるといえる。

 そもそも人は一日に小さいものも含めて約200回自分で決断をしており、それだけの回数自分で将来の変更をしている。つまり、知らず知らずのうちに自分の意思で将来を変えまくっているので、運を変えられないというのは明らかに嘘である。


 努力は効果ないのか?


 運とセットで議論に上がるのが「努力」だ。人生は運で決まる派は、とかく努力は無関係で無意味、意味がないし結果に結びつかないという主張をする。果たして、本当にそうだろうか?

 例えば、入学試験なんぞはいくら知能が高くても日々勉強をしていなければ身につかないので、決して合格できない。それどころか、スポーツのトッププレイヤーなんかは最初はグループの中で最も下手だったという人は多い。つまり、生まれガチャよりもその後の練習によって身につけたということで、後天的な要素が大きい。

 そもそも、生まれたばかりの赤ちゃんは当然のことだが、母乳を飲むことと泣き叫ぶこと以外、何もできない。ということは、全ての人はその後の生活や勉強、トレーニングによってほとんどのことを身につけているわけで、努力の結果でしかない。つまり、多くの場合努力が結果を左右する。


 成功は何で決まるのか?


 では、成功は何で決まるのだろうか?それは、「決断」であろう。何を選択するのか、いつ始めるのか、その自分の決断が将来を左右する。

 そして、その決断を間違えないようにするためには、知識が必要だ。それも、今自分がやっていることの正しさを裏付けるための知識ではなく、何をしたらどういう結果になるか、どういう方法が効果的かを判断するため、自分をチェックするのに必要な知識だ。その知識がないと、思惑が逸れた時に素早く軌道修正の決断ができない。

 そして何よりも意思がないと決断自体もできない。それくらい、決断というのはより良い人生を送る上で重要である。

 しかし、多くの人は決断を先送りする。人間は遠い未来のことを小さく見積もる癖があるからだ。そして気づいた時には問題が大きくなっていて、手遅れになったり、損失が大きくなったりする。そこで懲りて軌道修正すればいいが、これまたほとんどの人は修正せず、また同じ過ちを繰り返す。

 だからこそ、「決断」は非常に重要で、人生を大きく左右する。成功は自分の「決断」で決まることを肝に銘じよう。




2025年9月16日火曜日

助け「合い」の意味を理解しない人々

 リベラル・左翼・弱者を標榜する人がよく使うワードに、「助け合い」がある。弱者のために助け合うのは当然でしょとか、助け合わないと生活できないとか言って、助け合いを殊更強調する。

 そう言いつつこういう人達は、いつも社会のどん底でもがいている。本当に助け合いが大切だと思っているなら、誰かが引き上げてくれるからどん底には行かないはずなのに。ということは、どこか間違いを犯しているのだ。それは、

 助け合いの「合い」の部分の理解と実践を省いている

からだ。


 助けと助け合いは別物


 左翼の者たちは常々、弱者に配慮をとか、マイノリティに思いやりをとか言っている。その関係性を図式にするとこうだ。

  相手  自分

 このように市民からマイノリティへ「一方向」の流れとなっている。市民は常に提供する側で、マイノリティは享受するだけという構図だ。

 これに対して、助け合いには「合い」という言葉が入っているので、

  相手  自分

というように、相手から自分へだけでなく、自分から相手への助けも含む。そのため助け合いは「双方向」の助けを意味し、この言葉を使う以上受け取るだけではなく自分も相手のために手助けしなくてはならない。


 文字通りに助け合いをする気はない左翼


 以上のことから、左翼は助け合いといいつつも自分は助ける気はなく、相手の好意や配慮を受け取ることのみを渇望しているため、そこには嘘があり言行不一致している。とかく左翼の者たちはちゃんと意味を考えず、しばしば物や言葉を適当に扱い、混同する傾向がある。そのため、助け合いという言葉を頻繁に使っていながら雰囲気だけで捉えていて、その意味を正しく理解していない。

 もっとも自分の利益のために使っているだけのパターンもないではないが、そうであっても言行不一致を起こしているので誤用であることに変わりはないが。


 なぜ自分は助ける気がないのか?


