2025年5月10日土曜日

MMTは日本にとって命取り

 ここ近年、MMT(Modern Monetary Theory 現代貨幣理論)を押す人々が多く目につく。これを押しているのは、福祉拡充や生活保障など大きな政府を求める左派の人に多い。たとえ一人一人のコストは高くなかったとしても、福祉や生活保障は庶民を対象とするため人数が多く、合算するととてつもない金額になってしまう。当然、どうやって多額の資金を工面するかという問題が出てくるので、その策としてMMTを主張するのだ。

 しかし普通に考えたら、そんな上手い話あるか?と疑問に思うだろう。そこで今回は、MMTの中身と実体、成否について解説する。


MMTとは何か


 そこでMMTとは何かを知らないと始まらないので、これについてまずは説明する。これは現代とは名が付いているものの、それほど新しい概念ではない。前からあったと言えばあった。それが、近年また掘り起こされたというのが経緯だ。

 で、その中身だが、これは政策ではなく債券をどう解釈するかという楽観的予測のようなものだ。つまりこれ自体が何か対策になるというものではなく、むしろ現状維持をするための方便と捉えるのが正しい。

 詳しく説明すると、MMTの理屈では日本のような国の場合、国立印刷局や造幣局があるのだから、国債の返済に税金を充てるのではなく、新たに発行(印刷・製造)した貨幣で返済すればいくらでも無限に借金できるし、財政破綻も起きないという理論だ。そう、財政破綻は起きないという楽観的な推察を説明しているだけで、何か新たに政策を実施するという話ではないのだ。

 これをちょっと小難しく熱を込めて力説するので、マネーリテラシーのない将来を考えない怠惰な庶民がまんまと引っかかってしまって、もっと国債を発行することを安易に支持してしまっている。


MMTの問題点


 ではこのMMTにおいて、問題点や見逃している点はないのだろうか?実はこれが、山ほどある。一つ一つ見ていこう。


①実体経済が伴わない


 MMTの場合、お金を増やす方法が造幣局での貨幣の製造なので、市場経済から生み出されたものではない。さらにそのお金を国債の返済に充てるのだから、そのお金は市場には流れない。

 結果、何の経済波及効果ももたらさないので、市民生活に好循環は生まれず、停滞の一途をこのまま辿るだけである。


②通貨の信用が下がり、国際取引で使用できなくなる


 経済活動によって生み出されたお金ではなく、ただ製造しただけで流通させたとなれば、日本円に経済実態が伴わないことになるので、世界三大通貨と言われるほどの高い信用と価値を一気に失う。

 そうなれば、価値のない円建てで決済するのは危険だと市場は判断するので、おのずと円の使用は敬遠され、国際取引で用いられなくなる。結果、国際市場での円の流通量は減ってしまう。


③円の国際的信用が落ちることで輸出業が打撃を受ける


 そして、日本円の国際的信用が落ちることで一番打撃を受けるのが、日本の主要産業である輸出製造業だ。トヨタ、ホンダ、任天堂、日立、川崎重工業など、海外にも販路を持つ主要企業が決算する際に、円に換金するのをためらわざるをえなくなり、ひいてはこれらの企業の経済活動の足を引っ張ることになる。

 そうなれば、業績にも多大に影響を及ぼし、さらなる不景気と大幅な税収減少を引き起こすのは馬鹿でもわかるはずだ。


④税収減少を補てんするために、さらに増税+国債発行


 税収が減るとなると、その足りない分をどうにかして補てんしないと社会システムを維持できない。そのためには、さらなる増税なり新たな国債発行なりしなくてはならない。増税すれば市民生活が危ぶまれるし、国債発行だと悪循環におちいる。


国債の発行数が増えるので信用格付が落ち、金利が上がる


 結局MMTは、今まで通り大量に国債を発行しましょうという話なので、発行数は増える一方である。上記のことも考えると、むしろそのペースは増加することも考えうる。

 そうなると格付会社はその点を査定するので、ただでさえ下げ止まりしない日本国債のランクがさらに下がることになる。ランクが下がった分、信用を失うので国債の買い手がつかなくなり、投資家の気を引くためにさらに金利を上げざるをえなくなる。

 金利を上げるとその分、利子の支払いが増えるので何の行政サービスにもつながらないただの支出も増えることになり、財政を圧迫することにつながる。


⑥BBBランクを下回ると、買い手がまずつかない


 今現在日本国債の信用格付は、海外の格付会社の場合AAもしくはA+で、G7中イタリアに次いで低い水準にまで達している。金融市場において債権の信用格付はBBBまでが安全とされているが、A+まできているとなるとAの次はいよいよBBBなので、これはもはや危険水域でしかない。

 そしてBBBを下回ると、市場のルールとして投資対象として不適格との判定がなされるので、国債の買い手がつかなくなる。結果、国債を発行しても現金化できず、国家予算に組み込めないということになる。


⑦遂には債務不履行(デフォルト)を起こし、全ての行政サービスが停止する


 この行く末だが、国債を発行しても現金化できない以上、資金がショートするので、返済ができなくなる。つまり、債務不履行いわゆるデフォルトになるのだ。

 そうなると大変で、債権者からの取り立てによって借金の返済を最優先にしなくてはならなくなるので、多くの行政サービスに配分していた予算をカットせざるをえない。当然予算カットされるからサービスを維持できず、停止や廃止を余儀なくされる。いわゆる緊縮財政を義務付けられるのだ。


⑧最後、世界経済まで混乱させて世界中のお金が消える


 まだあるのかと思うだろうが、最後の話をする。日本ほどの人口と経済規模を持つ国がデフォルトを起こせば、世界経済にも大打撃を与えるのは想像に難くない。以前ギリシャ危機があったが、あの時にも相当世界経済は混乱し、記録的な株価下落も発生して多くのお金が消失した。G7でもなく、日本より人口も、経済規模も、国家予算も小さい国であるにもかかわらずだ。

 これがほぼ全ての数値で上回る日本でデフォルトが発生したらどうなるだろうか。少なくとも世界において、ギリシャ危機以上の経済損失を招くことは間違いない。そうなると、世界における日本のポジションは失墜し、先進国としての扱いもされず、失われた30年どころの話ではなくなるだろう。


結論:MMTは空想で、高福祉の大きい政府は自滅する


 こうして見るとわかる通り、MMTは一時的に逃げ切れる人が一部だけ生まれはするが、遠からず自滅の道を歩むだけなのだ。とある試算によると、日本は今のペースで行ったら10年後にはデフォルトするとの結果が出ており、もはや新たな借金を作れる国ではないのだ。

 すでに日本でも夕張市がデフォルトを起こしているし、海外を見てもギリシャ危機によって世界経済に大打撃を与えた。これは他人事ではないし、いい加減先延ばしするわけにはいかない喫緊の課題である。

 だからこそ国民一丸となって、経費削減に励み、政府および公費に頼らない自立した生活と収入を早急に作らなければならない。

 手厚い福祉など、言語道断である!

