近頃、「平等」のあり方について議論や口論の火種になることが多い。おおむね左翼は結果の平等、右翼は機会の平等という異なるスタンスをとっていることで、対立に発展する。その根底には、左翼の場合
世の中には弱者がいる → 負けるのはいつも弱者 → 弱者ばかりが損をする → 弱者も得したい → 正攻法では勝てない → 特例で結果を補正 → 得を享受 → 平等
というのがある。一見良さげに見えるし、みんなが利益を享受できる良い考えに感じることだろう。
これに対し右翼は、
特例を設ける → 結果を補正 → 過程を無視した不公平 → 倫理違反 → 結果の補正に反対 → 公平なルールを → スタートラインをそろえる → 平等
といったロジックを持っている。これだけ見るとどちらにもそれなりの正当性があり、甲乙つけがたい感はある。
結果の平等は不公平なルールを押し付ける
これだけではどちらがいいかイメージできないと思うので、わかりやすくするために100m走にたとえる。左翼は、自分は脚が遅いから自分だけ50m先からスタートさせてくれと主張していて、右翼はそれだと100m走ではないからズルい、スタートを合わせてちゃんと100m走れと言っている構図だ。
脚が遅いのであればトレーニングするなり、シューズの開発をするなりが真っ当なのだが、その意欲がないから自分だけ特例を設けさせて競技自体を変えようとする。いかに左翼が自分勝手で卑怯な要求をしているかがわかるだろう。
本来差ができて当然、差ができることが醍醐味である分野に結果の平等を求めると、こういう不公平なルールを適用することになる。もっと言えば、その不公平なルール自体がプレイヤーごとの差を生み出しており、平等から遠ざかっている。
そうなると真っ当にトレーニングして実力をつけてきた人からしたら、その期間が無駄になるので理不尽極まりなく、怒りを覚えるのは当然だろう。
仕事ではこれがさらに反感を生む
一般人に身近な仕事においては、これがもっと顕著な軋轢を生む。仕事の量や重さが違うにもかかわらず報酬が同じだったら、多く仕事をした人がその労力が報われなくて怒るのも当然だろう。給与に差をつけないと反感を買って辞められてしまったり、やる気を失って何もしなくなったりして、職場は戦力ダウンしてしまう。これが製造業で起こった場合は、イノベーションが起きないし、生産スピードが落ちて納期が遅れるしで、売り上げも立たなくなる。
それどころか一人頭の仕事量がその分増えるので過重労働になっていくし、それを回避すべく皆こぞって退職するようになる。そして一旦退職ドミノが起こると、もう止めることができず職場は崩壊する。なので、報酬の格差を設けることで頑張った人に満足してもらい、戦力でい続けてもらえるよう計らう必要がある。
結果の平等=頑張るほど損なシステム=怠惰になる
結局のところ結果の平等を求めると、頑張った人ほど報われないから実力者は立ち去ってしまう。実力者がいなくなって目の上のたんこぶがとれるから一瞬胸がスカッとはするが、残るのは有象無象ばかりだし、余計な仕事を引き受けても損なだけだから、押し付け合いばかりするようになる。そのうちそれも疲れて職務放棄をするようになり、怠惰になるだろう。
実際にこれをやって見事に失敗したのが、冷戦期の東側共産主義諸国である。案の定国民の労働意欲を奪い、イノベーションも大して起こせず、貧困におちいって例外なく自滅した。東ドイツの乗用車トラバントは33年間たいしてモデルチェンジをしなかったどころか、そんな時代遅れの車でありながら納車まで年単位でかかるという体たらくだった。
車以外でも、市場に行っても食料品は常に品薄だったし、コルホーズやソフホーズといった集団農場経営もことごとく失敗に終わった。結局、誰もが人よりも苦労を背負うのが嫌だったし、個人の功績関係なく何でもみんなで分け与えるシステムだったばかりに、働かなくても等しくおこぼれをもらえるので、働かない方が得になってしまった結果だった。
格差こそが意欲を掻き立てる
結果の平等を強いた共産主義が見落としていた点は、人間の欲求だ。そして人間には様々な欲求があり、それが行動を起こす動機になるのだが、その中で最も見落としていたのが承認欲求だ。結果の平等は個人の頑張りを評価しないので、この承認欲求を満たせない。だから意欲を奪ってしまう。
これに対して個人の頑張りを評価するために他者と格差を設けることで承認欲求を満たし、労働意欲を掻き立てようと図るのが資本主義だ。今や全世界で資本主義に転換してしまったのも、多くの人にとって格差あることで自分を満足させられ、自発的に仕事に励むようになるからだ。これによって経済活動が活発化し、より多くのお金を循環させることができる。
この格差が人を納得させ、意欲を掻き立てる原動力になるのだ。