 あれだけ偉そうに助け合いが~と言いながら、なぜ自分は人々を助ける気がないのか?本人たちが思わず吐露したところによると、

 「自分は何も持ってない、何もできることがない。だから何も提供できないから、受け取ることしかできない。」

からだそうだ。できもしないんだったら助け合いなどと言わなければいいものを、あまりに思慮が浅い。

 酷いと、「持っていない人にやらせるのは、おかしい」と言う者までいる。あまりに礼を欠くし、不誠実極まりない。人付き合い助け合いというものは、損得や能力でするものではない。相互関係で成り立つものなので、やってもらってばかりでお返ししないと相手は怒るのは当たり前だし、何もせずに好感を持ってもらうのは不可能だ。

 それどころか、自分は実行する気が無いのに言葉の誤用で援助を引き出そうとするのは、相手をだましているので悪い。助けが欲しいなら、口八丁手八丁ではなく誠実さを身につけ、自分の行為をもって証明することで引き出さなければ、永久に得られない。




2025年9月13日土曜日

格差拡大は富裕層のせいではなく、庶民に原因がある

 ここ最近、格差拡大をしきりに叩くコメントをよく見る。内容としては、富裕層ばかり富を独占してズルいとか、富裕層ばかりお金が増えて不公平だとか、庶民ばかり貧しい思いをさせられているとか、おおよそこんなところだろう。どこかからコピペでもしたのかと思うくらいどれもありがちで、妬みや憎悪ばかりである。富裕層は庶民のことなど何もわかっちゃいないなんてのもよく聞くものだ。

 しかし、富裕層からしたらわかってないのは庶民のほうでしかない。彼らはお金の増やし方を知っているし、制度の活用方法も知っている。富裕層はそれらを活用しているだけで、謀をしているわけではない(謀ことをしなくても、いくらでもお金を増やす方法があることを知っているから)。

 大体、富裕層が庶民の貧しい暮らしを知ったところで、何の知識にもならない。全く無駄な主張である。こういう何の利益も生まない無駄な主張に労力をかけるからダメなんだと、見透かしている。

 では、なぜ格差拡大は富裕層の意図したことではないのか。どこに庶民の落ち度があるのかを考えていく。


 富裕層は投資で大半の資産を増やしている


 まず庶民が知っておかなければならないのは、富裕層というのはほぼ例外なく金融商品を購入し、評価額が上がることで資産を増やしている。というのも、現金収入だけで資産を作った人というのはまず存在しない。なぜなら、(従業員の給与よりは高いものの)会社からもらう報酬などの現金収入なんかたかが知れているし、銀行の金利が低いので貯蓄しているだけではほぼ単利同様で、横ばいにしかならないからだ。

 そこで年利の高いものを探して行きつくのが金融商品で、これを運用することで複利がついて資産が増えるのだ。著名な資産家なんかも、会社から支払われる報酬より、株(自社株を含む)の運用で増大した資産の額のほうが圧倒的に高い。ウォーレン・バフェット、ジム・ロジャース、ジェフ・ベゾス、イーロン・マスク、ビル・ゲイツ、孫正義など、枚挙にいとまがない。つまり、彼らの資産は報酬から来ているものは微々たるもので、保有している金融商品の評価額があがったことで増えたのだ。


 相場や金融市場は富裕層ですら操れない


 ただ、金融商品というのは相場によって価格が決定する。無数の投資家がリアルタイムで入札をするので、その価格は常に変動する。ウォーレン・バフェット氏のような大口の投資家ですら、全世界の株数と比較したら保有比率など微々たるもので、価格を操作できる力なんぞ到底ない。せいぜい指折り数えられる程度の会社を牛耳れるだけで、金融市場そのものを動かせる人など存在しない。金融市場にも数多くの有象無象が参入しているので、コントロールしきれないのだ。

 このことから、富裕層はその金融システムに乗っているだけで自らの思惑を反映させようがないので、意図的にお金を独占することはできない。つまり、金融商品を持っていたら、「勝手に」評価額が上がって増えただけなのだ。


 金融市場へ参入しない限り儲けは、0¥


 ただし、投資で利益を出すためには、まず購入しないことには始まらない。ウォーレン・バフェット氏の言う投資で成功する秘訣として、「市場から退場しないこと」というのがある。何かしらの金融商品を買って持ち続けない限り、利益は出ないよと言っているのである。つまり参加しないことには始まらないのだ。


 大半の人は参加しないがゆえに、置いてかれている


 しかし、大半の人は臆して手を出さない。投資なんて詐欺だことの、失敗するに決まっているだことの言って、やろうとはしない。その間にも金融商品の評価額は右肩上がりで増えていき、資産家との差は増々開いてしまう。それを自分の意思で選んでいるのは資産家と庶民どちらかといったら、間違いなく庶民のほうだ。わざわざ参入しないという選択をしているからだ。