国のお金を食い潰しているのは、政治家、官僚、政党以上に、国民自身

 血税を食い潰すことに対する矛先として政治家、官僚、政党へ向かうというのは、昔からよく見られる。政治資金や報酬、政党助成金として持っていかれていると。もちろん、国家予算の中にそれらの支出が含まれていて帳簿にも記載されているから、支払われていること自体はは事実だ。

 しかしよく考えると、日本の人口1億2300万人に対して政治家や官僚の人数、政党の数を考えると、あまりに微々たるもので、0.1%にも満たない。官僚の年収は2300万円だそうで確かに庶民の10倍ももらっているが、それでも人数分合算したとしても日本の借金の総額1323兆円には遠く足元にも及ばない。

 この1323兆円というとんでもない額をそんな少数の人だけで作るのは、まず不可能である。というか、使いきれない。ということは、この天文学的な額の借金を作ったのは政治家、官僚、政党だというのは素人考えで、明らかに的外れである。この主張に矛盾がある以上、それは間違いである。

 ではこの多額の借金を作った真犯人は誰なのか?

 が問題なのだが、1323兆円を達成しうる条件をピックアップすると見えてくるだろう。

①大人数である
②大票田
③不可侵の立場
④長期間一定の頻度と金額で受け取れる
⑤公費で受けられる行政サービスの額が大きい

といったところだが、この条件をすべて満たすのは誰かというと、

 高齢者

である。

①については、2024年9月15日現在65歳以上の人口は3625万人で総人口の29.3%を占め過去最多。2042年まで増える予想。
②については、その人口ゆえに大票田で政治家も無視できない。
③高齢者福祉はセンシティブな一面を持つので迂闊に批判できないことと、有権者における最大のグループであるので不可侵。
④払った以上の年金を受給。年金受給額が少ない高齢者は、不足分を生活保護で一生補てん。
⑤医療費はほとんどの高齢者が1割ないし2割負担。透析治療者は実質1割以下に。生活保護受給者は医療費全額公費負担。その他、公共交通や公共施設での割引などのサービスもある自治体も。

 これだけ支出が多かったら、それは借金が増えるわなとなる。

 ここに一般庶民への医療福祉にかかるお金もプラスされるわけだが、庶民は最多数な上に、年収600万円以下の人は納税額よりも受け取るサービスの額のほうが高いので、合算するととんでもない額の赤字となる。

 実際、国家予算の4割が社会保障に使われているし、国民の内9割は庶民なので、高齢者や庶民にかかる医療介護福祉の合計金額は相当なものになる。
このことからわかる通り、1323兆円もの借金を作ったのは、高齢者を中心とした庶民以外にありえないのである。

 なので、庶民に応分の負担を強いらざるをえない。なので各自自分の家計を早急に見直し、キャリアアップや副収入を作らないと生活がもっと立ち行かなくなる。自立しない人に将来はない。

2025年5月9日金曜日

患者に好まれる医者は言いなりになる人で、良い医者ではない

 精神科の分野では特にあるあるだが、ドクターショッピングといって、よく自分の気に入る医者に出会えるまで病院を転々と変え、渡り歩く人がいる。主治医が定まらないし、その度に仕切り直しをしなくてはならないし、治療方針が一貫しなくて継続できないし、その間には精神疾患がどんどん悪化するしで、良い事は何もないのだが、どうしても一定数こういう人は生じてしまう。

 こういう人はなぜドクターショッピングをしてしまうのか。それは、

 自分にとって常に都合のいい対応をしてほしいから

 そしてそれを叶えるためには、必然的にこういう医者を選ぶことになる。それは、

 自分の言いなりになる人

である。別の言い方をするとイエスマンで、自分の要望を何でも思い通りに聞いてくれて、逆らわない人である。確かにこの手の人は患者にとって安心安全を提供してくれるので、楽ではある。

 だが、言いなりになる医者は一見自分の言うことを聞いてくれる理解者のように思えるが、決して良い医者ではない。では、なぜ良くないかを説明する。


①素人である患者に権限を明け渡す


 治療について法律上、権限を持つのは唯一医者である。例え患者でも、ここに立ち入ることは認められていない。それは医学的知識の有無を試験によって公的に証明されているのが医者だけで、だからこそ医者にしか信用がないからである。

 にもかかわらず言いなりになるということは、実質的に患者へ権限を明け渡すこととなり、法律上医者にしか認められていない決定を無資格者が行うという違法行為と立場の逆転につながる。


②治療にならない


 さらに素人であるがゆえに、患者の求めが医学的に正しくなかったり、節度を越えていたりすることも多々あり、患者のためにならないのも問題である。制止しなければならない所でも黙認したり、患者にとって良くない結果を招くとわかっていても止めなかったりすることで、事態を悪化させうるので危険である。


③精神的成長がない


 疾患や障害を克服するためには、精神的成長が欠かせない。年齢を積み重ねるにしたがって自立していかないと生活できないし、社会の中で立ち回るのに適した処世術が必要になるからだ。それらは勝手には身につかないので、心構えやトレーニングが必要である。

 しかも人生は常に山あり谷ありで良いことばかりではなく、楽なほうを選ぶと手にできないもの、苦難を経ないと手に入らないものが必ずある。だからこそ自分にとって痛いことも受け入れていかないと思い描く方向へ進んでいかないので、自分の人生が上手くいかなくなり八方塞がりになる。

 しかし自分が苦しまない楽で安心できる居心地いい、いわゆる言いなりになる医者を好んでいると、必ず乗り越えなくてはならない自分の課題から目を逸らすことができてしまうので、課題解決が先延ばしになり精神的成長が遅れてしまう。それは社会との認知の差が拡大して生活を困難にするばかりか、疾患や障害の固着を招き治療不可能になったり、症状がさらに悪化して隔離せざるを得なくなる。

 そんな医者はむしろ火に油を注いでいるので、患者にとっても家族にとっても、まして社会にとっても害悪でしかない。


良薬は口に苦しの通り、良い医者ほど厳しい一面を持つ


 昔の人はよく言ったもので、「良薬は口に苦し」の通り甘く優しいものが必ずしも良いとは限らない。むしろ苦く苦しいものでも良いことなら受け入れないと改善しない。それがわかっているからこそ、良い医者ほど厳しい一面を持つ。

 例えば胃痛を起こしている患者に胃薬(大抵苦みがある)を飲ませなかったら、胃痛が治まらないばかりか胃炎から胃潰瘍に発展し病状が悪化してしまうだろう。下手したら入院、手術も必要になる場合もある。ならば胃薬の苦みを我慢しないといけない。

 このように解決を図ろうと思えば、何か他の苦しみと引き換えにしないと手に入らない。精神の患者にはどんな苦しみも受け入れたくない、苦労をしないで欲しいものを手に入れたいというダブルバインドやる人が非常に多い。でもそんな矛盾した都合のいいものは論理的に成立しないので、この世に永久に存在しないし、作り出せない。なので、必然的に選択肢は、

 A 厳しさを受け入れて自分を改め、目的を果たす
 B 楽を得る代わりに目的をあきらめ、取り残される

の二択になる。

 Cの楽しながら目的を果たし、しかも取り残されないは間違ってもない。人間は元来怠惰なもので、そんな甘い条件だと簡単に挫折するからだ。しかも知識も経験もスキルも不十分で、実践で役に立たない。だからこそ上手くいっている人ほど、あえて厳しさの方を選ぶのだ。

 結論、自分にとって優しいだけの言いなりになる医者を選んではいけない。厳しいことも言える医者こそ実績があるし、名医である。

2025年5月6日火曜日

権利=タダという意味ではない

 よく左翼的価値観を持っている人は、権利はただで手に入るもので、平等の観点からそうあるべきと主張する。大人としての良識を持つ成熟した人からしたら、あまりに単純で無責任で安易な思慮の浅い幼い考え方だというのがわかるのだが、左翼は学習とシミュレーション能力が弱いせいか権利の意味とそれが持つ責任がわからないようだ。

 そこでここでは、権利について詳しく説明する。


権利とは何か?


