だが、多くの人もわかると思うが、その思考には重大な問題が潜んでいる。ここではその問題点について追及する。
問題点① 冤罪を容認することになる
「自分が差別と思ったら差別」という基準でいった場合、自分が差別であると受け取ったら全て差別としてよいということになるので、それが例え事実誤認や人違い、精神疾患からくる幻覚妄想など、自分に誤りがあり事実無根の場合であっても、本人は被害感覚があるので差別と判定してよいということになる。
それどころか、自分が思ったかどうかという主観一点のみを判断基準としてしまうと、腹の内は誰にも見えないだけに、相手を陥れるために簡単に悪用することができてしまう。これは冤罪に他ならず、決して認めていい行為ではない。実際、群馬県草津町においてセクハラを行ったとして草津町長を訴えるという事件があったが、容疑者の町長が事実無根であることを証明し、訴えた町議による虚偽であったことが判明した。
このように「自分が差別と思ったら差別」というのは、言いがかりや名誉棄損に用いることができるため、倫理上はっきり間違っている。
このように「自分が差別と思ったら差別」というのは、言いがかりや名誉棄損に用いることができるため、倫理上はっきり間違っている。
問題点② 差別かどうかは個人が勝手に判断する権限はない
この朝田理論を持ち出す人は、個人の独断で差別のレッテルを貼る人が非常に多い。しかし、差別かどうかを判定するために法廷という場がちゃんと用意されており、法廷がある以上法律に則って判断しなくてはならないので、個人が独断で判断するのは違法である。
なので、「自分が差別と思ったら差別」という理屈は日本の法律上認められておらず、必ず法廷を通して判断を仰がなくてはならない。
問題点③ 名誉棄損で自分のほうが有罪になる場合がある
上記の①②にあたる場合、差別のレッテルを貼られた方は名誉を毀損されているので、当然報復措置として名誉回復の訴えを起こすことになるでしょう。事前に冤罪であるとの判決が出ていれば、間違いなく自分には名誉棄損で有罪判決が出るので、損害賠償をしなくてはならなくなる。より悪質な場合は執行猶予付きではあるものの実刑判決も出て、前科もついてしまう危険性もある。
問題点④ そもそも失礼極まりない
そもそもの話、自分個人の基準で独断で相手に対して差別だなどと言うこと自体、失礼極まりないことだ。差別のレッテルを貼る行為は、相手の地位や名誉、人格をおとしめる効果があるし、それ自体が攻撃になりうるのでやって良い行為ではない。
それだけではなく、周りで見聞きしている不特定多数の人間もそれを見ていい気分ではないので、褒められた考えではない。
問題点⑤ 独善的な人間になって精神の成長が止まり、敵も増える
人によっては自分にとって耳の痛い話も差別と受け取ってしまう人もいるので、そういう人に「自分が差別と思ったら差別」を許してしまうとイエスマンの話しか聞かなくなり、他人の忠告やアドバイスを無視してしまう。
それでは精神の成長が止まってしまい、社会性が身につかず、自分思い通りにいかなかった時の対処ができず、大人げない態度に出てしまいかねない。そうなると周囲は面倒なので距離を置くどころか、④のこともあって自ら敵を量産することになる。
さらに問題なのは、そこで本人はより一層被害者ポジションに入り込んでしまい、負のスパイラルに陥ってしまうことだ。そうなると社会との摩擦や軋轢、亀裂はより深いものとなり、修復不可能になってしまう。それでは誰にとっても得はなく、不幸にしかならない。
それにしても、
原因① 謙虚さが無い
とかくこの手の人は、態度が横柄である。所見では腰が低かったとしても、ふとしたことからボロが出て、自分が王様かのような振る舞いを見せる。
何でも自分の思い通りに人を操りたがり、少しでも気に入らないことがあれば食ってかかる。そこには正常な対人関係など存在せず、支配と服従の関係しかない。だからこそポジションを強く意識する人格が形成される。
何でも自分の思い通りに人を操りたがり、少しでも気に入らないことがあれば食ってかかる。そこには正常な対人関係など存在せず、支配と服従の関係しかない。だからこそポジションを強く意識する人格が形成される。
原因② 素直じゃない
原因①があって、素直になることができない。素直になるのは無意識に相手への服従と感じるので、屈辱感と恥ずかしさが込み上げ、強烈な抵抗感が生まれるからだ。この感情自体は誰しも持っているもので特段おかしくはないが、大人になるにつれて人間関係保持のためにこれに抗って沈静化させていく。
しかし原因①があると落差が大きくなるので、より屈辱感と羞恥心が増大し折れることへの恐怖心のほうが勝ってしまう。結果素直になれず、いわゆる嫌なヤツになってしまう。
原因③ 間違いを認めず、謝るのが怖い
そして今度は原因②が元となって、謝ること、間違いを認めることに極度の嫌悪感や恐怖心を抱くようになる。そんな姿や行動を無様だと思い込んでしまい、抵抗感を増幅してしまう。結果めでたく謝ったら死ぬ病発症となる。
原因④ 自分に間違いはないことにしたい
さらに原因③から逃れるために、自分は間違っていないと言い張ろうとする。その際はなりふり構っていられないので、手段を選ぶことが無く、悪事であっても躊躇なくやってしまう。より嫌なヤツを強化することになる。
原因⑤ 自分を守ることに無駄に必死過ぎて、盲目になっている
結局こういう人は自分を守ることに、必要以上に必死になりすぎるのである。過剰に防衛的になると常にファイティングポーズをとらなくてはならなくなり、結果いつも恐怖心にさいなまれ、とげとげした人間になってしまう。
そうなるともはや盲目になって周りが見えなくなり、声も聞こえなくなる。せっかくの忠告も入ってこないし、なぜ周りから浮いて孤立しているのかも客観的に捉えられなくなる。それゆえ主観のみの世界、自分の感情のみのでのジャッジしかできなくなり、独善的で身勝手な自分が誕生する。
最大の原因 現実のショボい自分を受け入れられない
そもそもの根本原因をいうと、現実のショボい自分を受け入れられないことにある。高い理想化された自分を描きすぎていて、そことのギャップが激しすぎるがゆえに現実の自分を否定せざるをえなくなるのだ。
だが本当は人間なんて所詮動物に過ぎず、誰しもがショボいのは当たり前である。当たり前ということはちゃんと人並みの地位にはいるので心配ないのだが、本人はより崇高なのが人並みだと勘違いしているので、ショボいのを受け入れられない。
だからこれを否定しようと必死になって悪あがきしてしまい、かえって自分の品位を落としてしまい自分の不甲斐なさを体感せざるをえなくなる。そしてまた自己否定をすることになり、無限ループにおちいってしまう。
自分の人生を少しでも良いものにしたかったら、ショボい自分を認めないことには始まらない。というか、ショボくていいんだ!
自分の人生を少しでも良いものにしたかったら、ショボい自分を認めないことには始まらない。というか、ショボくていいんだ!