 このことから格差拡大は、庶民自ら原因を作っているのである。貧困におちいりたくない、老後貧しくなりたくない、もっとましな生活をしたいというなら、現代においては投資へ参入する以外に手はない。苦しい生活は、決断できなかった自分への報いなのだと気付かなければ何も変わらない。




2025年9月9日火曜日

障害者は人の2倍稼がないと戦力にならない

 ここ近年、障害者雇用についての記事を目にするようになった。特に障害者=福祉みたいな世界観があるので、福祉関係の人が言及することが多いように見える。

 しかし、実際に雇用するのは会社などの組織であり、そこはビジネスの場である。チームを組みながらもお互いに切磋琢磨することが求められ、他社としのぎを削るシビアな場である。福祉の世界観とは真逆と言っていいほど、価値観や厳しさ、お金の感覚が違う。どうもそこが福祉系の人には見えておらず、採算が合わないという事態を招いている。

 そこでビジネス、お金の観点から障害者雇用を見ていき、福祉関係者に足りない視点や抜けている計算を紐解いていく。


 福祉系は慈善事業の範疇でしか考えていない


 さて福祉とビジネスでは活動しているフィールドが違うので、目的もレベルも根本的に異なる。福祉の方は、障害者が社会参加できることを目的としているので、少しでも就労できればOKという考え方だ。補助金が出ることで赤字補てんができるのであまり成果に囚われる必要がなく、障害者の満足に重点を置きがちだ。

 これに対してビジネスには補助金はないので、自力で経営を維持しなくてはならないし、責任も問われる。その癖、倒産させたら多くの被害者を生むので赤字経営をする訳にいかず、絶対に黒字に持っていかなくてはならない。となると、採算が合うかどうかの判断はおのずと厳しくなる。


 障害者が採算を合わせるには


 ビジネスの世界はそれくらい厳しい世界だから、障害者を雇うことの採算性も必ず計算に入れる。実際に障害者を雇うとなると、結構コストがかかるものだ。設備工事が必要になったり、教育・相談係を別途付けなくてはならなくなったり、障害者が苦手とする業務を別の従業員が追加で割り振られたりすることで、余計な経費が増える。

 会社としては経営を維持するためにこれを減価償却しなくてはならないので、その分の売り上げを作ってくれないと意味がなくなる。なので、障害者にはそのコスト分も含めた売り上げ増を作る責任が生じる。障害者は人の2倍稼がないと戦力にならないのだ。


 福祉の世界は将来を見据えていない


 しかし、福祉系の人達は障害者のことしか眼中になく、障害者の就職をゴールにしてしまっているから、会社の採算のことまでなかなか考えていない。障害者の相談は引き受けても、採算悪化の責任までは負わない。自分の会社ではないから、他人事でしかない。

 そうなると会社側も障害者を雇うメリットがなくなり、無駄なコストでしかなくなるから、障害者雇用を渋るようになるだろう。なので、少しでも働ければいい、わずかでも役に立てればいいというのでは、全く意味がない。

 会社は慈善団体でもNPOでもないので、参加することに意義があるでは困る。障害者雇用を斡旋するなら、収益性を必須としないと存在意義がなくなる。




報酬はリスクに対して支払われる ーリスクを取らないからこそ困窮するー

 ここ近年、経済や政治の議論で賃上げがテーマになることが多い。収入が増えれば生活に余裕が生まれるので良いことだが、なかなかそう思い通りにはいかない。というのも、給与収入そのものに限界があるからだ。

 では、なぜ給与は増えずらいのか?なぜ給与だけでは裕福になれないのか?報酬が増える条件は何なのか?ここではそれを解説する。


 ほとんどの人は給与には+αがあることを知らない


 さて、なぜ給与は増えずらいかを説明する前に、給与の仕組みについて解説する。特に会社や政治に対して反感を持っている人ほど知らないことが多いので、ちゃんと解説しておかないと矛先がズレてしまうので、知っておかなければならない。

 多くの人は、給与とは仕事をするともらえるものと思っている。これは目に見えてわかりやすいので、誰でも知っているだろう。でも、ほとんどの人は給与には特典があることを理解していない。というか、正確には会社員の特典だが。

 ① 経営責任をとらなくていい
 ② 雇用を守る職務を負っていない
 ③ 一定の収入が保証されている
 ④ 業績にかかわらず報酬がもらえる
 ⑤ 簡単には首を切られない
 ⑥ 社保・厚生年金に加入できる
 ⑦ 失業保険をもらえる
 ⑧ 有給休暇を取得できる
 ⑨ 労災が下りる
 ⑩ 交通費が支給される
      ・
      ・
      ・