 大体、何かにつけ権利、権利と叫ぶくせに、権利の意味がわからないというのはおかしな話だ。明らかに自分の利害という一側面だけでしか捉えていないし、自分視点、つまり主観しか頭にないという点で人格形成における未成熟さを露わにしている。あまりに視野と見識が狭く、閉鎖的で利己的である。

 まず前提として、権利とは社会や人間関係の中でしか生まれない概念である。なぜなら自分一人の世界なら権利を主張する必要がないからで、自分や仲間の利害だけでは権利は成り立たない。異なる利害を持つその他大勢との兼ね合いや、社会全体の効率や採算など様々な調整が必要になるので、一人の人間や一つのグループのみの価値観だけで決めていいものでは決してない。

 さらに、権利という語彙上の意味としては、

①権勢と利益。
②【法】一定の利益を主張し、受けることを法律が一定の資格者に認めた力。
③ある事をしてよい、またはしなくてよいという資格。↔義務
(参照:旺文社国語辞典改定新版)

とある。


②【法】一定の利益を主張し、受けることを法律が一定の資格者に認めた力。


 まず重要なのが、②である。【法】とある通り、法律上の規定があるということだ。なので、これを踏み越える行為や主張はしてはならないことを意味する。

 さらに、一定という言葉が2回も使われている通り、無制限ではなく、制約や限度があるということが明記されている。

 そして資格者とある。つまり、社会との関係から誰でもいいというわけではなく、ちゃんと必要なルールを理解し、それに即した行動をとれると認められた人でないといけないと規定している。そしてルールを問われる際には責任をとれるかどうかも問われるので、自分の利害を求めるだけではだめで、伴って発生したトラブルに対して責任を果せるかどうかも義務付けている。


③ある事をしてよい、またはしなくてよいという資格。↔義務


 もう一つ考えなくてはならないのは、③の末尾にある「資格。↔義務」の部分である。↔の記号は対義語を表しているので、義務とは反対の意味を持つことを示している。

 ということは、義務と引き換えであることを意味しており、資格を喪失した場合は義務を果たさなくてはならない。

 つまり、

権利はタダではなくて、権利=ルール+責任⇔義務と引き換え


 である。


なぜ左翼は権利=タダと考えてしまうのか?


 ここで疑問になるのが、なぜ左翼は権利をタダで手に入れるものと考えてしまうかだ。そこで確認しないといけないのが、支持層だ。

 左翼の支持層は主に、障害者、不法滞在者、生活保護受給者、LGBTなどのいわゆるマイノリティとされている人々、その中でも特に極端な思考を持っている人が中心だ。この極端な考え方をする性質があるため、シングルフォーカスの特性が出てしまい自分の利害しか目が行かないという現象を引き起こしてしまう。

 さらにこれらの人々は、同時に精神疾患や神経発達の遅れ(いわゆる発達障害)を抱えていることも多いことが知られている。

 それゆえに考え方が幼く、年相応ではない(精神科において、発達障害者は実年齢に対し精神の成熟度が2/3~1/2程度と目している)ため、大人としての考え方やモラルが身についておらず、自己中心的な発言や行動、態度に出やすい。これは自他の境界線が大人になっても出来上がっていないのと、他者視点を持てないことによって他人の権利や利害を侵害していることに興味がなく、わからないからである。

 これによって他者との関わりがあって初めて成り立つルールやモラルというものにも関心も理解もなく、自分の利害しか目に入らないから、「権利=タダ」という世間一般の社会倫理から逸脱した思考を持ってしまう。

 彼らが手にするべきは権利ではなく、

 年相応の社会規範である


2025年5月3日土曜日

「経験が全て」は頭打ちになる

 世の中には他人のアドバイスを一切受け付けず、一向に我流や経験しか重んじない人がいる。好ましくない結果や損失を招いていても、頑なに方法を変えようとせず、さらに事態を悪化させてしまう。それは本人にとっても決して望ましいことではないはずなのに、それでも必死に我流を通そうとする。

 そんな態度では当然人が離れるから、どんどん協力や支援が得られなくなる。あまりの融通の利かなさに最後には孤立して、万事休するのがオチだ。

 大体、我流にしても経験にしても、様々な限界があることに本人は気づいていない、もしくはそれすら受け入れようとしない。なぜ経験のみに頼ると限界を迎えるのか?それによってどんな弊害が起こるのかを紹介する。

①時間がかかり、経験できることの数に限界がある

 当たり前のことだが、人間は永遠には生きられない。必ず寿命があるし、それどころか年を取ると体にガタが来るから、もっと早い段階でリタイアをせざるを得なくなる。20歳前後で社会へ出て、60代で引退するところを見ると、経験を積める期間は半世紀もない。

 しかも、経験して身をもって確認し、そこから何のためらいもなく自然にできるようになるまでには、かなりの時間と労力がかかる。これを毎回やっていたら、一生のうちにマスターできることなんて指折り数えきれるほどしかない。

②選択肢や手段が限られて、臨機応変にできなくなる

 ①の理由で、当然できることが少なくなってしまうので、いかなる場面でも自分が採れる選択肢や手段が限られてしまい、臨機応変に動けなくなる。そりゃそうだ、引き出しが少なすぎて、事態に相応しい解決手段を持っていないのだから。

 人生において常に必要となるのが臨機応変さなのだが、そのためには引き出しが多くないと対処する術を見つけることができないから、ゲームオーバーになってしまう。

③経験は所詮過去にしか基づいていないので、未経験の事態に対処できない

 経験というのは「過去」に自分が体験したことなので、経験を判断基準にするとなると、過去に自分が体験したことと同じ物事にしか対処できないということになる。

 ということは、未経験の事態に関しては手段を持たないから、何もできずに終わることを意味し、その結果損失を被ってしまう。

勉強をし、アドバイスを受け入れる器がある人が上手くいく

 実際に人と上手くやれたり、仕事で実績を残せたり、試験の成績がよかったりする人は、ちゃんと勉強して他人から知識を吸収しているし、アドバイスも素直に聞くから他人からの受けが良く贔屓してもらいやすい。

 さらに、回り道をしないで済むから効率が良く、早く大量にいろいろなことを身につけることができるから、選択肢が多くなって引き出しが増える。その結果、臨機応変さもおのずと出てくるし、できることも増えるから未来を狭めなくて済む。

 経験のみにしがみつかないで、他人の知恵を借りることがいかに人生で重要か、再考できたら未来が開けるだろう。

患者や当事者は所詮専門家ではないし、真実を言わない

 日本において、患者の家族だったり、福祉に関わる初心者だっただりする人が、話を伺う相手としてよく他の患者や家族を選ぶ。本人に聞くのが一番だろう、当事者が一番知っているはずだという考えからの選択だと思うが、ちょっと立ち止まって考えて欲しい。本当に本人だった詳しいのだろうか?果たして本当に、当事者は包み隠さず洗いざらい話しているだろうか?そこに矛盾はないだろうか?