というように、大抵の場合会社員になることでこれらの特典がついてくる。大別すると、責任の回避、収入の安定、福利厚生の3つにわかれるだろう。

 責任回避については、経営者や役員、上司が代理でリスクを負ってくれている。お陰で自分は、ストレスを溜めなくて済むというメリットがある。

 収入の安定については、閑散期や業績が悪化した時でもこれまで通りの給与が支給されるので、生活を保障されている。そのため生活困窮のリスクを抱えなくて済んでいるのだ。

 福利厚生については、病気やケガをした時に治療費を補てんできたり、退職後も生活費に事欠かないようにするためにある。これも生活困窮のリスクを回避するための施策である。つまり、会社員になることでとことんリスク回避をさせてもらえるのだ。

 その上、給与とは別に福利厚生の費用を会社は負担している。その分コストが余分にかかるので、会社からしたら割に合わないというのが本音だ。


 リスクを負わない人は報酬が低い


 社会的に報酬は、負ったリスクの大きさに合わせて支払うシステムになっている。そうしないと収支がトントンにならず、採算が合わないからだ。

 しかし会社員はリスクを最もとらないポジションだし、どうしても報酬は最も低くせざるをえない。それに加えて福利厚生をしっかりさせないといけないからコストが割高となるので、会社からしたらただただ負担でしかない。そのコストを償却してくれないことには始まらないから、昇給や賃上げは難しくなる。

 さらに、庶民や低所得者を顧客に含むビジネスモデルだと、どうしても客単価が安くなってしまうので利益率が低くならざるをえず、より会社員の昇給や賃上げはできなくなる。

 結局、会社員という安定重視でリスクを負わなくていいポジションにいる限り、報酬が上がることはないのだ(上がったとしても、雀の涙ほど)。


 収入を上げるには、○○をするのが一番


 では、収入を上げるには何をしたらいいのだろうか。先ほどから言い続けているように、会社員というぺーぺーの立場でいる限り見込みはない。となると、採るべき手段はこれしかない。

 「ポジションチェンジ」

 今の座をとっとと抜け出して、ポジションを変えないことには収入が上がらない。しかも、そのポジションはリスクや責任を負う立場であることが条件だ。これに当てはまる手段は2つある。

 1つは、昇進して役員になること。そのために長く在籍して、誰よりもいい仕事をしていい成績を残す必要があり、昇進後は部下の失敗の責任を負うというリスクや犠牲を払うことを了承しなければならない。その代わりとして、役員報酬という特別な報酬を受け取れる。

 もう1つは、株を買って株主になることだ。株主というのは会社の所有者なので、社内ではトップオブトップである。その地位ゆえに、利益を真っ先に受け取る権利も有しており、額も少なくない。しかし、株価下落や会社の業績悪化のリスクは付きまとうことを覚悟しなくてはならない。


 リスクを取らないことには収入は増えない


 結局のところ、大きな収入を得ている人というのは、その分大きなリスクを自分から取っているということなのだ。そのために、ポジションチェンジもいとわず、果敢に立ち向かっている人だけが、収入を増やしているのだ。逆に言うと、収入が増えないと言っている人は、今のポジションのままい続けようとしている。その安心安全なポジションを手放さないから、収入が増えないのだ。

 しかしそれを捨てない限り、収入が増えないのは当然だ。収入が増えなくて苦しい、今の収入ではやっていけないというならポジションチェンジをし、リスクを取らなくてはならない。善は急げ、行動を起こすなら今だ!




2025年9月6日土曜日

日本人は真面目なのではなく、本当は○○なだけ

 よく日本人に対するレッテルとして、真面目というのをよく見聞きすることが多いだろう。時間を守るとか、モラルの意識が高いとか、上司に従順とか、勤勉であるとか、そういう社会性やルールを重んじる行動を取る人が多いことから言われる。

 だがそれらの行動は、本当に真面目さから来ているのだろうか?これを真面目というのはあまりに単純すぎるので、ここでちゃんと再検証する。


 真面目という割に矛盾が多い日本人の行動


 さて真面目かどうかを考える前に一つ理解していないといけないのは、判定の基準だ。とかくこの手の話となると、こういうところが当てはまるとか、こういう傾向が見られるとか、酷い人だと一個合致しただけで断定するのも見られるが、あまりに安易だ。10個の内、一つ当てはまるということは、他の9個は当てはまっていないわけで、それはむしろ合致しないことになる。合致しているところだけ見ても、立証にはならないのだ。こういう時はむしろ矛盾がないかを見ないと、検証にならない。

 というわけで矛盾点を探すのだが、日本人は真面目というテーマに関して言えば、結構出てくると思う。例えば、税制優遇制度のあるNISAやiDeCoを9割の人はやらないとか、カジノは禁止しているくせに競馬、競艇、競輪、オートレース、パチンコ、スロットなどのギャンブルはいくらでも存在するとか、個人の生産性を示す一人当たりのGDPは先進国中最低とか、大人になってからの平均学習時間は世界最低に近く5分しかないとか(ちなみに10年ほど前は2分だった)、実は枚挙にいとまがない。こうして見ると、日本の実態は真面目とは程遠いどころか、多々真逆であることがわかる。

 本当に勤勉であるならGDPは高くないとおかしいし、生真面目ならこんなにギャンブルが乱立することはないし、もっと学習に関しても意欲的に取り組むはずなので時間も多くとるはずだ。しかし、実情は全部ぎゃくである。このことから、日本人の性質は真面目さからくるものではないということだ。


 日本人の行動原理は○○


 では、本当の日本人の行動原理は何のだろうか?それは、

 「臆病」「タイパ」

であろう。とにかく面倒なことに巻き込まれるのが嫌、穏便に済ませたいというのが、日本人のほとんどの行動に共通している。

 だから、リスクのともなうこと、トラブルになりそうなことは極力回避する。時間厳守、モラル、従順、投資をしないというのはリスク回避だし、学習時間の少なさや生産性の低さは余計な手間を惜しむからだ。そして、その手間を惜しむがゆえに手を出すのがギャンブルというわけだ。


 充実度こそが結果を生む


 しかし、恐れを抱いて手間を惜しんでいては何も生まない。経済発展もしないし、生活や収入も向上しない。このままでは、日本全体が落ち込み衰退していく他なくなってしまう。それは、自分で自分の首を絞めているようなものだ。

 だが、いい点もある。周りがみんな動いていないから、今のうちに動きだした人は恩恵を受けやすい。だからこそ早めに動いて、豊かな未来を謳歌しようではないか!




2025年9月5日金曜日

才能なんてものはない ~敗者ほど才能といいたがる~

 よく成功者を見て、才能があるからだと言うことがある。まあ、私は才能なんてものはないと思っているので言うことはないが、結構多くの人はそう思っているようだ。

 しかしこの才能という言葉、ナルシストでない限り成功者自身が言うことはまずない。成功者が言うと自惚れになってしまい、謙虚さがないと取られ、自信の立場を危うくするからだ。そうこの才能という言葉は、敗者しか言わないのだ。ではなぜ敗者ほど才能と言いたがるのか?この謎を解いていく。


 才能と言うことにメリットがある


 当たり前のことだが、何らかのメリットがないと人間は言葉を発しようとはしない。物事を説明したり、意思を伝えたりする時なんかは良い例だろう。漫才でボケるのだって一見意味ないようではあるが、その後のツッコミを期待して笑いを誘おうとしているわけで、これも意図があってしている。

 そして敗者が才能という時も、やはり意図が見える。一つはトップリーグで活躍するトップのスポーツ選手を見た時に発する、格の違いを表現するための「才能」だ。メジャーリーグで首位打者を取るとか、ワールドカップで得点王になるとかした際に、思わず発してしまうことは誰にもあるだろう。こういう時の才能という発言は特に問題とはならない。

 だが、問題となるのはもう一つの事例だ。それは、

 「自分を守る」

時に発する「才能」だ。一介の庶民やどこにでも居そうな凡人が何かを成し遂げた時に、「アイツは才能があったから」と言って、自分を納得させるための「才能」は要注意である。

 本当はやれば誰でもできることであっても、やらずにいて負の結果を招いているのを「才能」のせいにしているのは自己正当化に他ならない。それは上手くいかなかった時に恥をかいたり、後悔するのが怖かったりするのでやりたくはないが、かといって意気地なしなのを認めるのも格好悪いので、自分のせいではないことにするべく外部に理由付けしてるからだ。


 才能と言っているうちは何も良くならない


 ただ、これをやっているうちは何も始まらないので、いつまでたっても自分に良いことは何も起きない。それどころかできることもできなくさせてしまうので、どんどん自分を退化させてしまう。そうなると、没落の一途をたどり、人生が立ち行かなくなってしまう。