患者や当事者も医者ではないから素人考え

 まず前提の話として、患者や当事者家族に専門知識はない。それは当然である。なぜならほとんどの人は、「専門医」の認定はおろか「医師免許」すら持っていないから。それゆえに彼らの考えは主観や感覚、憶測が中心で、的を射ない素人考えにしかならない。

 もっと言えば、自分は何がわかってないのかすら自分で解明できていないからこそ障害とされているわけだから、本人だってわかりませんと答えるか、当てずっぽうで答えるかにしかならない。ゆえに、こっちが欲しい適切な情報を提供することはできないので参考にならないどころか、間違ったことやデマを伝えられてしまう危険性のほうが圧倒的に高い。

 そもそも医学的な知識を踏まえているという確証はないし、それに納得できているかもわからないし、専門知識を学習するだけの能力を持っているとも限らない。つまり、地雷の要素が山ほどあるのだ。場合によっては、医者とは真逆のことを言う可能性もあるので、話を聞く相手としては適切ではない。

患者や当事者であるがゆえに利害がある

 この利害という点についても見逃せないだろう。医師であれば本人でも家族でもない第三者なので、自分の人生やメンツ、プライド、体裁に係わらないから、どんな知識や情報でも提供することに抵抗がない。

 しかし、こと患者や家族となれば話は別である。メンツ、プライド、体裁、利害に直接係わるので、自分の都合の悪いことは話さなかったり、嘘をついたり、話を逸らしたりする。人間には回避行動と言って自分が不利になる行為を避けようとする習性があるので、都合の悪いことまで素直に話す人は稀である。

 それゆえに患者や当事者、家族は、最も真実を語らない部類の人間といえる。彼らにとって真実を語るのは、危険極まりないことだからだ。

深刻な問題ほど綺麗事では語れない

 だが本当のところ、精神疾患や発達障害、知能のような複雑で深刻な問題については、綺麗事で語れないことのほうが圧倒的に多い。「個性」で片付くものでもないし、「みんな違って、みんないい」と言うならなんで生活や仕事に支障があるのかって話にもなる。もっと言うなら改善しないで生活できるなら、障害とは言わないし。

 そういう活動家や自助グループがよく使う聞こえのいい当たり障りのないキャッチフレーズは、問題から目を逸らすわ、具体性がなくて実際にどうしたらいいという問いの答えになってないし、気休めにしかならないしで、実用的ではない。障害者にも才能があるだの、できることを伸ばしていこうだの、というのもよくセリフだが、それだけで済むんだったらとっくに社会に溶け込んでいるはずだ。

 実際にはトラブルメーカーとなりうる部分が人よりも多いからこういう状態になっているわけで、そこをいかに制御するかも考えないと社会ではどうしてもやっていけない。歯の浮くことばかり言う人は心理的安全性を与えてくれるが、そういう人は相手にショックを与えまいとして耳の痛いことを言うのを避けるために、一番大事なことを教えてくれないので要注意である。

そもそも医学に関係することは医師と研究者にしか決定権がない

 そしてこれはそもそも論の話になるが、医学に関係する物事は医師にしか決定権がないということについても知っておかなくてはならない。というのも、医師法という法律があって、医師以外の人が断定することを固く禁じている。これは患者であってもそうで、だからこそ患者や当事者も勝手な憶測や医科学に乗っ取らない主観のみの物言いというのも推奨されない。

 特に障害受容ができていないと医師の判断に反したことを言うので、うっかり当事者の話だからといって聞いて信じてしまうとキケンである。

矛盾や論理の破綻がないかを疑うことが大事

 なので本当に情報が欲しいと思ったら、患者、当事者や家族に話を聞いてはならない。所詮素人だし、利害に応じて話を変えてしまったり、医師や研究者の指導に従っておらず勝手なことをやっている場合が多々あるからだ。

 さらにその話が真実かどうか見極めるには、綺麗事ばかり言っていないかと、矛盾や論理の破綻がないかで判断できる。つまり消去法で判断するのだ。なぜ消去法かというと、真実かどうかを判断するのは難しいからだ。高度な実験を伴うエビデンスが必要だったり、人間誰でも主観が混ざって完全に客観的な判断をくだすことができなかったりするからだ。

 これに対して、嘘や綺麗事、デマ、勘違いを見破るのは簡単である。相手の矛盾点や論理の破綻があれば証明できるからだ。

 患者や当事者から話を聞きたいというのは、自分の中の決めつけ、固定観念であるし、単なる自己満足でしかなく、本人のためではないということに気付かねばならない。

正しい知識は、免許を持っている人か科学者に聞くしかない

 結局のところ医学が関わる以上、余程のインテリでない限り、素人ごときが医学に即したまともな情報や知識を提供することはない。それは患者や当事者も例外ではなく、当人だからと言って正しいという証拠にはならない。

 むしろ障害であるがゆえ、利害が絡むゆえ、所詮素人であるがゆえ、医学に乗っ取らない間違った情報を伝える可能性のほうが大である。ちゃんと知識を得たいのなら、

 ①医師、研究者を頼ること
 ②患者や当事者の話を聞きたがるのは、自己満足であると心得ること
 ③情報に矛盾や論理の破綻がないか確認すること

を守ることが必須である。

2025年4月29日火曜日

すねかじり根性の国民

 ここのところ、よく年金が少ないから金をくれ、高額医療を受けたいから金をくれ、障害者だから金をくれ、仕事できないから金をくれ、資産運用やる気がないから金をくれ、年寄でデジタル化に消極的だから金をかけろなど、実にたくさんの理由で多くの人が公金を欲しがる姿を見る。

 私からしたら、「他人のお金なのに、よくもまあこんなにたかるもんだ」「こんなに多くの人がたかったら、限りあるお金が尽きるのがわからないのだろうか?」と思うのだが、これらの人はそんなのお構いなしだ。

 実は所得に関係なく、年老いて死ぬまでの生活資金を自分で工面するのは経済的にそんなに難しいことではない。それどころか方法論も確立していて、その通りにやればまず失敗も避けることができる。

 にもかかわらず、多くの国民がそこには目もくれず、公金のみを当てにし浪費している。その姿はまるで芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のようだ。

 ではなぜこの人達のように、人間はこういった情けない行為をしてしまうのだろうか?その謎について紐解いていく。

細かい無駄使いが多く無計画

 前提としてお金に余裕があれば、他人にたかる必要はない。逆にお金をくれということは、貯蓄がないというのを自分で暴露しているわけだ。

 で、お金が貯まらない理由でありがちなのが、単価の安い無駄使いが多いというもの。タバコ、お酒、ギャンブルはあるあるで、菓子、自販機の飲料、服、おもちゃ、外食、ビニール傘、買い食い、グッズ代もあるし、最近だとネトゲの課金、スパチャ、投げ銭のようなネット系の出費もある。これが一つだけならまだしも、気付かぬうちに複数やっていることがしばしばなため、お金が貯まらない。

 そしてなぜこういった出費に気付かないかというと、お金の使い方に計画性が無く、衝動的に物を買ったり、課金したりしているからだ。つまり、お金の使い方に制限やルールを決めていないのです。そうなると出費に対してルーズになり、細かい無駄使いほど気付かなくなってしまうのだ。

依存的なマインド

 この手の人達は、自分の面倒は行政が見るべきと考えている。子供の頃は親が面倒を見てくれていたが、そこから親離れし自立して自分で生活基盤を整えるのではなく、親から行政へ依存相手を変えることで子供時代のマインドを引きずってしまう。

 漠然と誰かが何とかしてくれるだろうというバイアスにはまっていて、将来について具体的かつ真剣に考えておらず、漫然としているからどうしても財布の紐もゆるくなりがちで、先述の無駄な出費も増えてしまう。

ネガティブなものから目を逸らす

 それどころか将来のことを考えてネガティブになるのを嫌がって、見ないようにすらする。そしてそこから逃げるべく行政に泣きつくのだが、さすがに行政だって全員は救えない。行政へ救いを求めるのは泥船である。

 もちろんネガティブなことを考えるのはストレスを感じるし、億劫ではある。しかしこれは自分の将来にとって大事なことで、やらなくていいことではない。そこに目を向けた人はきちんと整えてられているので、できないことではない。ネガティブなことから目を逸らすのは、将来の生活の放棄である。

自分本位で、全体を見ていない

 基本、この手の人は全体を俯瞰してみることがない。自分以外に同じように行政を当てにしている人はいるのか、それが人口のほとんどだったらどうなのか、それを合計したらいくらになるのか、自分の考えは本当に成り立つのか、という視点がまずない。自分にお金がない→行政が建て替えろ、という自分都合の枠内だけで考えてしまっている。

 行政だって金のなる木ではないし、無限にお金を持っているわけではない。さらに言うと、振り分けねばならない先は多岐にわたり、教育、育児、医療介護、インフラ、産業育成、科学学術、技術開発、外交、防災、国防、通信、公安など、例を挙げればキリがない。なので国民の生活費まで面倒を見るなど、普通に考えてあまりに経費が膨大になりすぎて不可能である。このことがわからないというのが実におかしい。

要は甘く見るな、自立しろということ

 結論、安定した生活を送るのはそんなに簡単ではないということだ。人生は常にサバイバルで甘い考えに囚われると、途端に立ち行かなくかる。そのためにも用心と事前準備が必要だし、それは一日二日でできるものではないから、計画的に少しずつコツコツ貯えるしかない。

 他人は自分の思い通りにはならないので、本当に頼れるのは自分しかいない。よって甘さを捨て、自立するのが一番確実で、安全策である。そのために、いかに目先の誘惑に惑わされないよう対策を練るか、自分でできることを増やすか、自分の取り分ではなく皆のことも考えられるか、自分改革が今求められている。

2025年4月22日火曜日

失敗する人=耳の痛い話や不都合な真実を受けつけない人

 世の中には失敗を繰り返す人がいる。転職を繰り返したり、精神疾患の再発を繰り返したり、友達関係が長続きしなかったり、ギャンブル・お酒・たばこ・薬物・ODを止められなかったりなどなど・・・。酷い人だと、夜逃げを繰り返したり、浪費を繰り返して貧困におちいったり、素行が悪くて人々から見放されたりして、自ら身を落として荒んだ人生になってしまう人も少なくない。

逃げ癖のある人が失敗を繰り返す

 こういった人の傾向や共通点はいくつかあるが、その一つに耳の痛い話や不都合な真実など自分にとってネガティブなことを、嫌だという感情だけで拒否してしまうという点が挙げられる。具体的には、本人には必要な厳しいアドバイスや忠告であったり、変えようのない科学的エビデンスのある事実であったり、自分が犯した罪や責任であったり。

 人間、堕落せず、日陰者にならず、自立した大人になる上で欠かせないハードルが必ずいくつか現れ、そのハードルは苦しかったり恥ずかしかったり面倒だったりと楽ではなく厳しいのもだが、失敗を繰り返してしまう人は自分にかかる労力や恥や厳しさから逃避することを選んでしまう

 その癖欲求は人一倍あるので、楽だが確率がほぼ0%の手段or手っ取り早いが悪どい手段or計計画性のない刹那的な浪費に手を染めてしまう。

逃げた分に応じて不幸が待っている

 それで実際に得をしているかというと、そうはなっていない。その場の恐怖やストレス、プレッシャーからは逃れられはしたが、その代償を大きく受けている。貯えが無くて生活苦におちいり食事すらままならなくなっていたり、信用を失い誰からも見放されて孤独死していたり、警察のお世話になり精神科へ措置入院させられ出られなくなったりする人までいる。

「良薬は口に苦し」と「上手い話には裏がある」

 結局、社会へ出て無事に生活しようと思ったら、耳の痛い話は聞けるようにならないといけないのだ。いつまでもイヤイヤ期の幼児と同じ状態をいい大人が続けるのは見ていて痛いし、周囲から呆れられて距離を置かれるだけだ。

 昔の人は良くいったもので、「良薬は口に苦し」の通り自分のためになることというのは、苦痛を伴うものである。だがその苦痛は乗り越えれば消える一時的なもので、避ければ避けるほど永続的に苦痛が大きくなる。反対に上手い話や都合のいい話など存在せず、その代償は一生ものになることが多い。

 だからこそ素直に人のアドバイスや忠告を聞く器の大きさを持たなければならないし、不都合な真実をもみ消すようなことはしてはならない。むしろそこから自己改善のヒントを得て、人として成長するのがあるべき姿だ。

2025年4月19日土曜日

無力感の強い人の要望を聞いてはいけない

 世の中には他人への要求が多い人がいる。しかも一回言うことを聞いてあげると恩義や遠慮というものを知らないから、尚のこと要求がエスカレートして他人がキャパオーバーになるほど迷惑をかける。

 それでいてそういう人に限ってこちらの要求は一切拒絶する。それどころか簡単に人を裏切り、白を切って人を捨て去り、自分の欲求を満たすためなら恩を仇で返すことをいとわない。こういう厚顔無恥な人は何を考えているのだろうか?