 なので、一刻も早く「才能」というワードを使うのを止めなくてはならない。反対に、あの人でもできるんだったら、もしかして自分もできるかもしれないと可能性を持つことが大事だ。

 この世の中には特別な才能などなくても実績を残している人はごまんといる。方法論が確立されていて、再現性のあるものもたくさん存在する。そういうものであれば失敗のリスクは少ないから、本来やれる人は少なくない。「才能」のせいにするのを止めた時が、明るい未来へのスタートとなる。




2025年9月2日火曜日

右派と左派の「甘え」の認識の違い

 左派と右派で揉めるテーマの一つとして、「甘え」に関することがある。右派が甘えるなといって更生を迫るのに対し、左派が甘えではなく障害なんだ、だから変わりようがないんだと抵抗するのはよく見る。

 だがこの対立構図をよくよく見ると、左派と右派での甘えの定義自体の認識に差異があることに気付く。今回は甘えか否かとか、甘えの良し悪しは横に置いといて、左派と右派で何を見ているのか、それぞれ何をもって甘えといっているのかについて紐解いていこうと思う。


 左派が見ているもの


 右派について解説するのは少々心理的に抵抗を持つ人が多いため、まずは左派について見ていくとする。左派の人達が最も大切にしているのは、「自分」の感情や気持ちだ。なので感情を表に出すことを良しとしているので、TPOに応じてコントロールする練習を積んでいない。結果、感情の振れ幅が大きくなりやすく、精神疾患として診断される人も少なくない。

 さらに、判断も感情ベースとなるから、嫌なもの、不都合なもの、印象の悪いもの、プライドに係わるものはストレートに拒否し排除する。そのため、自分の印象が悪くなる「甘え」と判断されることには著しく抵抗する。

 そう、左派が見ているのは自分から見た自分の「評価」である。


 右派が見ているもの


 一方、右派はどうだろう?右派は社会性重視である。他者との関係性で自分が成り立つことを知っている。そのため戦略的だし、相手の出方に応じて自分はどういう選択肢を持っているのかを考えている。そして、その選択肢はまず例外なく複数あることを理解しており、その一つを自分で選択した以上自分の意思が働いているから、その点に関しては自分の責任であると考える。

 さらにそれが上手くいかなかった場合は自分の選択が間違っていたわけだから、自分に落ち度があると判断して、さっさと切り替える。

 右派が見ているのは、自分の「選択」の正誤なのだ。


 右派は目標を持った未来志向


 では、なぜ右派はこのような思考になるのだろうか?それは、

 「目標達成」

を最重要視しているからだ。人生は大小無数の選択の連続と、その結果でできていることを右派の人達は熟知している。自分がした一つ一つの選択が今の状況を生み出しているし、自分が今までに一度も選択していないというのはありえないと理解している。

 そして自分がした選択(無意識にした選択も含む)は必ず結果に反映されるので、いい加減な選択はしないし、衝動に任せることもしない。例え衝動的にした選択であったとしても落ち度を認め、二度と同じ間違いをしないよう選択を変える。自分の人生を自分でコントロールしないと目標にたどり着けないし、どうしても目標にたどり着きたいから自分で選択する。だから右派は、「選択」を他人事に考えないのだ。

 それゆえ通るべき道を通らず、目標から外れる選択を自らしたにもかかわらず、恩恵にあずかろうとするのはルール違反で卑怯であるとして、「甘い」と言うのだ。


 左派は安心安全が第一


 反対に左派はどうだろう?左派にとって最重要課題は、

 「安心安全」

である。とにかく傷つきたくない、落ち込みたくない、損したくない、不安でしょうがない、という心理が先行する。そのため回避行動をとりやすい。

 しかし、安心安全を最重視し回避ばかりを続けていても、何も手に入らない。かといって正攻法で進むのは、不安で気が進まない。なので、自分だけの特別な方法を通すしかないと考える。

 だが、そうなると正攻法ではないので、非難を浴びるのは必至だ。またもや安心安全が脅かされることになる。そこですがるのが、お墨付きである。診断であるとか、マイノリティの一員であるとかを盾にして、正当性を担保しようとする。そうすることで、仕方ないんだ、特例なんだという形にすることで、これは「甘え」からくるものではないという方向へ持っていく。

 このことから、左派は「甘え」など存在しないとすら考えているだろう。


 ハードルを下げるのではなく、乗り越える手助けをすべき


 正直ここ近年の左派は、特定の人だけハードルを下げるという手法に固執している。しかし、この手法は外から見たら不公平にしか映らない。そうではなくハードルの高さは一律を保つことで公平性を保ち、それをどうやって乗り越えるか?そのトレーニングや学習をするほうが人々の納得を得られやすい。