要求が増えるのは、相手が従順だと思っているから

 まずは表面的な部分の話をしよう。この手のタイプの人は、何でも他人にやってもらうことを前提で考えている。そう、非常に依存的なのだ。だから、相手が自分の要求を飲むタイプなのかどうか、従順になるのかどうかを判断基準としている。そうやって常に値踏みしているので、いざ相手が要求を飲むとこの人ならばとあれもこれもと要求する。

 その際、相手のキャパシティーやスケジュールなど考えておらず、以前要求が通ったことを踏み台にして強硬に押し通そうとするだけだ。あまりに自己中心的でわがままであるばかりか、相手を奴隷か使用人のようにしか扱っていないので、倫理から逸脱している。

根底にあるのは無力感

 ではなぜ次から次へと要求をエスカレートさせるほど、他人へ依存するのだろうか?それは本人の根底に無力感があるからだ。自分は何もできない、自分には能力がない、自分に才能がない、自分には体力がないなどと言って、自分は無能であると信じ込んでいる。

 しかもこういった人は固定マインドも持っているから、自分は変わらない、運命は変えられない、能力は先天的なもので伸びない、体力は身につかないと決めつけている。実際は多くの物事が自分の選択次第でいかようにも変わるのだが。

 だから他人を当てにせざるを得ず、その一方で相手の要求には自信がないから応えられず、自分ばかり要求する不公平な関係になってしまう。これでは当然周囲は不満を募らせ、怒るに決まっている。

人や環境のせいにするとチャンスを逃す

 さらにこの手の人は固定マインドから責任が自分にはないということにしたがり、相手、環境、親、社会に責任を負わせようとする。それ故に成長やスキルアップ、就職、自活のチャンスを自ら手放してしまう。

 どんな親の元に生まれようが、どんな環境で育とうが、何のチャンスもない人間などいないし(科学的なもの以外、
この世に確率0%ということはありえないから)、大人であれば選択権は本人にあるのでチャンスを逃したのは紛れもなく本人の選択ミスであり、本人の責任である。

無価値感の強い人の要望に限度がない

 以上のことからこういった人の要望を聞くことは、かなりのリスクである。特に人口減少・少子高齢化している以上、金銭と人手の両方が減少をしていっているし、個人レベルで考えても割けるリソースに限りがあるので、全てを聞いてあげるのは無理でいつかは破綻する。

 なので早い段階で相手の要求を断ることが大事で、「仏の顔も三度まで」というのを経験させ、依存関係をこちらから断ち切ることが重要である。

2025年4月18日金曜日

価値がないといけないと思うから苦しい

 よく精神、発達、知的の障害者や生活困窮者が、自分に存在価値がないとか社会貢献できてなくて価値がないと言う。ここで見えるのは、「価値」というものに物凄くこだわりを持っていること。この価値に囚われ過ぎて、より自分のメンタルを悪化させている人すらいる。価値を求めることは、本当は良いことではないのではないか?

価値はTPOによって異なる

 人間を量る際に価値を基準にしがちだが、TPOによって異なる基準が適用される。実績、資産、経歴、親密さ、血縁、ルール、人柄など、その時々で基準は異なり一様ではない。価値を求めるということはこれらで常に良い評価をもらわなくてはならないという発想だし、そのそれぞれが狭き門である。

 このことから多くの人はそれぞれのシチュエーションにおいて、何かしらの無価値・低評価をされることになる。全てのカテゴリーで価値ある人間は存在しないし、そんなことは無理ゲーである。ここに一つ矛盾がある。

生まれたことに意味付けできない

 根本的な話として人間も動物の一つに過ぎないから、受精しさえすれば生まれる。どんな親か、どんな環境か、どんな家庭かは関係なく。この受精に関しては、早い者勝ちで卵子にたどり着いた何万という精子の内の一つと結合するわけで、運でしかない。そしてその卵子と精子には親の遺伝子が入っているので、子供の特性は両親の範疇から出ることはない。つまり何か外的要因や神の思し召しなどが働く余地はないし、人間の意図を汲み取って子供を生むことも不可能なので、出生自体に特段の意味は無い。

 しかし、こういった自然科学に乗っ取った事実に対して、身も蓋もないと思ったりロマンが無く無機質に感じられたりする人には抵抗感が半端なく、出生に価値や意味付けをしたがる傾向が見られる。ただそういった意味付けは現実とは一切関係なく、全て後付けであり、空想・ファンタジーの中でしか成立しない。

 それ故現実とのギャップが生まれて失望の原因となるし、永遠に答えが出ないので悩みが終わることが無く、脳疲労が悪化しメンタルに障害をもたらしてしまうので不健康である。なので「生まれたことに価値がある」という意味付けも、健康上得策ではない。

価値の有無を基準にすると、無価値感がある人の否定につながる

 もう一つの問題として、価値の有無で人を量ることは、自己否定感を持っている人や無価値感を抱えている人は存在してはいけないことになってしまう側面がある。「どんな人にも価値がある」とか「生まれたことに価値がある」とかのような、よくある慰めや耳触りのいいセリフを言われても自分はそうは思えないし虚しいという人もいるので、そういう人にとっては存在否定になってしまう。

価値で考えること自体が無意味で必要がない

 そもそも価値という一つの括りで量っている点で型に囚われているし、視野が狭くなっている。価値などシチュエーションによって高くもなるし、低くもなる。人生は常に一定ではないので、後天的に価値を創造することもできる。このことから一人の中に複数の価値が存在するので、価値のあるなしで考えること自体無理がある。

 人間が生まれるというのは生物学的に受精したという以外に事実は存在しないし、その結果生まれただけで生存しうる。それ以上の意味付けは必要がなく、意味や価値が無くてもご飯は食べれるし、仕事もできるし、遊ぶこともできる。だから価値など無くていいし、価値がないと考えたほうが余計なプレッシャーを掛けなくて済むからメンタルには良い。実際そういったことを手放せた人ほど悟りを開いて、人生を好転させている。

 人生で大切なのは害にならないことであって、価値があるかどうかではない。無価値でも構わないというスタンスをベースにして、何か叶えたいことがあった時に自分が成長することで積み上げていけばいいのだ。価値に関係なく、人生は自分で作れるというのをまずは知ろう!

2025年4月15日火曜日

確認、賛同を「共感」と勘違いする人が多い件

 最近、精神科医療にしても社会福祉にしても「共感」という単語が多用されている。しかし文脈を考えると、明らかに共感とは違うものを指していると気付くケースがよく見られる。つまり共感という単語の意味をよくわかっておらず、取り違えているのだ。これではコミュニケーションの齟齬が生まれてしまい、新たなトラブルの火種となりかねない。そこで今回はこの共感という単語における勘違いについて解説する。

「共感」とは

 まずは共感の本当の意味を知らないと話にならないので記しておくと、「他人の考えや感情に対して、立場や生き方の違う人が同じように感じること。同感。」(旺文社国語辞典)ということである。

「共感」の問題点

 ここで問題となるのは、「同じように感じる」の部分。ここが非常に曲者で、ここの解釈が全ての問題の発火点になっている。さらにこの問題は三種類存在することも、意味を取り違える切っ掛けとなっている。

①単語の意味を何となくでしか知らないケース

 そもそも多くの人は、単語の意味を正確に把握することなく何となくで覚えて、使っていることが多い。単語を覚えるのにいちいち辞書を引くのは面倒なので、日常会話の中で使われた際に推測し、こんなもんだろうとしていることが大半だ。

 なので、推測がズレていれば当然間違って使うことになるし、何なら周囲の人が間違って使っていたら自分も間違って覚えることになる。

②今現在同じように感じようとしているか問題

 意識の部分においても問題点は潜んでいる。お世辞、口裏合わせ、建前、その場しのぎのケースだ。このケースでは口では共感してることを装っているが、内心は全く別のことを思っているわけで、明らかに同じようには感じていない。

 だがこのケースであっても共感という単語を用いている人が散見される。何なら医療福祉の現場ほど見られるかもしれない。患者や障害者が激高して癇癪を起したり、反対に消沈して無気力になることを防いだりする際の一時しのぎとして発生しやすい。

③そもそも人間の能力的に同じ感覚を得るのは可能なのか問題

 全ての人間は他人と同じ人生を歩むことはできないし、双子であっても寸分違いなく同じ経験をすることはできないので、同じ話を聞いても解釈や想像するものに必ず差異が生じてしまう。このベースがある以上、同じように感じるのは不可能であるにもかかわらず、共感と言われても誰もできやしない。仮にできたとしても、他人の頭の中を覗くことはできないから、合っているかどうか確認ができない。

実際に勘違いしているケース

 では実際にどのような状況でこの共感の誤用が見られるのか見ていく。

①医療福祉の場で言う「君はそう思ったんだね」の返答

 これを共感という医師や福祉支援者が多いが、間違いなく誤用である。その証拠にこの後に続く内容が、「でも、それでは上手くいかないよ」「それはわかるけど、相手には相手の思うところがあるからね」というように同意をしていないし、反論が待っているからである。つまり、腹の中では「そうじゃないんだけどな・・・」という思いがあるので、同じようには感じていないことになる。

 ただし、「君はそう思った」という事実は受け止めているので、この場合は事実「確認」をしているというのが正しい。

②SNSや友人からの「いいね」

 この「いいね」も共感と勘違いしやすいケースだ。というのも、相手が自分のことをどれだけ把握しているかわからないし、何より相手は相手の尺度で判断してるからだ。それは自分の尺度とは異なるので、見ているもの想像しているものも異なっており、同じ感覚とはとても言えない。

 このケースの場合は話の趣旨に「賛同」しているのであって、同じ感覚を得ているわけではないから共感と言うのは誤用である。

言葉を間違って使うと、存在しないものに期待が生じ人生が詰む

 大体ここ近年、共感と言う単語を乱用し過ぎていて、相対的に価値が下がっている。しかも単純思考の人間は単語の本来の意味を考えずただ流行に乗ろうとするので、誤用に気付かずに鵜呑みにしてしまう。結果現実的には矛盾を含んでいて存在しないものに期待してしまい、ダブルバインドにおちいって身動きが取れなくなるか、永遠に無い物探しをしてしまいざま様なものを棒に振る。

 それは青い鳥症候群の始まりであり、これで人間関係や仕事でトラブルを生じさせたり、精神疾患におちいったりする人が如何に多いことか。多くの人が「共感」という言葉の本質を理解しておらず、存在しないことに気付いていない。そこには他人への幻想と依存も含まれていて危険な要素が満載だ。それを望み続ける限り、人生が詰んでしまうのは避けられない。人生を好転させたいなら、共感を手放し自分で自分を満足させる方法を見出さなければならない。

2025年4月4日金曜日

恐れ守りに入ると行き詰まる

 ここのところ現状に不満があり社会に対して文句を言いながらも、自分に対しては何もしない人々が多いと感じる。例えば年金なんかは支給額が少なく、それだけでは生活費が足りないのが何十年も前からわかっているのに、何もしていない人がどれだけ多いことか。それを政府のせいだとか政治家のせいだといったところでお金が増えるわけではないので、ただの負け犬の遠吠えにしかならないし、だったらその足りない分をどうやって穴埋めしようか手を打てばいいのにそれはしない。数多くの人が同様の失敗を無数にしているのに、なぜそれを反面教師として行動しないのか。

遠くの損益を過小評価する性質

 年金を納め始めるのが20歳前後で通常65歳で受給し始めるので、その間が約40年ある。40年もあると、人間はかなり先の話だと考えやすい。それどころか10年でも先の話と考える人も少なくないだろう。この先の話という感覚は人間の危機感を鈍らせ、先延ばしを誘発させやすい。そのためまだ大丈夫、どうにかなるだろうと現状維持へ流れてしまう。これは遠くの損益はイメージしにくいために過小評価してしまう人間の性質から来ている。

 この性質に流されると直近になるまで危機に鈍感で、気づい時にはタイムオーバーで手遅れになってしまう。これが今の多くのお年寄りや労働者に起こっていることなのだが、時すでに遅しな上、そんな前の選択が今の状況を作ったと思っていない、もしくは思いたくないから政府や政治家のせいにしているのが本質だろう。

お年寄りがやらずに後悔していること

 お年寄りが若い内にやらずに後悔していることを色々なアンケートで目にするが、その中で必ず見かけるのが「もっと挑戦すればよかった」というものだ。勉強すればよかった、投資をすればよかった、独立開業すればよかったなどなど・・・。私からすればやればいいじゃんと思うだけなのだが、日本人の口からよく聞かれるのが「そういう時代じゃなかった」「親の権限が強かった」「みんながそうしてたから」という台詞だ。従わずに挑戦すればいいんでないの?自分の人生は自分にしか決定権はないので他人がどう言おうが関係ないと思うのだけど、口をそろえてこれを持ち出す。さも、私の責任ではないと言いたげに。

 でも実際は本人もわかっていて、だからこそ出たのが「もっと挑戦すればよかった」なのだ。結局失敗への恐れからどうしても人間は守りの姿勢を取りがちで、危険回避のために周りと歩調を合わせてしまう。歩調を合わせた結末は周囲を見ると
イメージしやすく、大外れしてなさそうだからと安心できるので、心理的安全の本能に従って選択してしまうのだ。

 しかし実際はそんなに人生は容易ではなく、予想に反してシビアだった。生活費が足りない、養育費が足りない、医療介護費が足りないなどの事態に見舞われ、挑戦して収入を増やしていればという後悔の念にさいなまれている。

恐れの感情に従うことこそ最大の損失

 正直失敗はリカバリーすることで対処できるので、いくらでも対処挽回できる。しかし恐怖から何もしない、挑戦しないというのはアクションがないので勇気以外に対処しようがないし、何も生まないため100%損失しか出さない。それどころか恐怖心に囚われるのは思考力の低下やそれによる判断力の低下を招くので、衝動的になったり下策な行動をとったりして、対人関係も含めてより悪い結果を招くこともわかっている。こうなっては人生が行き詰まってしまう。