 周囲はそのサポートをすべきで、ルール変更に手を出すのはタブーでしかない。昔から「無理が通れば、道理が引っ込む」と言われるように、人々の納得が得られない無理なやり方は争いの元である。

 どういう「選択」をすれば「甘え」と言われないのか。それを今までは
決められたルールの外に求めていたが、中で見出せるかが「甘え」か否かの分かれ目になる。




2025年8月30日土曜日

逃げの一手だけでは、必ず行き詰まる

 よくリベラルの人達が、「辛い時は逃げてもいいんだよ」とか、「逃げなきゃいけない場合だってあるんだ」とかいうのを見聞きする。そうといえばそうなんだけれども、実際には本当に逃げたほうがいい人は言っていない気がする。むしろ人生の節目節目でいつも逃げの一手しかしてこなかった人が、自分の失敗や選択ミスを認めたくないばかりに言っているのが多いのではないか。

 正直な話、逃げてばかりで上手くいくほど人生容易ではない。学べないこと、失うこと、身につかないこと、得られないことのほうが圧倒的に多く、どんどん平均との差が開いてしまう。しかも、それを自分が選んだのに社会が悪い、政治が悪いと言って自分を省みないから、いつまでも自分の過ちに気づかず、余計に取り残されてしまう。

 そこで、なぜ逃げるのが良くないのか?逃げるとどんな悪影響があるのか見ていこう。


 生きる術が身につかない


 逃げるといういうことは自分ではやらないということなので、知識や知恵を学んだり、経験やスキルを積み重ねることができない。なので、できない、できなかった、という失敗の実績だけが積み重なるので、どんどん自分は無能であるという確証のみが高まってしまう(実際には試してもいないので、無能かどうかわからないのだが)。

 リベラルの連中は逃げるのは良いこととして喧伝しているが、実際は目標を達していないから本人にとっては挫折・リタイアであり、自信の喪失とより深い精神の落ち込みをもたらしてしまっている。結局のところ、逃げるというのは一時しのぎをしているだけで、メリットは何もない。逃げの一手だけだと、どんどん自分から自分で生きる力を奪っているわけで、上手くいかないのは当然の成り行きである。


 精神力で何とかしようというのが土台無理


 そもそもなぜ逃げるかというと、そのほうがメリットが大きいからだ。傷つかなくて済む、自分で責任をとらなくて済む、損失を被らなくて済む、恐怖を感じなくて済む、他人の顔色をうかがわなくて済む、面倒なことをしなくて済む、失敗をしなくて済む、恥ずかしい思いをしなくて済むなどなど、逃げるというのは心理的なメリットがかなりある。

 しかもこのメリットは極めて強力で、大きな誘惑となる。これを精神力で乗り切るのはどんな人間でも不可能である。目の前にこれを越えるくらいのうま味のある餌を持ってきたとしても無理だろう。というのも、人間の習性としてメリットよりもデメリットの方を2倍大きく見積もるという無意識の心理が本能的に働くことがわかっているからだ。


 所詮人間は物理的に退路を断たないと本腰を入れられない


 だからといって逃げの一手を続けるのは愚策である。また元の生活に逆戻りしてしまうから。なんとか打開策を見出したいものである。

 実は、こういう状況下においても人生をうまく乗り切り、解決へと導いている人がいる。そういう人が採る手段が、物理的に退路を断つという手段だ。身近な例でいえば、枕元にスマホを持っていかないとか、目覚まし時計は布団から離れたところに置くとかだ。この手法をを用いて、生活や勉強、仕事でも実践するのだ。スマホがメンタルに悪いのならタイマーを仕掛けるとか、仕事で一定のレベルに達してから進退を考えるとか、実践的な方法を取ったほうが腰を上げざるをえない状況にできるだろう。

 後は逃げることに物凄いペナルティーや負荷をかけるのも効果的だ。先ほども言った通り人間はデメリットを大きく見積もる習性があるので、デメリットのあることをやろうとはしない。逃げたら損するとわかっていたら、逃げるよりも立ち向かったほうがマシとなるので逃げづらくなる。例えば逃げたら筋トレとか1万円没収(没収先を慈善団体にするとなお良い)とか、やり方はたくさんあるだろう。