 だったらいっそのこと挑戦したほうがやらぬ恐怖や後悔を感じなくて済むし、失敗させまいとガムシャラになるので自ずと結果もついてきて精神の安定までもが得られる可能がある。恐怖心を抱くのは本能なので仕方がないが、それに従って守りに入るのは選択ミスであり、新たな恐怖の始まりであることを納得しないといけない。恐怖心から抜け出せるのは挑戦だけなのだ。

南米の旺盛な実行力

 あまり知られていないが、実は最も挑戦心が強いのは南米だそうだ。起業する人の割合が非常に高く、スキルアップのための学習意欲も高い傾向にある。その背景にはラテン気質で楽天的なのと、発展途上で経済が盤石ではない上に社会保障も十分ではないため、自分で稼がないとどうにもならない事情もあるだろう。とはいえその実行力は大いに手本にしたいところだ。

 それに引き替え日本は下手に経済基盤と社会保障があるため、挑戦するほうがデメリットに感じられやすく、意義を見出しずらい。しかし物価高と少子高齢化している以上、今までのような生活は維持できない。なので自分で収入源を確保しなければ、生活苦は必至である。そのためにも収入確保するべく、いざ挑戦を!

2025年4月1日火曜日

社会運動・リベラルがいつも失敗する理由

 ここ近年SNSやニュース、評論などを見ていて、DEI、LGBT、WOKE、BLMなど、様々なリベラル派社会運動が後退・縮小・撤廃を余儀なくさせられている。全ての人を受け入れるという大層なお題目に反して、多くの人から反目され、退場させられてしまっている。なぜこのような運動は、ことごとく拒絶されたり頓挫したりして失敗に終わるのだろうか?こうも同様に失敗するということは、何か共通する理由があるのだろう。

リベラル運動の建前

 失敗理由を探る前に、ここ近年のリベラル運動とはどういうものか、概要を説明する。多様性(diversity)、公平性(equity)、包括性(inclusion)の理念の下、性的マイノリティや異人種、異宗教などを一つのコミュニティで共存させるのを理想とする考えで、非常に理想主義的で、「こうでなければならない」とか「こうあるべきだ」というべき思考や完璧主義の性格が強い。

 ただここ最近はこの中の公平性の部分が平等性(equality)に置き換わっていることが多い。特にこれまでは機会の平等に視点を置いていたのが、結果の平等を欲するようになった。これにより、建前と活動実態に乖離が生じていることが否めない。

失敗する理由

 ではここから失敗する理由について挙げていく。ここには彼らならではの失敗理由が多く含まれるので注目だ。

①なんでも「限界」があるということがわかっていない

 その一つがお金と人員の計算ができないことだ。正確には、彼らの願望は採算を一切度外視しているということ。国民だけでなく移民や外国人にも手厚い福祉を望んでいたり、どのようなマイノリティにも懇切丁寧なサポートを要求している。そのためには無限にお金と人員確保が必要となるが、いずれも有限であり遅かれ早かれ尽きてしまう。

 殊、福祉に関しては膨大なお金がかかる。しかも福祉は製造業でもなければ金融業でもなく逆に消費しか生まない分野なので、お金が減る一方で循環しないから経済は縮小して、余計に資金繰りが悪化する。そこに無制限にお金を要求していてはいくらお金があっても足らず、いつかはショートして破綻せざるを得ない。

 特にここ近年の日本は少子高齢化で年々人員確保が困難になるのは必至である。どんなに給与を上げたとしても、求職者自体が減っていくのだから人員は枯渇する。彼らの言う通りのサービスを提供しようものなら職場のブラック化をせざるを得なくなり、退職ドミノが発生して(既に起こっている業種もある)人員面での需要と供給のバランスが崩壊してしまい、むしろ見殺しになる人が増えてしまう。

 つまり彼らの望むことは、無限にお金と人が生まれる非現実的な世界でないと成り立たないので、努力に関係なく最初から実現不可能なのだ。

②多様性によるカオス化とジレンマ

 彼らの重要な主義の一つに多様性があるが、正確には「全て」を内包しようとしている。この「全て」というのが曲者で、人となりを考慮せず無制限に加えているから内実は玉石混交である。その中には決して褒められたものではない人物を含んでおり、評判を落とす原因になっている。

 しかも主義に反するためそれらの人を切り捨てることができず、むしろ重点的に保護すべしとしている。それならそれできっちり処断して監督してくれなければ困るのだが、弱者を盾にされると事なかれ主義に逃げて、腫れ物に触る対応をし、断罪できず野放しにしてしまう。その他大勢からしたら、はなはだ迷惑且つ無責任でしかない。

③主義の押し付け

 本来主義にしてもポリシーにしても、自分個人の問題なので他人には関係なく、自分の中だけに留めておくものなのだが、彼らはこれを他人にも押し付ける。他人も自分とお内容に考えて従ってほしい、そうしてくれないと不安だからと。

 ここに彼らの矛盾があって、主義というのは自分がどうありたいか問うものなので、自分の価値観の問題であって他人は無関係で必要ないのに、勝手に介在させてしまって勝手に不安になっている。さらに危害が及ばない限り他人がどうしようと他人の勝手にもかかわらず、不安解消のためだけに他人の思考や行動をコントロールしようとしていて、他人の自由を奪っている。

 これは相手からしたら束縛でしかなく嫌悪するのは当然だし、リベラルが主張する個人の自由とは真逆の行為だ。内容如何にかかわらず、そのような押し付ける態度や行動をとられたら、人は離れたくなるものだ。

④テイカー気質

 彼らの主張の共通点として、何かの要求に終始しているというのが挙げられる。つまり常に受け身で、もらうことばかり考えていて、お返しがない。ギブアンドテイクが成り立たないテイカー(クレクレ星人とも言うが)であるということだ。しかしそんな関係は平等・公平を欠くので、いつか相手から断たれる。当然あげてばかりの人からしたら損でしかないので、自分を守るために手を切らざるを得ないからだ。

⑤耳の痛い話から逃げる

 中にはそんな彼らに対して忠告する人もいるだろうが、まず耳を貸さない。彼らにとって耳の痛い話だからだ。そこに耳を傾けることは自分の過ちを認めたり、嫌いな自分像を見たりする必要があるので未熟な彼らにとって恐怖でしかなく、受け入れがたいからだ。

 すると周囲の人は彼らの不誠実な態度に幻滅するから、善意ある人まで呆れさせて離れていってしまう。

失敗の否認→責任転嫁→嫌われる

 その結果社会的孤立がどんどん加速し、望んだ方向とは真逆に進んでしまい、ついには
失敗する。しかし前述の耳の痛い話から背ける気質があるので、それも認めようとしない。なので彼らはどこにやり場を求めるかと言ったら、またしても他人や社会や政治なのだ。つまり責任転嫁を永遠に繰り返すのだ。

 多くの人はそうだろうが、責任転嫁されたら腹が立つ。当然彼らのファンになるどころか敵とみなすだろう。こうやって彼らはまた今日も懲りずに失敗から逃げ、嫌う人を順調に自分の手で増やしていくのだ。