 とにかく精神論で何とかしようとするのは精神疾患抱えている人には尚のこと期待できないので、物理的な手を用いる他はないだろう。



                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            

2025年8月26日火曜日

困ってから動くので詰む!普段、危機感もって動いてるかが運命の分かれ目

 生活困窮者や精神障害者なんかを見ていて、「急に身内に災難が発生して」「勢いで仕事を辞めてしまって」「突然精神障害を発症して」など、突発的に不幸が起こってしまったがゆえに、なす術なくなってしまったと発言する人が多い。こんなことが起こるとは予想だにせず、運悪く詰んでしまったと。

 しかし、こういった人たちの普段の行動や発言を見ていくと、いくつかおかしな点や矛盾点に気づく。突発的な不幸はきっかけに過ぎず、生活困窮の本当の原因はもっと根源的なところにあるのではないか?精神障害についても本人が気づいていないだけで、本当はもっと前から予兆があったのではないか?となると果たして本当に、自分の力では一つも防げなかったのか?その点を丸裸にしたい。


 人生は必ずしも計画通りにはいかないもの


 まず当たり前の話をするが、人生とは自分のであれ他人のであれ、大抵計画通りにはいかない。必ずイレギュラーやミスが発生するもので、全て計画通りにいっている人など一人もいないのは誰もがわかるだろう。困難なことやハイレベルなことに挑んでいる人ほど、これを嫌というほど痛感しているのではないだろうか?

 なので、突発的に予想外のことが起こるなんてのはそもそも当たり前の話であるし、誰の身にも起こっているのでここが運命の分かれ道になっているわけではない。では、何が成否を分けているのか?それはイレギュラーへの向き合い方ではなかろうか。

 実は成功者と困窮者では、決定的にこのイレギュラーへの向き合い方が違う。成功者は、イレギュラーは必ずあるものとわきまえているから、初めからイレギュラー有りきで計画を立てる。時間も資金も余裕を持たせ、いざとなったら困らないように事前に出来うる準備をしておく。だから、スタートも早い。

 反対に困窮者は、普段イレギュラーのことなど考えもしない。今の満足にしか目がいってないから、誘惑に負けて時間もお金も体力も使い果たしてしまう。なので、イレギュラーが発生しても余裕がないから切り抜ける手段がなく、窮地におちいって詰むしかなくなる。明らかに目測が甘いのだが、困窮者は普段の対策の重要さがわかってないし、関連性づけする能力が弱いので
(本当は事前に回避する手段がたくさんあっても)運が悪かったという認識にしかならない。


 困窮者に決定的に足りないものは、普段の危機感


 そもそも、人間いざ窮地におちいった際にできることというのは、結構限られているものである。パニックになって頭も働きずらくなるので、そんなときに全ての作業をやるのは土台無理である。だからこそ、成功者は前もってやる、先んじてやるというのを心得ているので、いざとなっても余裕があるので困らない。

 しかし、困窮者はいざとなったらやればいいと高をくくっている。そして、いざ窮地におちいった時に全てをこなさなくてはならなくなるから、キャパオーバーになって詰んでしまう。明らかに自分の落ち度である。

 さらに問題なのは、困窮者は責任の所在を間違うので対人トラブルも同時に起こす。こういう時に自己責任論の話がよく持ち上がるが、ここでいう自己責任論は事前準備を怠ったことを差している。

 しかし、困窮者はイレギュラーが発生したことに対する責任の有無しか連想しないので(普段から心の視野狭窄でその場しか見ていないのもある)、自分には責任がないと誤認する。結果、無責任、責任放棄の常習となり、対処の杜撰さも相まって人から信用を失い、孤立していく。これは自業自得でしかない。

 こうなってしまうのは、ひとえに普段から「危機感」がない、もしくは弱いことにある。そもそも人間は遠い未来の危機より、近くの利益のほうが大きく認識する習性がある。そのため誘惑が起こり、流されやすくなってしまう。

 困窮者の場合は、境界知能や発達障害、自閉スペクトラムなどを抱えている人が多いため、よりこの明暗が極端になりがちで、誘惑のほうが勝りやすい。先延ばし癖があるのもこのためで、余裕を持つ、前もってやるというのを苦手とする人が多い。だから、いつでも場当たり、その場しのぎになってしまい、手段が限られて詰んでしまう。


 普段から「危機感」を意識しよう!


 なので、こういった人こそ普段からどれだけ「危機感」を持てるか、意識できるかが将来の分かれ目となる。自分のヤバさに気づき、「危機感」を普段から意識的に大きく見積もる習慣をつけることが、今のどん底の人生から抜け出す第一歩となる。